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聖霊を与える
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」。 (ヨハネによる福音書14章15~17節)
今回取り上げるテーマは「聖霊を与える」なのですが、聖霊って何なのでしょうか?実はこの事は、僕が学生時代に悩んだ事の一つです。学生時代、聖書研究会を作って仲間のメンバーと色々聖書について学んでいたのですが、そこには色々な教派のクリスチャンが集まっていました。聖書の教えのメインの柱の所では意見が一致しているのですが、細かい点となるとけっこう意見が食い違うのですね。よく三位一体という言葉を聞くと思いますが、これは一人の神様の中に父と子と聖霊の三つの性質が存在していることを表しています。その中の父と子の性質については意見が多くの部分で一致するのですが、聖霊となるとけっこう違いが出てくるのです。一例を挙げると、「聖霊に満たされた人は、初代教会でペンテコステで起こったように、異言を語るはずだ」と言う意見がありました。その人は、実際にそう言う主張をする教派の礼拝に出席したところ、実際にその教会の信徒は、取り付かれたように意味不明の言葉(※彼らはこれを"異言"と表現します)をしゃべり始めて、かなり独特かつ異様な雰囲気になったそうです。そう言う状況を目の当たりにして、彼は「聖書の記述では、初代教会で起こったことだし、今の時代にもそう言う教会があるのだから、聖霊に満たされると異言を語るはずだ」と主張しました。しかし不思議な事に、異言が語られるのはそう言う教義を主張している教派でだけ起こって、他の数多くの教派ではそう言うことは起きないのです。事実、僕もクリスチャンとしての生活が短くはないと思いますが、周囲でそう言う人を一度も見た事がありません。
そう言う状況を批判的に感じていた一方で、その頃の僕はどうだったかと言うと、聖書が聖霊についてどう述べているのかについては確信がありませんでした。洗礼を受けてからまだ2~3年の未熟なクリスチャンでしたから(今でもあまり成熟していないですけれど)、それに対する僕自身の考えはあやふやと言うか、よく分かりませんでした。聖霊について、何となく分かったつもりでいたけれど、突き詰めて考えるとあやふやだと言う事が分かりました。聖霊は、天の父と子から私達のところに遣わされて、私達と共にいて、私達を成長させてくださる。それは、毎週の説教や聖書の話や体験によって分かっていたつもりだったのですが、しかし、聖霊が具体的にどのように私達と関わっているのか、どう言う働きをされるのか、論理的に述べよ-と言われても、きちんと答えられない。先ほどの例で言うと、聖霊に満たされた信仰心の厚い人が異言を語ったり、また癒しと言われる奇跡的な業を行うなら、僕も僕の周りのクリスチャン達も、十分に聖霊に満たされていないことになる。異言も語らないし、癒しの業も行えない僕ないし周囲の多くの信仰者は、信仰心や祈りが足りないと言う事になる。世界中の多くのクリスチャンが、僕と同様に聖霊の恵みを受けていないことになる。とてもおかしいことだと思うのだが、どの辺がおかしいのか、聖書の言葉に基づいてきちんと説明できない…。それ以来、「聖霊の働きって何だろう」と考えるようになりました。聖霊について、聖書の言葉から学んでみたいと思います(※これは特定の教派の教義を批判するために書くものではありませんし、逆に特定の教派の聖霊論を書こうという趣旨のものではありません。自分自身の聖霊観を聖書の記述から確認するために書いているものです。趣旨をご了承下さいませ)。
〈旧約聖書の語る聖霊〉
旧約聖書においては、「神の霊」はいくつかのパターンで表現されています。その内の一つに「風」のイメージがあります。列王記・上19章11節で、「見よ、その時主が通り過ぎていかれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた」と語られています。新約聖書でも、やはり風に象徴されています。「風が吹いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれたものも皆その通りである」(ヨハネによる福音書3章8節)。この様に「風」に象徴されるイメージは、神の到来や臨在を告げるものです。
また神の「息」と言う表現もされます。神の息は、生命の息であり「いのち」を与えるものです。創世記を初めとして、神の霊が神の言葉と共に被造物に生命を与えるものとして描かれています。新約聖書でも、こう書かれています。イエスは「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(ヨハネによる福音書20章22節)と。
聖霊は「風」や「息」のイメージで語られていますが、神とは別個の人格ではなく、神御自身が霊を「わたしの霊」と呼びます。または「主の霊」と表される事もあります。エゼキエル書36章27節には「また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」とあり、イザヤ書63章10節では「しかし彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめていた」と語られています。
この主の霊は、神の預言と結びついています。サムエル記・上10章6節には、「主の霊があなたに激しく降り、あなたも彼らと共に預言する状態になり…」と書かれています。さらに、霊は、人に悟りを与え、教え、導くものとしても描かれています。
聖霊とは、神の「臨在」や「働き」そのものを示し、神自身と区別して語ることができないものです。神の言葉と共に働いて、私達を悟らせ、教え、導く存在だと言う事を、旧約聖書から学ぶことができます。さらに旧約聖書に登場する預言者達は、救い主の到来と共に、その救い主によって「終わりの時に人に注がれる」「新しい霊」について語り続けました。ヨエル書3章1節には、「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」とあります。このように、新しい時代にはすべての人に聖霊を注ぐ、と旧約聖書において約束していたのです。
〈新約聖書の語る聖霊〉
次に、新約聖書で描かれる聖霊の働きを見ます。新約聖書は、聖霊の時代の到来を語りますが、実はその働きそのものにおいては、旧約聖書の時代と比較して大きな違いがある分けではないようです。ただし、私たちとの関わりの部分で大きな変化と言うか、進展が見られます。
① まず聖霊は、キリストを信ずるすべての人々に注がれる、と言う事です。エフェソの信徒の手紙1章13節に「あなたがたも、またキリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そしてそれを信じて約束された聖霊で証印を受けたのです」とあります。キリストの福音を聞き、それを信ずるキリスト者には、聖霊が注がれると言っているのです。それを象徴的に表すのが、ペンテコステの出来事でした。会堂内の一同が聖霊で満たされて、あらゆる国の言葉で話し出したのです。これは、神の国の福音がすべての国へ広がっていく事を示す象徴的な出来事でした。ペンテコステの事件は、新約聖書の中でさえ極めて異例で特別な出来事でした。このペンテコステ以降、聖霊はキリストを信ずるすべての者に注がれていくのです。
では、聖霊は、いつ私たちに注がれて働くのでしょう?聖霊は、神の言葉と共に働くと何度か述べました。つまり聖書の言葉を読んだ事も、聞いた事も無い人が、突然雷に撃たれたかのように閃いて、「キリストは救い主だ!神の子だ!」と悟る事は無いわけです。新興宗教の教祖と言われる人々は、ある日突然「神のお告げを聞いた」と言って、宗教活動を始めます。しかし、聖書はそう言う事は無いと言います。神様の御旨(※神の考えや計画)は、旧約・新約聖書にすべて書かかれてあり、付け加える事は何も無いのだと断言しています(聖書に新たに付け加える者には災いがあるとさえ言っています/ヨハネによる黙示録22章18節)。神の霊に取り付かれて、聖書の言葉以外に新たに付け加えて神のお告げを語るとか、そう言う事は無いのだと聖書は言います。例えば、現代社会でもあちらこちらに「私がキリストだ」、「いや、私こそがキリストの生まれ変わりだ」と言って、神の新たな言葉を授かったと言う人々が現れますが、ことごとく彼らは偽者なのだと言うことです(キリスト御自身が、聖書で偽キリストを警戒しなさいとも言っています)。
聖霊は、そう言う風には働かないのです。神様の言葉である聖書の言葉に触れる事無しには、神の御心を知ることはできないのだと、聖書は語ります。人間である私は、聖霊が「何時何十分に注がれた」と言う事を具体的に知る事はできませんが、聖霊は聖書の言葉と共に働かれると言う確信を持っています。風が木々の葉を揺らした時に初めてそこを風が通った事を私たちが悟るように、キリストの言葉を聞いてキリストを救い主と信じた時に聖霊の働きを悟ります。
② 新約聖書の語る聖霊の働きの2つ目は、注がれた聖霊はずっとわたし達と共にいて下さる、と言う事です。「あなたがたは自分が神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいる事を知らないのですか」と書いてあります。神の霊は好きな時にやって来ては通り過ぎていくお客さんなのではなく、「住んで」おられるのだと聖書は言います。神の霊が、離れることなく、常にわたし達と共にいて下さる-これは、大きな慰めではないでしょうか?
③ 3つ目の働きとして、聖霊は、神と人とを結びつけて下さる、と言う事です。テトスへの手紙3章5節には、「この救いは聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです」とあり、ローマの信徒への手紙8章15節には「あなたがたは人を奴隷として再び恐れ陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」とあり、またコリントの信徒の手紙Ⅱ:3章18節には「わたしたちは、皆顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に作りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」とあります。コリントの信徒への手紙Ⅰ:6章11節「しかし主イエス・キリストの名と、わたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされているのです」。ローマの信徒への手紙8章26節「同様に"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちは、どう祈るべきか知りませんが、"霊"自らが言葉に表せないうめきを持って、執り成してくださるからです」。
聖書のいくつかの個所を読みましたが、聖霊は、私達を新しく生まれさせ、神の子として下さる、と書いてあります。そして、キリストと結びつけてキリストに似たものとなるように成長させて下さり、罪の中にありながらも、"聖"とし"義"として下さいます。どう祈ったら分からないような辛い時には、言葉に表せない"うめき"を持って執り成して下さる弁護者でもあるのです。それが聖霊だと、聖書は語ります。
〈一人の人生を通して聖霊を見る〉
僕は長年ある野球チームのファンなのですが、そのチームで活躍したある外国人選手の経験について述べたいと思います(そのチームや選手が嫌いな方がいらっしゃるといけないので、両方とも匿名にさせていただきます)。彼は、外国から来たいわゆる「助っ人」外人です。しかし、彼は野球で好成績を残しましたが、野球のプレーでだけチームに貢献したのではありません。ファンからもらったプリクラシールをヘルメットに貼ったり、有名人の物真似をしたりと、旺盛なファン・サービスも決して忘れない選手でした。ずっと後に知ったのですが、彼は熱心なクリスチャンだそうです。テレビのインタヴューでは神様への感謝やキリストの事も語っていたのだと思いますが、そう言うシーンは全部カットされてしまい、おどけた面白いシーンしか放映されていなかったのですね。
彼は、13歳の頃、既にストリートギャングの一員だったそうです。片手に銃を持ち、事ある毎にケンカをしていました。周囲に手本になる大人は、ストリートギャングしかいませんでした。彼らは、ケンカ、酒、タバコ、そしてドラッグ(麻薬)を売ったり買ったり。彼の母親も、なんどかボーイフレンドを変える始末で、息子の彼はストリートギャングへの道をまっしぐら。スポーツの才能があったのに、それを開花できる環境にはありませんでした。
そんな中、彼の母親が新しいボーイフレンドに会いました。そのボーイフレンドは現在の彼の義父ですが、当時、家族全員が「こんな状況ではいけない」と危機感を持ったそうです。母も、息子である彼も、弟も、母のボーイフレンドも。全員、キリスト教信仰とは無縁でしたが、「教会へ行こう」と決心しました。不思議です…キリストの言葉も、聖書の内容も知らない…でも、教会へ行こうと決心した。4人は教会に行き、聖書の言葉に触れ、キリストの十字架の意味、罪の赦し、復活と永遠の命の約束を知りました。これを機に、彼の人生は180度変わりました。
彼は少しずつ変えられていきました。視点が180度変わっても、元来の気性や周囲の劣悪な環境が180度変わるわけではありません。彼は、相変わらずケンカっぱやかったり、試練の時が与えられたりしましたが、神様は人生の中で少しずつ彼を成長させられました。彼はこう語ります。「聖霊が僕の内側に入ってくださって、僕はだんだんと簡単に悪いことができないようになっていった。それが罪であると、聖霊が教えてくれるからだ」と。
彼は、努力が実ってメジャーリーガーとなり、その後日本でもプレーすることとなりました。彼は、自分の野球のプレーで「キリストの栄光を現そう」と考えるだけでなく、実際に言葉においてもキリストの福音を語り続けます。メジャーリーグにおいても、日本においても、球団経営者にどんなに煙たがられても、はっきりとキリストの福音を語り続け、忙しい中、日本の教会では奨励の説教もしています。彼はその年のホームラン王となり、そのチームを日本一へと導く立役者となりました。
今たまたま、とある一人の人生を通して聖霊の働きを見ましたが、聖霊の働きは聖書に書かれた空想物語の文章ではなく、聖霊は実際に生きた人々の人生に働かれていると言う事を述べたかったのです。聖霊は、キリストを信ずるすべての人々に注がれ、その人とずっと共にいて下さり、私達を神様に結び付けて下さり、私たちが弱い時には執り成してくださり、一生を通じてキリストに似た者となるように成長させてくださるのです。
このページを読んだあなたがまだ聖書を読んだ事のない方でしたら、ぜひ聖書の言葉に触れ、そこに書かれたキリストの福音を知り、聖霊の恵みに与れる日が来る事を願って祈っております。