日本キリスト教史


日本キリスト教史(にほんキリストきょうし)では、日本におけるキリスト教の歴史とその展開について述べる。日本の宗教全般については日本の宗教を、世界のキリスト教の歴史については、キリスト教の歴史を参照のこと。

目次


概要

日本にいつキリスト教が到来したか?ということに関しては、ネストリウス派キリスト教(中国景教と呼ばれたもの)が5世紀頃、秦河勝などによって日本に伝えられたとする説・研究がある。ただし、歴史的証拠や文書による記録が少なく、はっきりしない点も多い。

歴史的・学問的に見て証拠が多く、日本史教科書などで、キリスト教の日本への最初の伝来とされているのは、カトリック教会の一派、イエズス会フランシスコ・ザビエルによる布教である。戦国時代のさなか、1549年のことであり、当初は、ザビエル達イエズス会の宣教師のみで、キリスト教布教が開始された、とされている。


宣教師たちは、日本人と衝突を起こしながらも布教を続け、時の権力者織田信長の庇護を受けることにも成功し、順調に信者を増やした。しかし豊臣秀吉安土桃山時代には、勢力を拡大したキリスト教徒が、仏教徒や神道徒を迫害する事例が増え、これを憂慮した秀吉は、バテレン追放令を発布し、宣教を禁止したという。しかし、この時は南蛮貿易の利益が優先され、また下手に弾圧すると、九州征伐で平定したばかりの九州での反乱が考えられたため(当時の日本では、特に宣教開始の地である、九州地方キリシタン大名や信者(キリシタン)が多かった)、本格的な追放は行われず、宣教活動は半ば黙認されていた。だが、サン=フェリペ号事件が起きたころ、秀吉はキリスト教の本格的な弾圧を開始した


やがて時代が移り、関ヶ原の戦いで勝利を収めて豊臣に代わって、天下統一を成し遂げた徳川家康江戸時代には、一時的に布教は認められた。しかし、その後は江戸幕府がキリスト教を禁教とし、踏み絵により信徒を炙り出して徹底的に弾圧し、幕府が鎖国政策を採ったため、宣教師はもちろん、普通の外国人も許可無しでは日本に入国出来なくなった。その間、江戸時代の末まで、日本では隠れキリシタンと呼ばれる人々が、密かにキリスト教の信仰を伝えていくこととなった。


やがて明治維新が起き、江戸時代は終わった。欧米列強と不平等条約を結ばされ、諸外国と対等になろうと必死であった明治政府は、政治法律経済軍事など、あらゆる分野の改革を断行した。その中には、キリスト教の布教許可も含まれており、完全ではなかったものの信教の自由が法的にも保障された。


以後、キリスト教は再度日本での布教を開始していった。戦国時代ではカトリックが主であったが、明治以降はプロテスタント正教会など、各派が布教を行った。この時、クリスマスなどのいくつかの行事が日本に持ち込まれ、日本の文化の一つとして定着していった。


第二次世界大戦が始まると、キリスト教も他の宗教と同じく、大本営から戦争協力を命じられ、それを断った宗教団体は、特別高等警察から徹底的に弾圧されることとなった。第二次世界大戦が終わると、日本ではほぼ完全な形での信教の自由日本国憲法で(第20条)保障され、不自由のないキリスト教の布教が開始された。


現在、キリスト教の文化は日本の文化に様々な影響を与えている。しかし、日本は公的機関が宗教の割合を詳しく調査していないので不明な点もあるが、キリスト教の信者そのものは、カトリック・プロテスタント・正教会の全てを合わせても、日本人全体の1%前後程度と言われている。文化庁の宗教年鑑では、信者数で1%となっている。また、CIAの調査によると、日本のキリスト教徒の割合は2%ほどと推定されている


各国の宗教団体には普遍的に見られることだが、日本のキリスト教団体も、教義や伝道方法への考え方の相違、行動方針や政治的主張を巡っての対立があり、多くの諸団体に分かれている。それぞれの団体は、協力、もしくは対立関係にある。