信仰心の5段階
偶像崇拝から、真の神信仰の高嶺まで
〔聖書テキスト〕
「(キリストの使徒)パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。
『アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを、宗教心にあつい方々だと見ております。私は道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、
「知られない神に」
と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。
この世界と、その中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
また、何か不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神はすべての人に、いのちと息と万物とをお与えになったかただからです。・・・・
たしかに神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、
「私たちもまたその子孫である」
と言った通りです。そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じもの、と考えてはいけません。
神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔改めを命じておられます」
(使徒の働き17章22-30節)
〔メッセ-ジ〕
日本人はよく、「宗教心の豊かな国民」だと言われます。
「いや、私は無神論者です」
というかたもおられるでしょうが、日本を旅行すれば、どこの山へ行っても神社があります。また、どの町へ行っても寺があり、キリスト教会もほとんどの市と町に、最低一つはあります。そして、
「日本人は、生まれると神社へお参りし、結婚式は教会でして、お葬式は寺でする」
と評され、欧米人を驚かせているのです。
今日、日本には「宗教法人」の数が、18万余りあります。もちろん宗教法人の数が、そのまま日本における宗教の数を表しているわけではありません。
同じ宗派でも、組織上、別の宗教法人として登録しているところが多くあるからです。しかし、日本には様々なタイプの宗教が見られるわけです。
世界の中で、日本は「科学の教育」ということでは、最も進んだ国の一つだと言われています。昔は、
「科学がもっと進歩すれば、人々は宗教というようなものは、もはや信じることがなくなるだろう」
という人が少なくありませんでした。しかし今日の日本を見て、どうでしょう。
科学は進歩しました。ところが、今や多くの若者が、様々な新興宗教や「新新宗教」に入信するようになっているのです。
最近話題になった、「幸福の科学」「統一教会」「創価学会」「オウム真理教」「真光教」「イエスの箱舟」「愛の家族」「エホバの証人」――こうした数多くの新しい宗教も生まれて、多くの人々の心をつかむようになっています。
宗教について、作家の曽野綾子さんはこんなことを書いています。
曽野さんはクリスチャンとして、いろいろなエッセイも書いています。それで曽野さんに会う人の中には、時々、
「私は無神論者ですから・・・・」
と、わざわざ前置きをして話し始める人がいます。そうしたとき曽野さんはよく、
「無神論者とおっしゃいますが、それならあなたご自身がガンで『もうダメだ』と言われた時や、子どもが山で遭難して行方が分からない時に、祈らずにいらっしゃれますか? 無神論者だとおっしゃるなら、その時にお祈りになってはいけませんよ」
と言うのだそうです。曽野さんはこれについて、
「いつもの幼稚なオドカシ方をした」
としていますが、いつもは「無神論者」を装っている人も、人生の大きな危機に直面したとき、はじめて神に目が開かれる、というようなことが多いのではないでしょうか。
今月は、「信仰心の5段階」と題してお話ししたいと思います。これは「宗教心の5段階」と言い直しても、よいかもしれません。
人間の信仰心、また宗教心には、段階があり、そこには高低・深浅の差があります。まず、最も初歩的な信仰心から見てみましょう。
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