十二弟子が派遣される

ルカ伝9章1-10節

 

http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2011y/110918.htm

 

 ルカ伝9章は、イエスが十二弟子たちをガリラヤ地方の村から村へと二人一組で派遣された記事から始まります。これ以前の弟子養成は、派遣されるための準備の期間と考えることができると思います。彼ら十二弟子たちはイエスの直弟子でしたが、〈使徒〉(アポストロス)とも呼ばれていました。この〈使徒〉とは、「~から職権を委ねられて遣わされた者」(織田昭編 新約聖書ギリシャ語小辞典)、「特に遣わした者の権威と委ねられた使命をもって派遣された人」()という意味なのです。古典では、「遠征隊」や「艦隊」という、王命によって派遣された軍隊を指す言葉でした。

 「派遣」と言いますと、「派遣社員」を連想する人が多いのではないかと思います。派遣された環境に順応しながら、業務をこなすという点(文脈化)では共通していると思います。キリスト者はみな神によってこの世に派遣された、謂わば「派遣社員」と言えるかも知れません。しかし、異なる点もあります。それは、神のメッセージを届け、神のみこころを実践することが優先される点です。「派遣」には、二つの性格があります。一つは、派遣する者から任務をいただくことです。この任務には、ルカ92によると、〈神の国を宣べ伝え、病気を直す〉ということです。第二の性格は、自分のところに留まるのではなく、派遣される現場の環境に適応しながら職務をこなすことです。今日は、この「派遣」の二つの性格、特に第二の性格を中心的なテーマにしたいと思います。

(1)派遣されること

派遣された者の前例

「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。  ルカ8:39

 最初に、派遣の先例がルカ8章にあります。それは、〈レギオン〉という悪霊の集団を追い出していただいた異邦人(おそらくはギリシャ人)の男なのです。イエスがその彼に命じている箇所が、ルカ839です。彼は、〈(自分の)家〉に派遣されたのです。そして、その任務は〈神があなたにどんなに大きなことをしてくださった〉かを証しすることでした。語順通りに訳すと、「どんなに大きなこと、あるいはどんなに多くのことを、あなたにしてくださったか、神が」となっています。神が彼になさったことが〈どんなに大きなこと〉であったかが強調されているのです。彼は、自分の家どころかその住んでいた地方に次部に起こったことを証ししたのです。

 派遣されるためには、相手に伝えるメッセージが必要なのです。ですから、先ずそれを受け取る必要があります。彼は、〈レギオン〉を追い出していただいたことが、そのまま隣人に伝えるメッセージとなったのです。自分が受けた神の恵みは、自分のためであると同時に、隣人のためでもあることを覚える必要があります。

平凡な罪人

罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。 ローマ5:20

 ところが、自分への神の恵みが分からない場合が本当に多いのです。その原因は、ギリシャ人の男やパウロのような顕著な罪人ではない、という自覚があるからです。ローマ520のように、あふれるばかりの〈罪〉を経験し、その中に苦しみもがいた人がその罪を赦されたなら、〈恵み〉の大きさを理解しやすいでしょう。しかし、平凡な罪しか知らない一般の人が、自分の罪の大きさを認識するのは余程の霊的な感性ががなければできないことです。

 では、自分の罪の実相を、そして、そのような罪多き者への神の恵みの絶大さを、どうすれば自覚できるのでしょうか?それは、デボーションにおける神との交わりが鍵だと思います。神に近づけば近づくほど、自分を知るようになり、自分の罪性の現実が見えてくるようになるのです。その結果として、このような者のため十字架に架かられたキリストをますます賛美さぜるを得なくなります。このような過程を経て、人は自分の罪から清められ、また、自分にとっても隣人にとってもキリストが必須の方であることを自覚するようになります。しかし、罪人として自覚が足りないから、証しができないと考えるべきではないと思います。自分が理解できる範囲で、証しすればよいのです。ですから、普通の平凡な罪人でさえも、神からのメッセージを持ち得るです。

(2)派遣に伴う権威

権威の付与

イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。  ルカ9:1

 では、イエスによって十二弟子たちが派遣される過程を見てみましょう。ルカ91をご覧ください。最初に、〈イエスは、十二人を呼び集めて〉とあるように、派遣の開始は、イエスのみこころによるものであることが分かります。それは、人間の意志や企画によるものではなく、キリストの意志と企画によるものであったということです。これが、この節から第一に読み取れることです。さらに、〈すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった〉とあります。これは、使命を果たすために、派遣される弟子たちに〈力と権威〉が与えられたことを意味します。これが、第二に読み取れることです。派遣によってなされる職務を果たすためには、職権が必要であるということです。この職権の特徴の一つは、排他的であるということです。イエスによって任命された人のほかは、誰も与えられなかったからです。

 職務と職権との関係は、公務員や一般の専門職にも言えることです。どのような分野でも、定められた手順を踏んで正当に資格を取得した人は、排他的な職権が与えられます。例えば、医師でなければ、医師の職権を行使してはならないのです。同様に、神の摂理によって派遣されなければ、その立場の正当性はないのです。イエスが村々に派遣されたのは、十二弟子だけでした。このようにイエスによって派遣されたという裏付けがあって始めて、彼らは正当に〈すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威〉を行使できたのです。このことを拡張解釈してみましょう。私たちもそれぞれが何処かに派遣されていると言えないでしょうか?十二弟子たちのように直接的な任命を受けたという経験はないかも知れませんが、神の摂理によって今その場所へと遣わされているのです。プロテスタントの思想の一つに、職業召命観があります。さらには、職業的なものだけでなく、それぞれの家庭や人間関係や、あるいはそれぞれの人生へと神によって召されていると思います。そこで生きて神と人に仕えるために、また、そこで生きて祝福されるために、特別な配慮が神によって与えられているのです。 

派遣される場

それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。     ルカ9:2

 こうして、キリスト者はそれぞれの場所に派遣されているのです。ルカ92をご覧ください。この節には、三つの課題が書かれています。第一は、〈彼らを遣わされた〉ということです。これが、今日の中心的なテーマです。実は、原語での語順は、これが文章の最初にあります。「それから、彼らを遣わされた。神の国を宣べ伝え、病気を直すために。」という語順なのです。人々を集会場に招くのではなく、村や町を巡り、人々の生活の場にまで出掛けるということです。現在的な意味では、職場や学校や家庭やその他の人間関係に派遣されたのです。それは、キリストがユダヤ人の若夫婦の家庭に、そして、職人という立場でユダヤ社会に派遣されたことに似ています。神のあり方を一方的に押し付けることをまったくされずに、人の生活の場にまで、そして、人間の文化や思想のレベルまで、また相手の理解のレベルまで降りて来られたキリストにこそ、派遣の手本があるのです。これが、キリストが神でありながら、人間とコミュニケーションが可能であった理由なのです。

 キリストの宣教は、人とのコミュニケーションを介して行われました。ですから、コミュニケーションを十分に理解していないと、派遣の使命に重大な障害となるのです。すなわち、自分が派遣された人たちを理解することが、派遣される者には求められます。相手を理解していないうちに一方的に語ることは、かえって躓きを与える原因になります。しかし、これは、感性のトレーニングですから、多くの失敗を重ねながら、あるいは、自分で悩みながら学び取るしかないなのです。

(3)派遣の障害

アイデンティティの障害として

だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。        ルカ10:20

 「派遣」という性質上、派遣された人々とのコミュニケーションが重要であることに触れました。それゆえに、「派遣」の任務に失敗する主要な原因の一つとして、コミュニケーションの障害、すなわち人間関係がうまく行かないことが挙げられると思います。コミュニケーショの習得に努力しても、それが成功しない根本的な原因として、自分にこだわるあまり隣人に心が向いていないことがあると思います。言い換えると、自分の価値を証明することに精一杯で、隣人の側に立って考えてあげる心の余裕がないのです。しかも、本人は自分のこのような自分の心の動きが、神との関係における問題として自覚していないことが多いのです。すなわち、隣人のことを考えてあげる余裕がなぜないのかというと、神によって愛されていることを基礎に根付くはずの根源的なアイデンティティが弱いからなのです。このような場合、自分の手柄(功績)を立てて、自分の価値を証明することが中心的な関心事となるのです。どんなに聖書やコミュニケーションの知識があったとしても、結局は自分が手柄を立てるために語り、そして活動してしまうので、隣人を躓かせる可能性が大変に高いのです。

 ルカ1020をご覧ください。〈悪霊ども〉を服従させるという偉大な手柄を喜んでいた〈70人〉の派遣された弟子たちに、イエスが語られたことばです。〈悪霊ども〉を服従させたことを喜ぶとは、伝道者としての実績を自分のアイデンティティの根拠とすることです。これは、普通に見られる普遍的な心理です。しかし、イエスがそのような偉大な実績を喜ぶことを禁じられたのは、理由があるのです。〈あなたがたの名が天に書きしるされている〉とは、神との関係(和解)が成立していることを指しています。この神との関係を喜ぶということは、揺るがない土台に自分を基礎付けるということであり、人間としての根源的な喜びなのです。この「神との関係」を強く認識するようになると、人間関係において手柄を立てて、自分の価値を証明する必要はありません。なぜなら、「神との関係」においてこそ、「御子キリストでさえ与えるほどの愛を自分は今受けている」という自分の掛けがえのない価値が担保されるからです。こうして、本気になって、隣人の立場を思いやる余裕ができるのです。これが、「派遣される者の精神」なのです。この精神は、信仰そのものであり、聖書が全体にわたって目指す中心的な教えなのです。この精神によって、他の二つの課題、すなわち、宣教と切実なニーズに応えることが障害なく行えるようになるのです。

口は災いの元

舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。    ヤコブ3:6

 最後に、エルサレムの教会で指導的な立場からことばをもって奉仕にあった経歴のある主の兄弟ヤコブの言葉を二つ紹介したいと思います。先ず、ヤコブ36をご覧ください。ここには、言葉の持つ破壊的な力が書かれています。それは、〈不義の世界〉であり、人生を破綻させるほどのパワーがあるのです。「口は災いの元」ということですね。

 さらに、〈ゲヘナ〉とは元来エルサレムの城門の外にあったごみ焼却場のことです。といっても、ちゃんとした焼却施設があるわけではなく、野ざらしのごみを燃やしていたようです。ここから、〈神の国〉から捨てられるところという意味を持つようになったと思われます。ですから。〈ゲヘナの火によって焼かれる〉とは、人間の言葉は、捨て去るしかないごみ同然だという意味なのです。神の御前において自分のことばの〈汚れ〉に気付いて、大いに嘆いた預言者イザヤの認識に似ていますね。

私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。   ヤコブ3:9

さらに、ヤコブ38-9をご覧ください。ここには、キリスト者が経験する中で最悪のタイプのコミュニケーションの破綻が書かれていると思います。〈主であり父である方をほめたたえる〉という信仰がありながら、同時に、〈神にかたどって造られた人をのろう〉という人間性の破綻が起こりうるということです。本人は神を〈ほめたたえる〉ことに夢中かも知れません。しかし、「神のかたち」である〈人をのろう〉ことは、神との関係にも問題があるのだ、とヤコブは言っているのだと思います。〈人をのろう〉とは、隣人に対して否定的な言動をすることを意味します。それは、人のかたちの原型である神の属性を否定することでもあるのです。このように、一方で神を信じる信仰がありながら、他方で人をのろうという人間性の破綻が起こっているというギャップが、隣人を躓かせるのです。

 このように、一方で神を信じる信仰がありながら、他方で人をのろうという人間性の破綻が起こっているというギャップが、隣人を躓かせる大きな原因となり得ます。では、どうすれば良いのでしょうか?この問題の根底には、アイデンティティが絡んでいるのではないでしょうか?〈人をのろう〉という隣人への否定的な態度の強さは、自分をその隣人よりも優位にある存在であることを証明する心理的要求の度合いに比例します。結局は、御子をさえ十字架に付けるほどに神によって愛されている自分というイメージが弱いことが、このようなギャップの根本原因なのです。このようなギャップに悩んでいる人には、十字架を仰いで、自分への神の愛を確かめることをお勧めします。そして、神の愛に自分という存在の基礎を置くことから始めましょう。