この方はどういう方なのだろう?

ルカ伝8章22-26節

 

 

 今日の箇所は、イエスと弟子たちがガリラヤ湖を舟で渡っているときに起こった出来事です。南北21km、東西12kmの大きさのガリラヤ湖はハート型をした美しい湖でした。テラピアという種類の魚が取れて、漁業が湖畔にある12の町の重要な産業でした。テラピアはマグダラという町で塩漬けにされてから、ローマ帝国に輸出されていました。 

 この湖には他にはない地形的な特徴があって、それが激しい〈突風〉を引き起こす原因にもなりました。すなわち、湖面が地中海の海面よりも211mも下にあり、すり鉢状の構造をしていました。それで、湖面は北の高地(ヘルモン山やハウラン山脈)から冷たい空気の塊が下ってくるポケットになったのです。それで、湖面から立ち上る暖かい上昇気流とぶつかって乱気流が起こり、雨を伴う突風が吹くことがあったのです。このような気象的な激変は、夕方に起こることが多かったのです。このような嵐に巻き込まれて命を落とした漁師は少なくありませんでした。イエスと弟子たちを乗せた舟がこのような恐ろしい〈突風〉に襲われて沈みそうになったのです。人間の技術力がどんなに進歩してもコントロールできないものの筆頭にあるのが、〈風〉と〈水〉なのは、現代でも変わりありません。今日は、この危機的な出来事がから何か教訓となるものを見てみましょう。  

(1)神に従ったが

イエスの指示に従ったが

そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」と言われた。それで弟子たちは舟を出した。  ルカ8:22

 マルコ伝の並行記事によると、イエスは舟の上から岸辺に群がる群衆に「種蒔きの喩え」などの〈多くのたとえで…みことばを話された〉(マルコ4:33)後に、〈夕方になって … 「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」と言われた〉(435)のです。それで、〈舟に乗っておられるままで〉(マルコ436)向こう岸へ出掛けたことになっています。この舟の旅は、湖を北から南に下りながら、東岸のデカポリス地方に向かうものでした。

 まず、この船出がイエスの指示によるものだったことを覚えましょう。特に、イエスが〈向こう岸に渡ろう〉と言い出された〈夕方〉は、最も〈突風〉が吹く時刻でもありました。実際、弟子たちの中には、嵐の最中に「イエスさまの言うことを聞いて船出したら嵐に遭ったのです。イエスさま責任を取ってください。」と文句を言う人もいたことでしょう。イエスの指示に従ったら嵐に遭ったという事実を、どのように理解したら良いのでしょうか?それは、イエスに従うことが、まったく危険に遭遇しないということではない、ということなのです。しかし、確実なことが一つあります。それは、イエスに従う歩みにおいては「イエスが共におられる」ということなのです。この「イエスが共におられる」という一点で、事態がまったく一変するのです。

嵐の中での爆睡

舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。
                  ルカ8:23

 ルカ823をご覧ください。〈突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった〉のです。この激しい嵐の中でも、イエスは〈ぐっすり眠って〉おられたのです。その熟睡の理由として、疲れが激しかったとか、肝が据わっておられたとかが挙げられることでしょう。そのような理由も一理あるでしょうが、最も大きな理由はイエスの独特の心理構造にあると思います。このことは、後で触れますが、このようなイエスの姿とは対照的に、弟子たちのひどい狼狽ぶりが描かれています。

 このような危機的な状況の中で、イエスはなぜ平安の中にいることができたのでしょうか?その答えは、すでに触れたようにイエスの心理構造にあると思います。すなわち、父なる神への全幅の信頼を根本として、そこからすべての精神活動が現れるという特殊なものであったのです。ですから、荒れ狂う嵐の中でも、自分が父なる神の摂理の中にあることに、一点の疑いもなかったので、平安でいられたのです。この点で、イエスの心理構造は原罪を持つ人間とはまったく異質なのです。『山上の説教』で教えられた「善意と真実に満ちた父なる神」の姿が、イエスの心理の根底にありました。ここまでの揺るがない信頼に、人は決して達することができません。人間の心理活動の根本には、イエスの場合とは対照的に神への不信があるからです。赤星進というクリスチャンの精神科医は、原罪が人間の心にどのように現れるのかを説明しています。赤ちゃんが離乳期を終える頃に自我が芽生えます。この自我は、親への不信によって引き起こされるのではないか、ということです。すなわち、親への100%依存の時期を過ぎて生後8ヶ月頃、親への不信が引き金となって自我が芽生える、という仮説を立てておられます。これは、大変に洞察に富む見解だと思います。イエスの自我構造の根底には父なる神への全幅の信頼があるのとは対照的に、人間の自我構造の根底に不信があるというのです。

(2)嵐の中の弟子たち

恐れる弟子たち

先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。
                 ルカ8:24
先生。私たちがおぼれて死にそうでも、
何とも思われないのですか。       マルコ438
主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。
                        マタイ825

 次に、嵐の中での弟子たちの様子を三つの福音書から見てみましょう。先ずルカ伝ですが、弟子たちが死ぬかも知れないという恐怖に囚われていたことを明らかにしています。これは、危険に遭遇した人なら誰でも持つ感情ですね。マルコ伝は、死の危険が迫る危機的な状況の中で眠りこけて何もしてくれないイエスへの不信が表明されています。「イエスさま、あなたの指示に従ってこんな死にそうな目に遭っているのに、何とも思われないのですか!どういう感覚をしておられるのですか!」というところではないでしょうか?マタイ伝では、弟子たちは以上のような不信を抱いているにもかかわらず、イエスに助けを求めています。ここまでは、普通の信仰者の姿でもあると思います。

 しかし、イエスがともにおられて、助けを求めることができるというシチュエーションは、大きな特権であると思います。人間を越えた大きな力の前で、人生が不透明であって神への不信があるにもかかわらず、神に助けを求めて祈ることができるのです。多くの方々が、このような祈りによって助けられたことを証ししているのです。しかし、神の御声に従う人生において、という条件があります。故意に何としても神に逆らう歩みにおいては、イエスがその人生の小舟に一緒に乗っておられるという保証はないのです。

苦難の意義

自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、
わたしのために自分のいのちを失う者は、
それを救うのです。       ルカ9:24

 次に、ルカ824の〈死にそうです〉という動詞に注目してください。これは、先週紹介したマタイ1039に出てきた動詞と同じなのです。今日はルカ924の並行記事を見てみましょう。ルカ924には、〈死にそうです〉と同じ動詞が二つ出てきます。すなわち、〈失う〉と訳されているところです。弟子たちが嵐に遭うという災難は、キリストのみこころにコントロールされる状況下で「自我の死」を経験するために、必要なものだったのではないでしょうか?そういう意味では、彼らは嵐に出遭う必要があったのです。

 ルカ924には〈自分のいのちを救おうと思う者〉とあります。マタイ伝では、〈自分のいのちを自分のものとした者〉(マタイ10:39)となっていました。マタイ伝での描写が〈自分のいのち〉(悪い意味での自我;原罪を特徴とする神学的な意味での自我のことであって、心理学的な自我ではない。)への意志を強調しているのに対して、ルカ伝の描写は〈自分のいのち〉への執着が強調されています。このような〈自分のいのち〉へのこだわりをどう理解したらよいのでしょうか?これは、私の仮説なのですが、原罪を持つ人間は神への全幅の信頼を核とした心理構造が崩れているのです。それで、平安を得るために、神以外の何かすがるものを渇望し求め続けるのです。すがるものは表面的にはいろいろありますが、究極的な意味では、それは〈自分のいのち〉なのです。このような心理は、自己の存在の意義、あるいは自分を崇拝する理由を自分のうちに求め続ける試みとなります。それは、他人との比較により自分を優れた者と自分自身に納得させる何らかの功績を産み出そうという試み(自己義認の試み)なのです。クリスチャンになっても、このような自己崇拝から解放されるのは容易なことではありません。頭では分かっていても、すぐに自己崇拝に戻るのです。また、これこそがエバにサタンが囁いた〈神のようになる〉という誘惑なのです。それは、古典的誘惑であると同時に、誘惑の本質でもあります。そして、罪の本質であり、原罪の内容でもあるのです。

(3)嵐の中での教訓

〈自分のいのち〉を失う

苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。                詩篇50:15

 では、どうすればよいのでしょうか?その手掛かりが、弟子たちが遭遇した嵐にあると思います。弟子たちの少なくとも4人はプロの漁師でした。ですから、ガリラヤ湖は自分の庭ほどに知り尽くしていたはずです。しかし、漁師としての実績があった彼らの技量や知識をもってしても、どうしようもない事態に巻き込まれたのです。ここで彼らは自己の限界を認識せざるを得ませんでした。このようなときに、〈自分のいのちを失う〉、すなわち、自己崇拝が砕かれる可能性が見えてくるのです。

 詩篇5015をご覧ください。〈苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。〉ここには、〈わたし〉という摂理的に世界を支配する神が、苦難にある〈あなた〉に呼びかけているのです。その神は〈あなたを助け出(される)〉のです。〈わたし〉と〈あなた〉という恵みに基づく関係が成立している限り、助けを求める祈りは聞かれるのです。その結果として〈あなたはわたしをあがめよう〉という、神を礼拝する心が豊かになります。しかし、ここでも、また誘惑があるのです。それは、「そのような恵みを受けた自分をあがめよう」という風に、自己崇拝が復活する危険です。自我は、摂理的な助けも神の恵みも何もかもすべて自己崇拝の道具にしてしまうのです。人間が原罪を持つという現実は、これほどに深刻なことなのです。

受肉された神・イエス

イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も収まり、なぎになった。   ルカ8:24後半

 次に、ルカ824の後半を見てみましょう。〈イエスは…風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も収まり、なぎになった〉とあります。実は、旧約聖書では、「荒海や暴風」を神が鎮めるという表現がよく出てきます。この節で、ルカがイエスにそのような神の姿を見ているのは明らかです。 

あなたの人生という、嵐に翻弄される小さな舟に「イエスが共におられる」というシーンを想像してください。「イエスが共におられる」ということがどういうことなのか、今日の箇所から知ることができるのです。すなわち、「イエスが共におられる」という一点において、その状況は絶望どころか、希望に満ち溢れているということなのです。

イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」 ルカ8:25

 最後に、今日の箇所から「信仰とは何か」について見てみましょう。イエスの弟子の中には漁師として湖の気象に詳しい人がいましたから、夕方に小舟で出掛けることを危惧したことでしょう。しかし、それでもイエスは「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたのです。プロの目から見た安全性の点から言うと、出掛けるのは止めた方が良かったのです。しかし、嵐に遭遇することになろうとも、イエスのみことばに従ったものならば、「イエスが共におられる」という一点において、船出したほうが安全だったのです。

 25節前半をご覧ください。ここで、イエスが弟子たちに〈あなたがたの信仰はどこにあるのです〉と言われたのですが、この〈信仰〉(ピスティス)とは、ギリシャ語では宗教的な信仰に限定されないのです。一般的に「信頼すること」を指します。しかも、この〈信仰〉は、定冠詞付きの単数形で、ある特定の信仰を指しているのです。それは、「すべてを任せることができる方」として神に信頼することなのです。厳密に言えば、人生に起こり来るすべてのことは、どんなに小さなものでも、嵐のように人間の力だけで対処しきるものはではありません。しかし、共にくびきを背負われる神に、すべてを委ねることで、人間は確かな裏付けを持った平安を実現できるのです。弟子たちは〈風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう〉と、共におられるキリストを見直さざるを得ませんでした。人生という小舟に「共におられるイエス」を、今私たちも見直すべきではないでしょうか?

 

http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2011y/110821.htm