長血を患う女の癒し

ルカ伝8章43-48節

 

 今日は、〈長血〉を患っていた一人の女性の癒しを取り上げたいと思います。ルカ843では、〈十二年の間長血をわずらっていた〉とありますが、原語では単に「出血」という言葉が使われているだけです。このような出血が〈十二年の間〉続いていたことから、新改訳では〈長血〉と名付けたものと思われます。おそらく、現代では子宮筋腫とか子宮内膜症と呼ばれる婦人科の病気ではなかったかと想像されます。それらは、不正出血と激しい痛みで患者を悩ませることが多いのです。彼女は最初、医者に頼りましたが、このような病気であった場合、当時としては治る可能性は閉ざされていたことでしょう。ですから、ガリラヤ湖の嵐とレギオンに続いて、人間の力が遥かに及ばない第三の事例を、ルカはここで取り上げて、イエスがそれらを如何にして解決したかを描いているのです。 

 さらに、彼女の病気は、当時のユダヤ社会では「汚れ」を人にもたらすとされたので、日常の人間関係がかなり制限されるという苦痛が加わりました。彼女は病苦の上に、孤独という試練の中にあったと思われます。なぜ、病苦の上にさらにこのような苦しみを与える規定がモーセの律法にあるのか、不思議に思われる方もあることでしょう。しかし、そのような規定にも、現代人に語る何らかのメッセージがあろます。先ず、そのことに触れたいと思います。

(1)不浄の規定にはどんな意義が?

不浄の規定

これらの物にさわる者はだれでも汚れる。その者は衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方まで汚れる。  レビ15:27

 彼女のように出血のある人たちについての規定がレビ記1525-30に書かれています。ここでは、レビ記1527だけをご紹介しましょう。出血のある女性自身が〈汚れる〉とされただけでなく、彼女が触れたものに触れるなら、〈夕方まで汚れる〉とされています。しかも、それに触れた者は〈衣服を洗い、水を浴びる〉という「きよめの手順」を踏まなければならなかったのです。これでは、人々が遠ざかるのは無理もありません。

 なぜ、このような規定があったのでしょうか?この疑問に答えるには、〈汚れる〉(ターメィ)の反対にある〈きよい〉(コーデシュ)という状態に触れる必要があります。〈きよい〉とは、現代の日本語では、主に「道徳的に清い」という意味と「清潔である」という意味ですが、モーセの律法では、「分離されている」、すなわち、「神のために取り分けられ、神のもの(占有)となった」という意味なのです。ですから、〈汚れる〉とは、「神のものになっていない」ということになります。すべてのものは神の創造物であるから、本来、〈汚れた〉ものがあるはずがないのです。では、なぜ〈汚れ〉の規定があるのでしょうか?それは、神が意図した本来のあり方から外れたことで、〈汚れ〉が現れるのです。ヘブル語では、「本来のあり方から外れる」ことが〈罪〉(ハッタースゥ)と定義されますので、〈汚れ〉と「罪」は、同義となります。モーセの律法における「祭儀的な汚れ」は、罪の現実と罪からの救済を教えるための教材としての役割があったと思われます。

 では、出血性の病気がなぜ〈汚れる〉とされたのでしょうか?これには、二つの理由があったと思われます。一つは、公衆衛生上の目的です。ちょっと古い資料ですが、20世紀初頭の医学史の専門家であるマックス・ノイベルガーは、“History of Medicine”の中で、公衆衛生の点において「(モーセの律法の)要求の内容は、…驚くほど理性的である」と書いています。彼女の場合、〈汚れる〉という規定のゆえに、孤独に晒されたことは確かでしょうが、水汲みや農作業など当時の女性に課せられた重労働を免除されるということもあったことでしょう。〈汚れ〉の規定は、病人たちにも日常の重労働を課して、病気を悪化させるという悲劇から救ったのです。第二の理由は、罪とその結果を象徴するものとされたということです。現代的な意味としてこの点が重要なのです。モーセの律法では、〈血〉は〈いのち〉の象徴であり、「血を流す」ことは、〈いのち〉を失うことでした。モーセの律法の祭儀では、犠牲動物の「血を流す」ことは、身代わりに「罪の贖い」をするためのものでした。このような祭儀におけるシンボリックな関連から、出血性の病気は、〈罪から来る報酬は死〉(ローマ623)であることを象徴していたのではないかと、個人的には思います。ですから、出血の癒しは、罪の贖いの象徴となったわけです。

(2)切実なニーズが応えられる

十二年間の闘病の果てに

ときに、十二年このかた出血が止まらず、〔医者に全財産を使い果たしたが、〕だれからも治してもらえない女がいた。 新共同訳 ルカ8:43

この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。               マルコ5:26

 では、ルカ843に戻りましょう。ここには、彼女の12年来のこの病を、どんな医者でも治せなかったことが書かれています。〔〕の部分は、新改訳では省かれていますが、ルカ伝の原本には元々このフレーズがあったとして、挿入している訳が多いようです。〈医者に全財産を使い果たした〉とありますが、〈全財産〉(ビオス)とは、金銭的なものだけでなく、人生のすべての内容を指します。彼女は、医者に病気を治してもらうためにお金も時間も労力も何もかも費やして、まったく効果がなかったということなのです。マルコ526には、多くの医者の治療を受けたにもかかわらず、病気は悪化の一途を辿ったことを記しています。

 このように彼女の病気が当時の医学が手におえなかったことを、医者の視点からルカは強調しています。当時の最先端にあったエジプトの医学の影響があって、当時のイスラエルの医療のレベルは大変に高かったと考えられています。それでも治せなかったのです。ということは、世の中には、彼女を治せるものはなかったのです。

信仰に至らせた彼女のニーズ

彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。  マルコ5:27-28

 それで、彼女はどうしたでしょうか?マルコ527をご覧ください。〈群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった〉とあります。〈着物のふさにさわった〉のは、〈「お着物にさわることもできれば、きっと直る」と考えていたから〉なのです。この〈考えていた〉(レゴー)とは、「語る」(レゴー)と訳される言葉で、それも「軽い気持ちでしゃべる」のではなく、「しっかりした考え(ロゴス)を語る」という意味なのです。これは、イエスに「癒す力」があるという明白な信仰があったことを意味します。

 ここで、彼女が『山上の説教』のような高尚な説教に惹かれて、イエスの元を訪れたのではないことを覚えましょう。イエスに近づかせたのは、彼女の最も深刻なニーズを解決するためだったのです。イエスに辿り着くまでの何ものも解決できなかったことは、イエスが罪を贖う唯一救い主であることを暗示しています。

イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった。 ルカ8:44

 ルカ844には、〈イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった〉と書かれています。このように、イエスは彼女の最も深い心の叫び、最も深刻なニーズに応えてくださったのです。このことに注目する必要があります。人々がイエスを求める理由は千差万別だと思いますが、それぞれのニーズを抱えてイエスを求めることでは共通しています。ある方は、自分のニーズを自覚していないかもしれません。その場合も、ニーズがまったくないわけではありません。明確な形にはなっていませんが、心の深い所に隠されているのだけです。

 ここでは、彼女のニーズが「自動的に」、すなわち、イエスの意識を介さないで応えられていることに注目する必要があると思います。これは、「相手のニーズに応える」ことが、イエスの宣教の必須のスタイルであったことを意味します。ただし、一つだけ条件があります。それは、「イエスを信じて近づいたか」ということです。

(3)宣教とニーズ

宣教の前提

イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。       マルコ5:30

 マルコ伝530をご覧ください。ここには、イエスが意識しないうちに彼女を癒す力が溢れ出てしまったことことが明らかにされています。これは、他の癒しの記事には見られない「癒しのタイプ」です。これは、何を意味しているのでしょうか?それは、信仰をもって近づく人々の切実なニーズに応えることが、宣教の前提としてあったということではないでしょうか?

 当時の人々にとって最も切実なニーズが「病の癒し」であったことは確実です。長い間、多産であったにもかかわらず、全人類の人口が2億人を越えなかった理由が、公衆衛生の悪さと病気の蔓延だったと言われています。当時の最先端の医学をもってしても対応できない病気が山ほどありました。福音書を読むと、イエスの宣教と「病の癒し」や「悪霊の追い出し」は、切り離すことができないほど繋がっていました。その理由として、〈宣教のことば〉が神の啓示であることを証明するためという伝統的な説明があります。これも理由の一部であることは否定できませんが、主な理由は、人々の切実なニーズに応える神の憐れみであったと思います。

現代のニーズ

それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。  マタイ7:12

 また、隣人の切実なニーズに応えることは、イエスの宣教の前提であっただけでなく、信仰者の倫理として聖書全体を総括した教えなのです。一例として、マタイ712をご覧ください。〈自分にしてもらいたいこと〉は「自分のニーズ」と言い換えることができます。ですから、「自分のニーズ」と「隣人のニーズ」が同列に置いているのです。現実には、「自分のニーズ」には敏感ですが、「隣人のニーズ」にはかなり鈍感であることが多いのです。「自分のニーズ」と同様に「隣人のニーズ」に敏感になって、それに応えてあげることが聖書全体の教えなのだ、ということなのです。   

当時の人々のニーズが病の癒しであったことに触れましたが、現代人のニーズとは何でしょうか?医学の発達によって、癒しのニーズの多くを医療が担うことになりました。癒しのニーズは今でもありますが、相対的に低くなっていると思います。これも神の恵みだと思います。病の癒しに代わって、現代人の最も大きなニーズとなったのは、ありのままの自分を人格的存在(掛けがえのない存在)としてちゃんと向き合って欲しい、また、自分の話を真剣に聞いてほしいということではないでしょうか?ムラ社会(運命共同体)が消えていく中で、このようなニーズに人々は飢えているのです。ですから、現代の宣教は、先ず「上手に語る人」ではなくて、「上手に聞く人」、しかも「真剣に聞く人」でなければならないと思います。実は、昔の伝道は「福音を正確に語る」ということに力点がおかれていました。しかし、一方的に語るだけで「相手のニーズや人格」を無視しているという反省があって、「相手のニーズに応える形で福音を適用する」という風に変わってきていると思います。福音を伝える相手の人格と人生に焦点が当てられるようになったのです。

女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した。        ルカ8:47

 最後に、ニーズが応えられた彼女は、自分の体験を告白し証しするように導かれたことを見てみましょう。ルカ847をご覧ください。イエスには、彼女を民衆に知られずに、静かに去らせるという選択肢があったはずです。しかし、〈わたしにさわったのは、だれですか〉(ルカ8:45)と尋ねることによっていわば無理やりに、彼女が受けた恵みをみなに分かち合うようにされたのです。なぜ、イエスは彼女を誰からも知られないように静かに去らせなかったのでしょうか?

その理由の第一は、〈御前にひれ伏し〉とあるように、それはキリストへの告白のためであったことです。〈イエスにさわったわけ〉、すなわち、自分の過去の状況と、〈たちどころにいやされた次第〉を告白することによって、単に身体的な癒しを受けただけでなく、救い主キリストとの人格的な繋がりが開始されたのです。このことが即救いなのです。第二には、神の恵みを民衆に証しする人となるためです。神の恵みは個人の所有であると同時に、隣人への啓示でもあるからです。かつて、預言者が神のことばを受けて、人々にそれを伝えたように、自分が受けた恵みは、隣人への神のメッセージでもあるのです。

 

http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2011y/110904.htm