ニコデモとの対話の意味するもの

ヨハネ3章1-15節

 

 今日の箇所は、ユダヤの文化や宗教を代表するニコデモとイエスとの対話なのですが、両者の違いが鮮明になっています。文化や宗教という人間の営みと、イエスにおける神のわざが、まったく異なる概念であることが明らかにされているのです。今日は、このあたりのことをご一緒に考えてみましょう。

 

(1)ニコデモの暗闇

ニコデモの訪問

さて、パリサイ人の中に
ニコデモという人がいた。
ユダヤ人の指導者であった。
この人が、夜、
イエスのもとに来て言った。
     ヨハネ3:1-2a

 

 カナの婚礼に参加されたのちに、イエスと弟子たちは、ユダヤの三大祭りの一つである「過越」という祭りが近づいたため、エルサレムに上られました。そして、神殿で商売する者たちを追い出し、神のわざとしか言えない様々な<しるし>を行われたと、書かれています。このときに、多くの人たちがイエスを信じたのです。おそらく、この祭りの最中に、ニコデモという学者でユダヤ議会の議員の一人が、イエスを訪問しました。このニコデモという名前の意味は、確認がとれていないのですが、「罪なき血」という意味のようです。「罪なき血」とは、深く考えれば、「原罪がない」という意味ともなりますが、それは、人間の原罪を否定するユダヤ教の立場を代表するにふさわしい名前でした。

 このニコデモが<イエスのもとに来(た)>のは、<夜>でした。<夜>(ヌクス)とは、日没から日の出までの時間を言います。太陽が沈んでいる時間帯ですね。昼(ヘーメラ)は日の出から日没まで、太陽が上っている時間帯を言います。正確な時計がなかった時代ですから、一日を、太陽が沈んでいる時間と太陽が上っている時間に分けたのです。ニコデモが太陽が沈んでいる<夜>に訪問したことは、ニコデモが代表するユダヤの宗教界の闇を象徴しているのです。どの文化にとってもどの宗教にとっても、「太陽なる神」は不在の状態なのです。そのことを暗示しているようです。しかも、ニコデモはその中でも最も純真に真理を追い求める人であったと思われます。おそらく、ユダヤ教の学者の中で、彼ほどに素直な心で求道した人はいなかったことでしょう。ユダヤ教の最善のスピリットと最高の頭脳を兼ね備えたニコデモでも、真理を求めてさまよう姿は、宗教全体の持つ「闇」を意味するのです。

 この闇は、どのような形で現れるのでしょうか?一例を挙げてみましょう。「救い」とは神のわざのはずですが、結局は、人間の営みの中に、宗教は閉じ込められているという現実があります。いつの間にか、神のみこころは人間の野心や策略に、神のわざは人間の営みにすり替わっているのです。このことは、ユダヤ教だけのことではありません。キリスト教という宗教や文化でさえ、そうなのです。

 スコラ哲学の大成者と言われるトマス・アクィナス(1225-1274)がバチカンに出向いて、法王に謁見したときの話とされています。法王は、バチカンのきらびやかな栄華をトマスに見せながら、「トマスよ、(使徒ペテロのように)私たちには金銀はない、と言うことはもはやない」と言いました。それに対して、トマスは、「『ナザレのイエス・キリストの御名によって、立って歩きなさい』ということも、もはやできません。」と叫んだそうです。実話かどうかは、定かではありませんが、「神のわざ」を失い、「人間のわざ」に明け暮れていた当時の有様を、物語っているのです。

 

傍観者として立ち会う

先生。私たちは、あなたが神のもとから
来られた教師であることを知っています。
神がともにおられるのでなければ、
あなたがなさるこのようなしるしは、
だれも行うことができません。
                
 ヨハネ3:2

 

 夜イエスを訪ねたニコデモは、エルサレムでのイエスの活動を観察して得た知見を述べました。2節の箇所ですね。ニコデモは、イエスに人間を超えたわざを見たので、<神のもとから来られた教師であることを知っています>と言いました。この<知っています>(オイダ)は、知的な理解やノウハウを心得ていることを意味します。経験を通しての全人格的な認識を意味する「ギノースコー」と対照的に、知的な段階で認識を意味するのです。

 ニコデモが、客観的に、傍観者としてイエスを観察して得た結論が、<神のもとから来られた教師>ということでした。ニコデモのような真面目な好奇心で、イエスを研究しようとする方々は多いのです。現在まで、キリストに関連して、実に多くの研究がなされてきました。その結果として、ニコデモのように、キリストに人間を超えた神秘を認めた学者も多くいました。しかし、この段階でも、知識として知ることに留まるのです。19世紀の中頃に活躍した、セーレン・キルケゴール(1813-55)は、当時、知的理解の段階で知ったつもりになっていた、当時のデンマークの国教会に「本当のキリスト教」を果敢に“伝道した”と言われています。知的理解では、キリストに関わりたいが、全人格的には関わり合いたくない、特に、献身とか使命とか召命とか持ち出されることを、人々は嫌うのです。人は変化を嫌うし、また、自分の人生に対して保守的なのです。

 

(2)神の国を見る

ニコデモに欠けていたもの

 

アーメン、アーメン、あなたに言う。
人は上から生まれなければ、
神の王国を見ることはできない。
         岩波訳  ヨハネ3:
3

 

 このようなニコデモに、3:3でイエスは答えられました。上記は、岩波訳ですが、最初に、独特の言い回しがあります。原語で、“アメーン アメーン レゴー ソイ”という表現です。“アメーン”とは、「確かにそうである」と、同意を表明する言葉で、礼拝で祈りの後でみんなで声を合わせて語る決まり文句でした。ところが、イエスは、ご自分が語ることに前もって、“アメーン”と言われたのです。もっとも重要な真理を語る前に、この表現をよく用いられたのです。岩波訳は、この見解を支持しているようです。ちなみに、新改訳や新共同訳などは、“アメーン”を「まことに」とか「はっきり」というように、副詞的に訳しているのですが、岩波訳の方が適訳ではないかと思います。

 ここで、イエスがもっとも重要なものとして、ニコデモに言われたのは、二つあります。一つは、<人は上から生まれなければ>というところです。新改訳は、「新しく」と訳していますが、<上から>(アノーセン)という意味の方が有力だと思います。元になる言葉“アノー”は、「上に」とか「上で」という副詞だからです。これは、何を意味するのでしょうか?<上から>とは、人間が存在し、活動できる次元の上にある、「神のわざ」を意味します。水をぶどう酒に変えたように、いのちなきところにいのちを吹き込むような、「神のわざ」なのです。ですから、<上から生まれ(る)>とは、「神のわざによって生まれる」ということなのです。

 

肉によって生まれた者は肉です。
御霊によって生まれた者は霊です。
        ヨハネ3:6

 

 3:6をご覧ください。ここには、二つの誕生について書かれています。一つは、「肉による誕生」です。ヨハネ文書での<肉>(サルクス)は、「自然的なもの」と理解した方がよいと思います。自然的な営みによって、人は肉体をもって生まれてきます。この仕組みはよくできていますね。どのような親のどのような遺伝子の組み合わせで生まれてきたのかは、神の摂理だと思います。それによって、多様な個性が生まれるわけです。

 このような「肉による肉の誕生」を、パウロは、<生まれながらの人>(プシュキコス:「自然的な人間」という意味)と読んでいます。その上で、この「肉による誕生」だけでは、人は認識上の重大な欠陥を持っているのだと、教えているのです。その欠陥とは、「神のわざ」である<神の国>を認識する視力に欠けている、ということなのです。

 では、もう一つの誕生である「御霊による誕生」とは、どんなものなのでしょうか?<御霊によって生まれた者は霊です>と、イエスは教えられました。ですから、<霊>(プニューマ)が生まれるということになります。新約聖書では、自然的な精神である「魂」(プシュケー)と神を認識する<霊>(プニューマ)を区別しているのです。<霊>とは、信仰によって神を認識する機能のことなのです。「肉の誕生」は、肉体と魂を誕生させます。しかし、「御霊による誕生」では、<霊>が誕生するのです。この「霊の誕生」によって、神を「父親」として認識することが可能になり、そのような視点を基盤にした世界の認識が可能になるのです。<御霊によって生まれた者>でなければ、基本的には神は分からない、特に「愛する父・アバ」として認識できないということです。また、神によって創造され、維持されているという、世界の構造をも理解することもできません。さらには、神と神を信じる者たちの共同体として存在する、<神の国>を認識こともできません。この<神の国>とは、「神の支配」とか「神の統治」という内容を持ち、狭い意味では、神と神を信じる者たちの共同体のことなのです。

 

霊的な誕生とは?

 

この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によって
でもなく、ただ、
神によって生まれたのである。
       ヨハネ1:13

 

 ここで、「霊の誕生」について、もっと詳しく考えて見ましょう。ヨハネ1:13をご覧ください。これは、<血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく>と書かれています。これは、自然現象や人間の活動のいかなるものでもない、という意味なのです。心理学的な現象とか、修行や瞑想などの宗教的な経験の地平から出てきたものではないということです。もちろん、それらの中で「霊の誕生」を経験することはありますが、源がそれらにあるわけではありません。

 「霊の誕生」の源は、聖霊なのです。<神によって生まれた>とは、そのことを意味するのです。人は、「肉の誕生」によって、この世界の自然的な認識を獲得し、「霊の誕生」によって、この世界の中で<神の国>を認識できるようになります。<神の国を見る>とは、そういうことなのです。

 

 

ところで、私たちは、
この世の霊を受けたのではなく、
神の御霊を受けました。
それは、恵みによって
神から私たちに賜ったものを、
私たちが知るためです。
     Ⅰコリント2:12

 

 Ⅰコリント2:12をご覧ください。ここでは、「霊の誕生」が、<神の御霊を受け(る)>ことであると、表現されています。<神の御霊>とは「聖霊」とも呼ばれますが、三位一体の第三の人格として、創造の初めから、創造のわざを含めて、この世界と関わりを持つ神なのです。ですから、<神の御霊を受け(る)>ことが、人間にとってどれほどのイベントであるか、想像がつくでしょうか?ここでは、「神の恵みが理解できる」ということしか書かれていませんが、聖霊を受けることによって、もっと広範囲の可能性が人に開かれるのです。

 ここで、上記のみことばの最後の部分を、もう一度ご覧ください。<神から私たちに賜ったものを私たちが知るためです>というところの<知る>(オイダ)は、ニコデモが言った<あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています>(2節)の<知っています>(オイダ)という同じ言葉が使われています。すなわち、「理解している」という知的なレベルの認識なのです。これは、<神の国>を認識するレベルとしては、やっと入り口に立ったことを意味します。さらに奥に入って、経験によって認識を深める段階が、次に控えているのです。しかし、多くの方々は、この入り口で立ち止まり、奥に入ろうとしないのです。

 

(3)神の国に入る

 

水と御霊による誕生

まことに、まことに、あなたに告げます。
人は、水と御霊によって生まれなければ、
神の国に入ることができません。
          ヨハネ3:5

 

 この入り口から奥に入る段階については、ヨハネ3:5にヒントがあると思います。3節では<上から生まれなければ>となっていたのが、ここでは、<水と御霊によって生まれなければ>に置き換えられています。「霊の誕生」が、人間の次元を超えた神のわざであることから、<上から>とされていましたが、もっと具体的に言い換えると、<上から>というのは、<水と御霊によって>ということだと言えます。<水>は、バプテスマ(洗礼)が象徴している「罪からのきよめ」や「古い自分に死に、神のいのちによみがえる」ことを意味するとか言われます。これらのことは、信じる者になされる「聖霊のわざ」なのです。ですから、<水>と<御霊>は、密接に関連しています。

 この5節で注意しなければならないのは、3節では、<神の国を見る>となっていたのが、<神の国に入る>とされていることです。<神の国を見る>と<神の国に入る>とは、どういう違いがあるのでしょうか?それは、理解することと体験することの違いではないでようか?<神の国を見る>ことは、<神の国に入る>という体験に含まれています。しかし、まだ、その体験の入り口にいて、十分な認識には至っていないのです。<神の国に入る>とは、そこに住み、<神の国を見る>のが、日常的になることを意味します。現実の生活において、神の支配を認識しつつ、神の摂理に委ねて生きている状態です。

 

キリストと永遠のいのち

モーセが荒野で蛇を上げたように、
人の子もまた
上げられなければなりません。
それは、信じる者がみな、
人の子にあって永遠のいのちを
持つためです。 ヨハネ3:14-15

 

 最後に、ヨハネ3:14-15をご覧ください。前半は、<人の子もまた上げられ(る)>とは、キリストの十字架での死を指しています。キリストが罪を背負って十字架で死なれたことが、信じる者に<永遠のいのち>が与えられる根拠になっています。「霊の誕生」は、この「永遠のいのち」を実現するのです。それは、肉体の死によって途切れることのない「いのち」です。

 なぜ、このようなことを断言できるのでしょうか?それは、「霊の誕生」によって、聖霊がその人の中に宿っておられるからです。聖霊と結ばれている限り、肉体が朽ち果てようとも、いのちは果てることはありません。「永遠のいのち」は、今すでに信じる者の中で始まっています。来世だけに関連するのではありません。この世でも大きな可能性を開くのです。

 
http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2010y/100110.htm