何を優先すべきか?

ルカ伝8章19-21節

 

http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2011y/110814.htm

 

 今日の箇所は、宣教活動中のイエスとその家族の関係の一場面が書かれています。大変に短い箇所ですが、いろいろな人間関係の中で、イエスが何を優先しておられたのかが明らかにされているのです。そういう意味で大変に重要な箇所なのです。 

 ユダヤ民族に限らず、古代の人々は現代よりも人間関係に束縛される度合いは大きかった思われます。中でも血縁が重要なものとされていたのです。仕事も父から子へと受け継がれました。イエスのように職人の子は職人に、ペテロやヨハネのように漁師の子は漁師に、パウロのようにテント作りの子はテント作りに、農民の子は農民に、祭司の子は祭司に、王の子は王になりました。当時は、現代のように、職業を自由に決めることは難しかったと思われます。結婚も親が決めた相手とするのが普通だったのです。当時の人々は、職業から結婚まで、そして、生まれてから老後の生活に至るまで、このような濃密な血縁関係の中で生活を維持していたのです。しかし、イエスはこのような血縁関係を絶対のものとはされなかったのです。それに優先するものがあると考えられたのです。今日はこのことをテーマにしたいと思います。  

 

(1)〈聞き方〉に注意

二つの喩えで

イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい」と叫ばれた。
            ルカ8:8後半

だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。  ルカ8:18

 

 まず、ルカ伝では、今日の箇所に先行する二つの喩えにおいて、「神のことばをどう聞くか」ということの重要性が指摘されていたことを覚える必要があります。ルカ伝88後半と818をご覧ください。これらの節に出て来る〈聞く〉という動詞には、「聞き従う」という意味が含まれていて、喩えから読み取った教訓を実践してもらいたい、というのがイエスの真意だったと思います。

 特に、ルカ818をご覧ください。ここには、〈聞き方に注意しなさい〉とあります。〈聞き方〉とはどういう意味でしょうか?それは、イエスの教えを「神のことば」として、すなわち、何よりも優先されるべきものとして聞いているかどうかということなのです。そのような姿勢のある人は、恵みに恵みが増し加えられるが、そのような姿勢のない人は、今持っている恵みも失う危険があります、ということなのです。すなわち、〈(神のことばの)聞き方〉によって、あなたの人生は大きく左右されますと、イエスは教えられたのです。

 

(2)母と兄弟たちの来訪を巡って

身内の来訪

イエスのところに母と兄弟たちが来た              ルカ8:19
すると、彼の身内の者たちが、〔彼のことを〕聞いて、彼をつかまえるためにやって来た。なぜなら、人々は彼の気が狂ったと言っていたからである。
      岩波文庫訳 マルコ3:21

 

 ルカ伝ではこれらの喩えの直後に、「神のことば」に対する姿勢の重要性を教えたエピソードが、置かれているのです。これは、「神のことばを聞く」ことの重要性を、二つの喩えで指摘した上にさらに強調するという、ルカの意図があったからだと思います。

 では、そのエピソ-ドを見てみましょう。ルカ819には、〈イエスのところに母と兄弟たちが来た〉と書かれています。何のために、彼らが出てきたのかというと、マルコ321の並行記事をご覧ください。岩波文庫の訳を引用しています。新改訳は〈連れ戻しに出て来た〉と訳されていますが、〈連れ戻し〉は表現が弱いと思います。因みに、新共同訳では〈取り押さえに来た〉と訳しています。〈つかまえる〉とか〈取り押さえる〉というのが原文に近い訳だと思います。これを読めば、母や兄弟たちがイエスの宣教活動をまったく理解していなかったことが分かります。それどころか、強制的に捕らえて家に連れ帰ろうとしていたのです。

 

イエスの対応

ところが、イエスは人々にこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです。」        ルカ8:21

すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」         マルコ3:33

 

 そのような身内の者たちへのイエスの対応は、どうであったでしょうか?ルカ821のイエスの言葉をご覧ください。〈わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです。〉この台詞には、「神のことばを聞いて行うのではないなら、わたしの母、兄弟ではありません。」と、身内を突き放すようないう意味合いを暗に含んでいます。

 マルコ伝の並行記事には、〈わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちではだれのことですか。〉という言葉が、先ほどのイエスの台詞の直前に置かれています。これは、基本的な人間関係を根本から問い直すような台詞なのです。家族(血縁)が生活であり、生計であり、福祉であり、老後の保障であった時代に、身内に対するイエスのことばは、あまりにも過激的過ぎる印象が否めません。しかし、このことは、イエスが年老いた母や弟たちを捨て去る心の冷たい方であったということではないのです。強制的な手段に訴えてもイエスを連れ戻そうとすることにおいて神のみこころに背く身内に対して、神の御前において彼らとの関係を取り戻すために、あえてこのような態度を取られたというのが、真相であったと思われます。

 

(3)弟子としての条件

 

自己優先かキリスト優先か

わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
                 ルカ14:26

 

 このように、地上でそのような親密な関係よりも、神との関係を優先させることは、キリストの弟子となるための条件として、イエスが教えられたことでもありました。ルカ伝1426をご覧ください。ここには、〈(キリスト)の弟子〉になる二つの条件が表明されているのです。一つは、〈(キリスト)のもとに来()〉ことです。これは、意図的にキリストとの関係の中に自らを置くということです。二番目には、〈自分の父、母、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎()〉ということですが、〈憎む〉(メセオー)は、ヘブライ的な表現として「(キリストに比べてそれらを)軽視する、より少なく愛する」と理解する方がよいのです。ここでは、身内や自己との関係に優先するものとして、キリストとの関係があって、それが弟子の根本条件であるとされているのです。

 ここには、身内や自己との関係しか書かれていませんが、当時の一般の庶民にとっては、これが最も優先されるものであったのです。しかし、現代においては、事情はもっと複雑なのです。価値観が多様化しているので、優先するものが人によって様々なのです。しかし、どの時代のどの人物であっても共通していることは、最もこだわるのは〈自分のいのち〉(自己)ではないでしょうか?ナルシストならずとも、自分への執着は誰にでもあります。そして、身内への執着も、また、他のものへの執着も突き詰めれば、自分への執着が外に向かったものと言えるのではないでしょうか?ですから、究極の選択は、キリストか自分自身か、ということなのです。 

 

自己放棄の祝福

自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。  マタイ10:39

 

 自分自身を優先して生きることは大変に魅力的に思えますが、キリストはその道が行き詰ると教えられたのです。マタイ1039の前半をご覧ください。ここには、〈自分のいのちを自分のものとした者〉という表現が出てきます。これは、「(努力して探した末に)見い出した」という意味なのです。では、「自分のいのちを見出した」とは、どういう意味でしょうか?自己追求とか自己実現を至上命題とすることだと思います。しかし、自分らしい人生を追求してはいけないとか、自分らしい幸せを考えてはならないという意味では、決してないのです。文の全体を見ると、正しい意味が明らかになります。すなわち、〈自分のいのち〉と〈わたし〉(キリスト)が対置されていて、キリストとの関係を優先せずに〈自分のいのち〉を追及するなら、〈それを失()〉ということなのです。〈失う〉(アポッリュミ)とは「ぶっ殺す」というような大変に強い言葉で、その損失の大きさを印象付けます。 

では、自己に埋没することが自分の〈いのち〉を殺すことになるのは、なぜでしょうか?それは、キリストという光の下でのみ真の自己に出会うからなのです。マタイ1039の後半には〈わたし(キリスト)のために〉というフレーズが付いています。「キリスト」と〈自分のいのち〉が対置されていて、キリストを優先するために自己追求を放棄する人は、キリストとの関係の中で「真実な自己を発見します」ということです。「真実な自己」は、キリストとの関係で見出せるというのが、新約聖書の一貫した教えなのです。言葉ではこのように説明できますが、これは自分の人生の中で実践するのは、「大事業」なのです。絶えず自我構造の見直しをしながら、キリストのみこころ(みことば)を選択して、それに従って自分の人生を適切に建設する道を模索しなければならないのです。

 

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
                 マタイ7:21

 

 では、最後にキリストが「みことばの実践」を重要視されていたことを、マタイ721から見てみましょう。これは、『山上の説教』の最後の部分です。〈父のみこころ〉(単数形、定冠詞付き)とは、『山上の説教』を指すと思われます。キリストに向かって〈『主よ、主よ』と言う者〉とは、キリストの周りにいる人たちのことです。これは、現在的な意味では、キリスト教という宗教に何らかの関わりがある人たちと言えるでしょう。〈天の御国に入る〉とは、いわゆる「天国」に入ることではありません。〈天の御国(バシレイア)〉(神の国と同義)を「神の支配(バシレイア)」と理解すれば、神を主権者とする交わりに入ることを指しています。

 以上のことから、〈みこころを行う〉ことと〈天の御国〉は、同義反復の関係にあります。〈みこころ〉を書き記されたものとして「みことば」(聖書)があります。〈みこころを行う者〉のところに、〈天の御国〉が出現します。しかも、〈天の御国〉に内包するあらゆる祝福も共に現れるのです。

 

http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2011y/110814.htm