自分の愛し方
自分を本当の意味で大切にしていますか?
本当の自己愛とは何か?
聖書は、「自分を愛する」ことについて何と教えているでしょうか。
聖書は、自分を愛してはいけないと教えているでしょうか。それとも、自分を本当の意味で愛しなさいと教えているのでしょうか。
「自分を愛する」ことについて、考えてみましょう。聖書は言っています。
「あなたの隣り人をあなた自身のように愛せよ」(レビ一九・一八)。
これは隣り人を愛せよ、との教えですが、単に隣人愛だけでなく、じつは真の自己愛についても教えているのです。
なぜなら、「あなた自身のように愛せよ」ですから、自分自身を本当に愛せない人は、隣り人も愛せるはずがありません。
主イエスはまた言われました。
「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう」(ルカ九・二五)。
ある訳はこの「自分自身」を「本当の自分」(true
self)と訳していますが、全世界を手に入れることよりも「本当の自分」「自分自身」を大切にすることこそが必要だ、と主イエスは言われたのです。
主は、私たちに本当の自己愛を持つことをお教えになっているのです。
フィリアの自己愛とアガペーの自己愛
けれども、いわゆる「自己愛」には二種類のものがあります。
一つは、自分に執着し、自分の富、名誉、欲望等に執着し、自分の欲望を満たすことによって幸福を得ようとする自己愛です。これは欲望的な自己愛、執着愛です。
それに対し、もう一つの自己愛の形は、自分の本来の創造目的、また生命の目的を大切にし、それにそった生き方をするという自己愛です。
主イエスがお教えになる自己愛は、前者ではなく後者の自己愛です。じつは聖書は、これら二つの自己愛を、ちゃんと言葉上で使い分けています。
聖書で「愛」と訳されている言葉のうち、代表的なものは二つあって、一つはフィリア、もう一つはアガペーです。「隣り人をあなた自身のように愛せよ」というとき、これは原語ではアガペーです。
はじめに「フィリア」の愛から見てみましょう。
フィリアの愛は、一般に親子愛、師弟愛、友情、恋愛等、人間が自然に心に抱く良い愛情もさします(マタ一〇・三七、ヨハ一一・三)。神への愛にも用いられます(ヨハ二一・一七、Ⅰコリ一六・二二)。それは心情的な愛、愛情なのです。
けれども、フィリアが「自分を愛する」という意味で使われる場合は常に、自分に執着する愛を意味します。たとえば、次の聖句の「愛する」は原語ではフィリアであって、自己執着愛を意味します。
「自分の命を愛する(フィリア)者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠の命に至るのです」(ヨハ一二・二五)。
自分の命に執着する者はかえって命を失い、この世で自分の命を惜しまず神に捧げる者は、かえって命を保って永遠の命に至る、という意味です。聖書は、フィリアの愛で自分を愛してはいけない、と言っているのです。
たとえば、主イエスのたとえ話の中で、エルサレムからエリコに至る道の途中である人が強盗に襲われたとき、祭司とレビ人はその光景を見ながら「反対側を通り過ぎて」行ってしまいました。
彼らは、自分にも危険が及ぶのではないかと思い、自分の命に執着して、隣り人を助けませんでした。この執着が、フィリアの自己愛です。
また、「金銭への愛」というときも、フィリアが使われます。金銭へのフィリアの愛は、金銭への執着愛です。
「金銭を愛する(フィリア)生活をしてはいけません」(ヘブ一三・五)。
フィリアの愛は、このように心情的な親子愛や、友情等も意味しますが、自分や金銭に関して使われる場合は、執着愛を意味するのです。
聖書は、この執着愛では自分を愛してはいけない、と述べています。自分を愛するのは、「アガペー」の愛でなければならないのです。
「あなたの隣り人をあなた自身のように愛せよ(アガペー)」。
アガペーの愛で、自分を、また隣り人を愛するとはどういうことでしょうか。
アガペーの愛は、心情的なものではなく、むしろ理性や信仰から来る意志的なものです。たとえば「隣り人を愛せよ」という場合、これは隣り人があなたにとって好ましい人物であるか否かは、全く関係がありません。
聖書が"自分を愛してはいけない"(ヨハ12:25)、
「金銭を愛する生活をしてはいけない」(ヘブ13:5)
というときの「愛」は、原語ではフィリアであって、
執着愛を意味する。自分を愛する愛は、
アガペーの愛でなければならない。
あなたが「好きか、嫌いか」といった感情的なものは、関係ないのです。たとえ嫌いな、いやな人でも、アガペーの愛で愛しなさい、という意味です。
またアガペーの愛は、相手に善を行なう愛です。隣り人をアガペーの愛で愛せよというとき、それは「好き」という感情を抱けという意味ではなく、隣り人に親切や良いことを行なえ、という意味です。
善を行なうことに愛があるのです。
「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」(マタ七・一二)。
これが、隣り人へのアガペーの愛です。
聖書は、この隣り人へのアガペーの愛と同じような愛をもって、自分自身をも愛しなさいと教えます。自分への愛は、フィリアの愛ではなく、アガペーの愛でなければならないのです。
アガペーの自己愛はそのままの自分をその愛の対象とする
具体的に、アガペーの自己愛について見てみましょう。
アガペーの自己愛は、第一に、そのままの自分をその愛の対象とします。
アガペーの自己愛の対象は、立派なあなたでも、聖人君主となったあなたでも、偉くなったあなたでもありません。そのままのあなた、今のあなたです。
ある人は、「自分が今こんなにひどい不幸な状態にいるのは、生まれた環境が悪かったからだ」「親が悪かったからだ」「友人や先生に恵まれなかったからだ」「チャンスに恵まれなかったからだ」・・・・と思うかも知れません。
また「私には能力がない」「取り柄がない」「学歴も高くないし、性格もよくない」「私は優れた人間ではない」と思う人もいます。
そうした思いにかられている人は、なかなか自分を愛せないものです。「できれば違う自分になりたい」「違う自分に生まれたかった」と思うでしょう。
しかし、アガペーの自己愛は、そのままの自分を認め、ありのままの自分を受け入れ、愛する愛です。
最近、来日して各地でゴスペル・コンサートを開いたレーナ・マリヤさんは、両腕がないという大きなハンディを背負っています。しかし、彼女はいつも明るく澄んだ歌声で会衆を魅了しました。
彼女は口癖のように、
「神様が私を造り、そのままの私を愛して下さっているので、私も自分を愛せます」
と言っていました。彼女は、神様のアガペーの愛を知っていたので、そのままの自分をアガペーの愛で愛することができたのです。
人間は肉体的、精神的、環境的に完全であれば幸福になれる、というものではありません。神様の愛を知るときにのみ、私たちは、真の幸福と真の自己愛を知るのです。
この聖書記事に出てくる強盗に襲われた人は、エリコに至る道の途中で、「半殺し」になって息も絶え絶えになっていました。
幸いにも、その後親切なサマリヤ人に助けられて命拾いしたとはいえ、その後、後遺症が残ったかもしれません。また、「自分は何て不幸な人間なんだろう」と思ったに違いありません。
あなたにも、人生でそういう経験がないでしょうか。
「どうして、私にだけこんなひどいことが起きるのか」。
「私の人生にはいいことがない」。
しかし神様は、この強盗に襲われた人に、親切なサマリヤ人を遣わして下さいました。あなたの人生にもそういうことが起きるでしょう。神様が、あなたに大きな恵みと導きを下さるのです。
サマリヤ人は、自分を愛するように隣り人を愛しました。サマリヤ人が隣り人を愛したように、あなたは自分自身を愛するべきではないでしょうか。
キリストが隣り人を愛されたように、
またあのサマリヤ人が隣り人を愛したように、
あなたが自分を愛するとき、それが真の自己愛である。
自分こそ、あなたの"内なる隣り人"なのです。あなたはその内なる隣り人を、ありのままで愛すべきではないでしょうか。
あなたの愛すべき隣り人は、立派な聖人君主になったあなたでもなく、優れたあなたでもありません。そこにいるあなたです。
聖書は、強盗に襲われた人が「偉大な政治家だった」とか、「その地方の有力者だった」とか記していません。単に「ある人」と記しているだけです。それは普通の人です。
サマリヤ人は、その普通の人を愛しました。サマリヤ人がその人を愛したように、私たちもそのままの自分自身を、アガペーの愛で愛すべきでしょう。
神様は、今のあなたをそのまま愛しておられるのです。ですからあなたも、そのままのあなたを愛する必要があります。
サマリヤ人は、「オリーブ油とぶどう酒を」、襲われた人の傷に注いで介抱しました。オリーブも、ぶどうも木ですから、大地に植えられた場所から他へ動くことはできません。
植物はみな、自分の生え出た場所から移って他へ行くことはできません。しかし、上に伸びるのは自由です。
そして豊かな実をいくらならしてもよいのです。それはやがて、隣り人を潤す芳醇な実となるでしょう。
あの「良きサマリヤ人」は、「自分を愛するように」隣り人を愛した。
レンブラント画
あなたも、肉体的、精神的、環境的には限りがあるかも知れません。しかし、あなたは上に伸びることができます。神様の愛の世界では、私たちはいくらでも伸びることができるのです。
神様の愛の世界で自分を伸ばすこと――それが、アガペーの愛でありのままの自分を愛するということです。
困難を見ても逃げない
アガペーの自己愛は第二に、困難を見ても逃げないことです。
エリコに下る道で、ある人が強盗に襲われたあと、そこを通りかかった祭司は、半殺しになっている彼を見たのに「反対側を通り過ぎて行き」ました。
レビ人も、「彼を見ると反対側を通り過ぎて行き」ました。強盗がまだ近くにいるかも知れないので、そこに長くいたら自分も危ない、と思ったのでしょう。
祭司もレビ人も、身の危険を感じたときや、困難にあったとき、そこから逃げてしまったのです。当時、エルサレムからエリコに下る道は、強盗が多く、危険なことで有名でした。
しかしあのサマリヤ人は、彼を見るとかわいそうに思って近寄り、彼を介抱しました。自分も危険な状況にいることに気づいたでしょうが、それでも彼はそのようにしたのです。
サマリヤ人は、なぜこのように困難を乗り越えてまで、隣り人を愛することができたのでしょうか。それは、彼は隣り人を愛するだけでなく、本当の意味で自分自身を愛することも知っていたからです。
彼は、自分に降りかかってくる様々な困難から逃げず、自分の人生の中でそれを乗り越えていくという、真の自己愛の習慣を持っていました。だからこそ、このときも困難を見ながら、隣り人への愛ある行動に出ることができたのです。
サマリヤ人は困難から逃げなかった。彼は、
立ちふさがる困難を乗り越えていくという
真の自己愛の習慣を身につけていたからである。
私たちは、本当の意味での自己愛を持っていなければ、隣り人への愛も持つこともできません。
本当の意味での自己愛を持っている人は、人生にいかなる困難、試練、苦境がやって来ようと、それから逃げず、神への祈りを通して力強く人生を切り開いていく習慣を持っています。
イエス・キリストの使徒パウロは、「ユダヤ人から"三九のむち"(ユダヤのむち)を受けたことが五度、むち(ローマのむち)で打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことがあり、一昼夜、海上を漂ったことも」ありました。
また「川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べる物もなく、裸でいたことも」ありました(Ⅱコリ一一・二四~二七)。
しかし使徒パウロは、このような数々の困難にぶつかったとき、それらから逃げず、それらをすべて乗り越えていきました。彼は人生の最も辛い、いやな、損な場面を、主の福音のために、真っ先に、微笑みをもって担当したのです。
アガペーの自己愛を持っている人は、困難から逃げません。困難は、自分を磨き、また神の栄光を現わす自分とするための良い機会だからです。
神が、その困難の起こるのを許されたのですから、それは神のみわざの現わされる良い機会ともなり得るでしょう。
自分の正しさを示そうとしない
アガペーの自己愛は第三に、自分の正しさを自分で示そうとしません。
二九節に、
「彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。『では、私の隣り人とは、だれのことですか』」
と記されています。主イエスに尋ねた律法の専門家は、「自分の正しさを示そうと」しました。しかし、本当の自己愛を持っている人は、自分の正しさを自分で示そうとするのではなく、それは神ご自身のご判断におまかせするのです。
私たちはとかく、「自分はもう何でもわかっている」「今自分が持っている考えが正しい」と思い込みがちです。しかし、正しさというものは、神様が判断されることであって、自分で主張すべきことではありません。
主イエスは、真理に耳を傾けようとしない、かたくなな人々に対し、
「あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」(ヨハ九・四一)
と言われました。私たちが「見える」「何でもわかっている」「私が正しい」と思いこむところに、罪があるのです。実際は、私たちは、何も知らない者たちばかりです。
本当の知識は、自分が何も知らない者であることを、知ることに始まります。自分が本当に正しいか、間違っているかを、あなたは知らないのです。
しかし、それを知り、それに最終的にさばきを下される方がおられます。神のみが、真の正しさを知っておられるかたです。
「主をおそれることは知識の初め」(箴言一・七)
です。私たちは神の御前では、自分の正しさを主張することはできません。口をつぐむのみです。
自分の正しさを自分で主張することは、真の自己愛から来るものではありません。もしあなたが正しいなら、たとえあなたが自分で正しさを主張しなくても、やがて神が、あなたの正しさを真昼のように明らかにして下さるのです。
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる」(詩篇三七・五~六)。
アガペーの自己愛は神様を愛する
アガペーの自己愛は第四に、神様を愛することです。
自分をつくり、自分を愛して下さっている神様を愛することこそが、自己愛の土台です。
律法の専門家は、主イエスに対し、
「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」
と尋ねました。彼は「自分のものとして」と言いました。「永遠のいのちを自分のものとして受ける」――これこそ、人間の自己愛の最終的な目標です。
それに対しイエスは、「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか」と言われました。律法の専門家は答えて言いました。
「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』。また『あなたの隣り人をあなた自身のように愛せよ』とあります」。
するとイエスは言われました。
「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」。
永遠の命を得るためには、まず神様を愛することが大切なのです。神様を愛するとは、信仰ということです。
「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エ二〇・六)
と神様は約束して下さっています。神様は、ご自身を愛する者をとくに愛して下さるのです。
神様を愛する人は、神の祝福を招きます。神様を愛する人こそ、自分を本当に愛して永遠の命を得る人です。
信仰なくしては、永遠の命を得ることはありません。神様への信仰を持つことが、本当の意味で自分を愛することでもあるのです。それはあなたに永遠の命をもたらします。
パウロは、キリストにあって困難を切り開きながら、
自分の人生を築き上げた。それは
「永遠のいのちを自分のものとして受ける」ためであった(ピリ3:11)。
永遠の命は、生命の根源である神様と、その救い主キリストを知ることによって得られるものです。神様を愛し、また神様に愛され、神様に祈り、信じ、また御教えに従うことによって永遠の命が与えられるのです。
実在の神様を愛することは、本当の意味であなた自身を大切にし、あなたを愛することでもあります。
幼きサムエルの祈り レーノルツ画
神を愛することが、本当に自分を愛すること。
隣り人を愛せる自分に成長させること
最後に、アガペーの自己愛の第五は、隣り人を愛せる自分に成長させることです。
「あなたの隣り人をあなた自身のように愛せよ」。
私たちが、アガペーの愛で自分を愛せるようになれば、アガペーの愛で隣り人を愛せるようにもなります。
アガペーの愛が何かを知らなければ、自分を本当に愛することも、隣り人を本当に愛することもできません。
アガペーの愛は、相手に善を行なうことです。好きとか嫌いとかいう感情でなく、たとえ嫌いな相手でも善を行なうことが、アガペーの愛です。
そうした愛で自分を愛せるなら、隣り人もそのアガペーの愛で愛せるようになります。自分を愛する愛も、隣り人を愛する愛も、もとは同じなのです。
イエス様が隣り人を愛されたようなアガペーの愛をもって、私たちは自分自身を愛したいものです。自分こそ、内なる隣り人だからです。そしてさらに、「自分を愛するように隣り人を愛する」者になりたいのです。
あなたは、隣り人を愛せる自分になるために、自分をアガペーの愛で愛していますか。
そのままの自分をみつめ、神様がそのままのあなたを愛しておられるように、あなたもそのままのあなたを愛していますか。
神様の愛の世界を、上へ上へ成長しようとしていますか。
たとえ人生に困難があったとしても、神様への祈りを通して人生を切り開いていこうとしていますか。神様を愛し、信仰し、自分に与えられた状況の中で神様の栄光を現わしたい、と願っていますか。
もしあなたがそうしているなら、あなたには「永遠の命」があります。あなたは本当の意味で自分を大切にし、愛しているのです。
そのアガペーの愛をもって、隣り人にも向かおうではありませんか。自分を愛するように、隣り人を愛そうではありませんか。
神様があなたと共におられるのです。隣り人に永遠の命に至る道を話し、共にそれに入るようにしましょう。
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