十字架における神の力と知恵

Ⅰコリント1章18-25節

 

 今日から何回かに分けて、『コリント人への第一の手紙』を部分的に学んでいきたいと思います。できるだけ、手紙の流れを理解できるように努めたいと思います。現在のギリシャはローマ時代には、北のマケドニアと南のアカヤに分けれていましたが、コリントはこのアカヤ州の州都でした。人口は10万から70万までの諸説ありますが、地方の政治の中心であると同時に、交易によって大変に繁栄した町でした。さらに、肥沃な土地が周辺に広がっており、ぶどう栽培のような園芸で成功した町でもありました。さらに、当時の世界最高の知性であるギリシャ文化とスポーツも盛んでした。二年に一度、海神ポセイドンに捧げられた各種目の競技大会が盛大に行われ、人々を熱狂させました。この町について、もう一つ覚えておかなければならないのは、コリントの南の丘に立つ神殿のご神体であった女神アフロディテへの信仰です。この女神は、フェニキヤの農業神バアルの妻アシュタロテの系譜でしたが、神殿に関連した神殿娼婦が1000人以上いたと、ストラボンの記録にあります。コリントの都市自体がこのような異教的な礼拝と深く関わっていました。

 このような状況は、現代の日本とよく似通ったところがあります。罪の暗闇の中にさ迷うコリント人に、パウロは1年半を掛けて伝道しました。そして、多くの人々がキリストを信じました。しかし、パウロによって開始された「神の国」と既存の「この世」が激しく衝突するこの町で、「この世」の大波に飲まれないために、コリント教会はいろいろな意味で武装しなければならなかったのです。今日は、「世の知恵」に対する武装という観点から、今日の箇所を見てみましょう。


(1)世の知恵の限界

知性の限界を指摘する

神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。    Ⅰコリント1:20



 パウロは、コリント教会がパウロ派やペテロ派やアポロ派やキリスト派に分裂していたことを知って、最初のこの問題を取り上げました。そして、分裂の大きな原因の一つとして、彼らが重んじてきた修辞学という弁論術が挙げられます。この修辞学は哲学を背景に持っていました。アウグスティヌスは20歳の時に北アフリカの故郷タガステでラテン語文法の教師となり、22歳でカルタゴで修辞学の教師となります。この修辞学というのは、当時処世術として大変重要であったようです。現代のアメリカで、演説とディベートができなければ、出世しないと言われるようなものですね。コリントの人たちにとって、知識の正当性を巡って分派に分かれて論争するのは、ありふれた光景でした。しかし、パウロは、このような論争が無益であり、愚かなことであることを示そうしたのです。その理由は、<この世の知恵>は、受肉された神であるキリストという「福音の真理」を把握できないからです。まず、このことを考えて見ましょう。

 <この世の知恵>とは、ギリシャ哲学を指します。ギリシャ哲学と言えば、ソクラテス、プラトン、アリストテレスという「知恵の巨人」を思い出しますが、実は、無神論、輪廻転生、宇宙のアルケー(起源と原理)、原子論、地動説(もちろん天動説も)、観念論、唯物論、実存主義、ニヒリズムなど、現代見られるあらゆる概念の萌芽が、ここにあるのです。ギリシャ人が始めた哲学は、人間の知恵の輝ける業績と言えるものでした。しかし、パウロは<神は、この世の知恵を愚かなものにされた>と述べています。どういう意味でしょうか?それは、<この世が自分の知恵によって神を知ることがない>からです。人間の知性が神を捉えることができないというのが、パウロの主張なのです。


その限界は神による定め

事実、この世が自分の知恵によって
神を知ることがないのは、
神の知恵によるのです。 Ⅰコリント1:20-21


 <この世が自分の知恵によって神を知ることがない>ことが、<神の知恵>なのだと、パウロは語ります。このことはどういうことでしょうか?それは、有限な「知性」では、無限の神を知り尽くすことができないからです。有限な知性で理解できるなら、それはもはや神とは言えません。では、どのような意味で、人間の知性は制限されているのでしょうか?

 第一に、世界の知性を動因しても、神の存在を証明することも、否定することもできないという事実です。確かに、この宇宙は神が創造したと考える方が、偶然に存在するようになったと考えるよりも、合理的です。だからと言って、神の存在が証明されたわけではありません。例えば、宇宙は137億年前にビッグバンによって始まったとされていますが、最初の10-43秒までは、何が起こったのかいまだに不明であるとされます。すなわち、科学は人間の知性によって自然の仕組みを理解する最も適切な方法ですが、起源については解明することができていないのです。私は、科学が無限に進んでも、永遠に分からないことだろうと考えています。これが人間の知性の限界なのです。どんなに科学技術が発展して、世の中が便利になっても、人間の知性が神を科学や哲学によって把握することはできないのです。

 第二に、人間が理解できるのは、真理そのものではなくて、人間の認識の形式に翻訳された「真理の近似」に過ぎません。科学が進歩すればするほど、真理に近づくことができるでしょう。しかし、それでも「真理の近似」に過ぎないのです。こうして、永遠に科学の研究は続けられなければならないのです。神や神の創造のわざが人間の知性によって把握できるとすれば、神は人間のレベルまで引き降ろされ、神が否定されることになります。しかし、そういうことはあり得ないのです。


信仰的な認識の領域

信仰によって、私たちは、この世界が
神のことばで造られたことを悟り、
したがって、
見えるものが目に見えるものから
できたのではないことを悟るのです。
                ヘブル11:3


 科学は宇宙の仕組みを解明して、その原理を利用する技術を生み出します。しかし、宇宙が存在する意味や起源を説明することができないのです。人生の意味や起源も同様に、科学では解明できないことです。それらは科学を超えた出来事だからです。人間の知性は、「意味」を把握することができません。しかし、意味を把握しなければ、人間は生きてはいけません。では、どうすれば良いのでしょうか?それは、<信仰によって>なのです。信仰とは、神への人格的信頼のゆえに、その啓示である「神のことば」(聖書)を受け入れることなのです。科学的認識は「疑い」から始めますが、信仰的認識は「信頼」から始めます。

 キリストは「子どもの信仰」を誉めましたが、その理由は彼らの「人格的信頼」の故なのです。生前、私の父親は、よく戦争の体験を話してくれました。旧日本陸軍に入隊して、満州からマレーシアに転属になり、終戦はペナンで迎えたと話していました。私は「ペナン」という町に行ったことも見たこともなかったのですが、父親への信頼から「ペナン」が存在すると信用したのです。私は、「ペナン」の存在を科学的に認識していませんでしたが、信頼によってすでに知っていたのです。『ディ・アフター・トゥモロー』という映画が、数年前にありました。気象学者ジャック・ホールは、地球の温暖化によって海流が遮断され、逆に氷河期が来ると警告していましたが、突然に氷河期になってしまうというストーリーです。その時、ジャックの息子サムは、ニューヨークの図書館に閉じ込められるのですが、父親から電話で「大きな寒気団がニューヨーク来るから、決して図書館から出ないように。必ず助けに行くから。」との連絡を受けます。しかし、多くの人々は、図書館から離れて、南の暖かい地方に避難してしまいます。しかし、サムは父親の気象学の理論はまったく理解できませんでしたが、父親の自分への愛と善意と学者としての能力に信頼して、図書館に留まったのです。信頼するかどうかが、生死の分かれ目となったのです。人間の知性は、宇宙の起源や意味を突き止めることはできません。しかし、それを創造された神への全面的な信頼の故に、「みことば」から知ることができるのです。


(2)価値観(概念)の枠を超える


価値観(概念)の限界を指摘する

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを
宣べ伝えるのです。
ユダヤ人にとってはつまずき、
異邦人にとっては愚かでしょうが、Ⅰコリント1:23


  さらに、当時のヘレニズム世界の価値観に触れる必要があります。ギリシャ文化では、英雄が神として崇拝されました。これは、ギリシャ文化に限らず、どこでもどの時代でもそうだと思います。徳川家康も『権現様』と称して、日光東照宮で神格化されているのです。スポーツでも、科学でも、政治経済でも、人々はヒーローを崇拝するのです。しかし、<十字架につけられたキリスト>は、そのどれでもありません。むしろ、ユダヤ当局のねたみを買い、側近の弟子に裏切られて失脚した者でした。しかも、十字架刑というもっとも惨めな最後を遂げた人物でした。ですから、人間的な価値観から言えば、キリストは<愚か>、具の骨頂、「負け組」の典型であったのです。

 ユダヤ社会も事情は同じでした。彼らにとって、「メシヤのしるし」が重要であったのです。「メシヤのしるし」とは、異教徒の国々を滅ぼし、世界の秩序を「神の国」に変えるダビデ的な英雄でした。「十字架のメシヤ」は矛盾そのものだったのです。なぜ、メシヤが十字架に架かって敗北するのか、予め理解できた人は皆無でした。ですから、<十字架につけられたキリスト>は、<ユダヤ人にとってはつまずき>だったのです。


彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、
私たちも彼を尊ばなかった。
          イザヤ53:2b-3


 イザヤが描いた「受難のメシヤ」に姿を見ていただきたいのです。どう見ても、「負け組」の典型としか思えないような描写です。ローマのパラティーノの丘の遺跡で、ある落書きが見つかりました。1857年のことです。そこには、十字架に架けられたロバの頭を持つ人を一人の男が拝んでいるのです。そして、下手なギリシャ語でこんな文章が書き付けられていました。「アレクサメノスは、(彼の)神を拝む。」ロバとはこの時代でも「愚か」を意味したようです。この落書きが見つかった建物は、宮廷の使用人の寄宿学校があったところです。恐らく、生徒の一人がアレクサメノスという人が信じるキリストを侮辱して書いたものと思われます。これが、「受難のメシア」に対する常識的な評価だったのです。

 <十字架につけられたキリスト>は、当時のどのような概念の枠をも超えていたのです。預言者イザヤの描く「受難のメシヤ」が、このような事情をよく表現しています。十字架が意味する「受肉された神のアガペー」は、人間のあらゆる概念を超えるものでした。こういう意味でも、神は人間の思考の枠を超えた存在であるのです。


アガペーという概念

私たちはみな、羊のようにさまよい、
おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、は、私たちのすべての咎を
彼に負わせた。      イザヤ53:6


 アガペーは、元々は三位一体の神の内部のあり方ですが、神は人間ともアガペーの関係を結ぼうとされます。このアガペーは、人間の理解はもちろんですが、サタンの理解をさえも超えたものだったのです。サタンがアガペーを理解していたなら、決してユダの裏切りによりユダヤ人に売り渡すことはしなかったでしょう。サタンは、人間によるこのようなひどい仕打ちを受けたなら、キリストは人間を見捨てるだろうと、期待していたのです。しかし、この期待はまったく外れてしまいました。キリストが十字架に架かった時、サタンははじめて自らを滅亡に導く、とんでもない間違いに気づいたのです。サタンの辞書には、アガペーという概念はなかったのですが、それが彼の盲点だったのです。


また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さが
どれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに越えたキリストの愛
知ることができますように。    エペソ3:17b-19a


 パウロは、キリストのアガペーは、<人知をはるかに越えた>ものとしています。ギリシャ語では、冠詞付きの「知識」(グノーシス)なのですが、人間の知性一般を指しています。人間同士にも、アガペーらしきものはあります。しかし、十字架にかかるほどの「神のアガペー」は、人間の概念にはありません。神とは、英雄であり、カリスマであり、アイドルであり、偉大であるからです。人々は、ただ啓示によってのみ、「受難のメシア」を知ることができるのです。


(3)<宣教のことばの愚かさ>


<十字架のことば>は<神の力>

十字架のことばは、
滅びに至る人々には愚かであっても、
救いを受ける私たちには、神の力です。
        Ⅰコリント1:18


 さて、Ⅰコリント1:18に戻りましょう。<十字架のことば>、すなわち、<十字架につけられたキリスト>が、<神の力>であると、パウロは言っています。<力>([ギリシャ語]ドゥナミス)とは、可能性や潜在力のことです。それは、後に木になり、花になる種が持つ可能性と同じです。この<十字架のことば>が<神の力>とはどういう意味でしょうか?それは、神との和解を実現する力であり、和解によって開かれた祝福の可能性なのです。

 なぜなら、それは神から迷い出た人間の罪人として素顔を明らかにし、キリストがそのような人間の身代わりとして死ぬほどに、私やあなたを愛しておられるというメッセージだからです。十字架にかかるほどの犠牲を支払っても、神は人間との和解を申し出られたのです。普通、強い者が弱い者に犠牲を強いるものです。しかし、神は自らが犠牲となるという「愚か者」となってまでも、人間を愛しておられるというのが、<十字架のことば>なのです。ここに、<神の知恵>があり、<神の力>があるのです。


<神の力>の内容とは?

また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さが
どれほどであるかを理解する力を持つようになり
                エペソ3:
17b-18


 このような<神の力>が私たちとどのような関係があるかを考えましょう。ここで言う<神の力>(神が人に適用される可能性)とは、「アガペー」なのです。第一に、パウロは、この「神のアガペー」が人を根本的に、かつ最終的に支えるものだと言っています。<愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがた>とは、そういう意味に取れます。神のアガペーが人生を支えることにおいて、決定的に有効であることは、親子関係に似ています。親は未成年の自分の子を養育する義務と権利があります。親は、幼い子どもにとっていろいろな意味で決定的な存在です。同様に、神は十字架によって救われたすべての人間に対して、養育と保護の責任を担われるのです。あなたという存在を、神のアガペーは支えるのです。

 また、<神の力>の第二の現れについて、考えて見ましょう。神のアガペーは一方的ですが、それを受けていることを悟った人間の内に変化をもたらします。アガペーは人知を越えていますから、啓示によって学ばなければ知ることはできません。パウロは、アガペーの<広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか理解する力を持つように>なるようにと、エペソのクリスチャンのために祈っています。アガペーの学習が、あなたの人生そのものなのです。

 あなたは、まだ神を知識で把握しようとしておられませんか?そうではなく、人格的な信頼によって、神を知る方法を覚えましょう。神はそのような信仰には、必ず応えてくださるのです。

 

http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2008y/081026.htm