日本の敎會史
1.キリスト敎の傳來と鎖國.
プロテスタント宣敎は1859年に始まるが,これに先立つこと約3世紀,日本には特異なカトリック宣敎の時代,1549年,F¥*ハビエル(ザビエル)の鹿兒島渡來より1639年,鎖國令による全面的禁制に至る,いわゆる*キリシタン時代がある.世界史の上ではポルトガル,スペインによって開けた大航海時代であり,日本史の上では戰國時代末期,織田豊臣時代,江戶時代初期に當る.ハビエルは*イエズス會士.16世紀末までのキリシタン宣敎はイエズス會の獨占であった.當初から貿易と不離の關係にあったが,戰國武將は地方の領主といわず,織田信長,豊臣秀吉,德川家康など中央の權力者といわず,みな外國貿易を强く望むところから,キリシタン宗には一樣にすこぶる寬容であったため,A・買@リニャーノのごとき有能な宣敎師の活動と相まち,極めて順調に,九州一円,次いで關西に驚異的な敎勢を達成することができた.しかし,1587年,秀吉は突如信長以來の方針を一變,宣敎師追放令を發して彈壓に轉ずる.ただし,宗敎と貿易を區別し貿易は從來通りとしていることは注目される.90年代に入ると,イエズス會以外の諸會派も宣敎師を送り込むようになり,加えてプロテスタント國,オランダ,イギリスの船舶も交易を求めて渡來し,宗敎事情はとみに複雜化してゆくが,貿易の切り離しはとうてい困難であったから,宣敎師追放令は徹底したものとはなり得なかった.秀吉死して權力は家康に移り,1603年,江戶幕府が開かれることになっても,宗敎貿易分離の建前にさしたる變化はなく,一時,東日本に宣敎の足がかりをつかんだこともあったが,やがて家康の政策はキリシタン禁制に傾いてゆく.最初の禁敎令は幕府直轄領に限り1612年に出され,翌13年これが全國に擴大された.しかしいかに激しい迫害をもってしても目的を達することはできなかった.あえて願望の外國貿易を放棄しても禁制を貫くため,幕府はいよいよ鎖國への道を步み始める.最初の鎖國令は33年,以後34,35,36年と續く.日本人の海外渡航,海外にある日本人の歸國を一切禁じ,年ごとに嚴しさを增していったが,ついに39年,宣敎師の潛入根絶のためポルトガル船の來航を禁じ,同時にオランダ船,中國船にも禁令の趣旨を通達した.すでにスペイン,イギリスとの通交は斷絶しており,鎖國はこの年をもって完成したことになる.日本の權力者が宣敎師の追放に始まり,ついに鎖國に踏み切るに至った原因は,キリシタン宣敎に對する根深い政治的猜疑,恐怖にあった.狂暴な迫害もそこからきたと言える.その動機として「サン․フェリーペ號事件」のごときは最も大きいものであろう.1596年,遭難して四國浦戶に漂着したスペイン船サン․フェリーペ號乘り組みの水先案內が自國領土の廣大を誇り,われわれは,まず宣敎師を送って土着民をキリスト敎徒にする.次に軍隊を送り,土着民の力を借りてその土地を征服するのだと高言した.これが秀吉の知るところとなって彼を硬化させたばかりでなく,彼以後,江戶幕府による激しい迫害を招いたのである.さらに加え,あたかも封建的全國統一成就の時期であり,キリシタン宗はその重大な障害物として格別に目星をつけて排除されねばならなかった.鎖國は19世紀半ばまで續く.その間,約200年の長きにわたり,嚴禁下,巧みに隱れて信仰を生き拔いた潛伏キリシタンの存在したことは銘記されなければならない.
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