キリスト教講座④【『教会の信仰』とは】


■教会の信仰 
 最後に、先に挙げていました「~私の信仰?教会の信仰?~」についてですけれども、こういうことを見ていきますと、信仰というのは個人的なものというよりも、信仰共同体である教会の重要性というものが見えてきます。古くから礼拝式文の中で「わたしたちの罪ではなく、教会の信仰をかえりみ・・・」という祈りが捧げられることが定められ用いられてきました。また現在もカトリック教会のミサ式文にはそれが受け継がれております。
わたしたちの信仰は皆それぞれに小さなものであったり、また自分が弱り果てたとき、信仰を失ってしまったと見えるような事すらあります。自分の信仰はもうないから、これで終わりだ。などとなりかねません。しかし聖書は「教会の信仰」ということを言います。私たちの罪ではなく、教会の信仰をかえりみて下さい。と、祈るのが私たちの祈りです。自分たちの信仰は教会の信仰の中に支えられ、守られているとも言えますでしょう。自分には信仰がなくなったと思えるときも教会の信仰の中に守られている。だから礼拝を捧げ続けるし、祈り続けるのです。
教会に結ばれたわたしたちの信仰ということを考えて頂ければよろしいかと思います。


■まとめ
教会に結ばれたわたしたちだから、何もしなくていい、大船に乗ったつもりで自由にしたいことをして、元気にやりましょう。と言うことではありません。教会に結ばれた信仰であるからこそ、一人一人は教会の枝であり、肢体であり、それぞれに委ねられた働きがあります。組み合わされ、建て上げられていくという教会の理解もあります。教会に結ばれた信仰であるからこそ、教会のために、牧師、聖職のために、そして同じキリストの体に結ばれている兄弟姉妹のためにお祈り頂きたいのです。


 キリスト教講座③【信仰生活と教会】

信仰生活の致命線 ~教会~
キリスト者の生活において、どうして教会(教会生活)が重要なのでしょうか? 自分で自由にイエス様を信じていれば、それでもイエス様を信じているに違いないのだから、それでいいのではないでしょうか? いいえ。聖霊の働き、それはキリストのからだであり、聖霊の神殿である教会において実現されるのです。ですから、信じているけれど教会に行かないというようなことは正しい信仰としては何とも位置づけられない少しおかしなことになってしまいます。

ここまで信じ方の話をしてきました。キリスト教は自分でイメージを作り上げて信じるタイプの宗教ではないという話しです。日本の宗教はそうではありません。例えば村の祠の神様は、なんだかよくわからないけれどありがたい。檀家のお寺のご本尊は名前もご利益も知らないけれどありがたい。そのような信じ方ですから、信じてさえいればお寺に毎週行ってお線香をあげなくても、村の祠のお祭りは年に一回、それ以外は誰もお参りしなくても問題ないわけです。
少し余談ですが、このような日本独特の宗教観から、「無教会」と呼ばれる教会を持たないキリスト教が生まれてきたと言っても良いでしょう。この無教会というのは名前の通り教会を持たないキリスト教だと言っています。イエス様のお話しを聞いて、聖書を勉強して、それぞれ信じているのだからそれでいいというものです。
しかし、それではいけないわけで、キリスト教というのは、教会を通して存在するわけで、自分の信じ方で教会を建てたのではないのです。

重ねて申し上げますが、自分の作り上げたものではなくて、神が定めたものであるということが重要なのです。個人の才能や大衆の本能とか感激が教会を建設したのではありませんでした。誰にも、弟子達にすら教会を建てる力はなかったのです。誰もがそれを着手するに相応しくなかったのです。
上からのもの。つまり、教会はイエス・キリストの教会であり、他の誰にも、つまり教皇にも、牧師にも、民族にも、役員会にも、民族にも属していない。キリストのからだ以外の何ものでもない。神がイエス・キリストにおいて定めたものであるということが決定的に重要なのです。
ですから牧師であっても、信徒であっても、教会を自分のものとすることは出来ませんし、自分の意図のままに作り上げることも、組織することも出来ないのです。そもそも教会について「こういうもの」と人間の側から(下から)定義することは出来ません。

キリスト教講座②【聖霊と教会】


聖霊と教会~わたしの信仰?教会の信仰?~                     
信仰告白というものは、文章を見ると判るように、父なる神について、御子キリストについて、聖霊についてと、大きく3つの項目に分かれます。その聖霊の項目の最後に教会ということが告白されています。しかし、どうして聖霊の項目に教会が含まれているのでしょうか?

○ 聖霊と教会の関係?
イエス・キリストが昇天された後、ペンテコステに聖霊が注がれました。使徒言行録2章では、「一同が一つになって祈っていると・・・一同は聖霊に満たされ・・・。」(2:1-4)とあります。
聖霊は、キリストを信じる者が一つに集って祈っていたときに注がれました。個人に注がれたのですけれども、それは共同体的な聖霊の注ぎであって、信者が単独でいるときに、あちこちで勝手に起こったのではありませんでした。キリストを信じる者が一つに集って祈っていたとき、つまり、ペンテコステになされた聖霊の注ぎは「教会」を抜きにしては考えられないと言えます。教会と聖霊との関係は非常に重要な位置づけになります。


キリスト教講座①【教会の信仰】


■はじめに
 キリスト教会にはいくつかの信条、信仰告白というものがあります。これは誰かが書いて、いつの間にか浸透して、広く使われるようになったものではありません。教会が公の会議などにおいて定めたものです。その最古のものの一つにニケア・コンスタンチノープル信条というものがあります。このようなものです。

   
■ニケア・コスタンチノープル信条(381年第一回コンスタンティノーポリス公会議)

我は信ず、唯一の神、全能の父、天と地、見ゆるもの、見えざるものすべての創り主を。
我は信ず、唯一の主、神の御一人子イエス・キリストを。主は、よろず世の先に、父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神。 つくられずして生まれ、父と一体なり。すべては主によりて創られたり。主はわれら人類のため、またわれらの救いのために天よりくだり、聖霊によりて、おとめマリアより御からだを受け、人となり給えり。ポンテオ・ピラトのもとにて、 我らのために十字架につけられ  苦しみを受け、葬られ給えり。聖書にありしごとく、三日目によみがえり、天に昇りて、父の右に座し給う。主は栄光のうちに再び来たり、生ける人と死せる人とを裁き給う。主の国は終わることなし。

我は信ず、主なる聖霊 生命の与え主を、聖霊は父と子よりいで、父と子と共に拝みあがめられ、また預言者によりて語り給えり。われは、一・聖・公・使徒継承の教会を信じ、 罪の赦しのためなる 唯一の洗礼を認め、 死者のよみがえりと、来世の生命とを待ち望む。アーメン。

ここで最後の聖霊の項目の中で、「教会を信じ・・・」とあるように、教会いうことに対する信仰告白が出てきます。教会はそれだけ重要なものとして理解されてきました。

 キリスト教会の信仰、キリスト者の信仰というものは多様なものですけれども、キリスト者は何を信じているかといいますと、「私はこう思う」「わたしはこの時こう感動した。」このような私の感動、私の経験に起因した信仰ではありません。
 
 教会の信仰というのは、教会の持つ信仰告白を正しく信じるということが出来るか出来ないかということで、私の思う所のキリストを信じるということは、民間信仰と変わらない、私のキリスト教、私の礼拝というものを作ってしまうわけです。キリスト教は私のキリスト教ではなくて、教会の信仰というものを継承してきたのです。洗礼式の時に、皆さんは誓約をなさいました。その誓約はこのようなものでした。「あなたは聖書に基づき、日本基督教団信仰告白に言い表された信仰を告白しますか。」そこで皆さんは「はい。告白します。」と仰った訳です。私はこういう信仰の出会いがあった。この言葉に、この出来事に感動してキリストを信じることにした。というきっかけは尊いものですけれど、それによって出来上がった自分のイメージのキリストを信じているのではありません。信じていれば何でもいいというのではなくて、教会の信仰告白に言い表された信仰を告白し、そのキリストを信じるというのが教会の信仰です。この信仰告白で語られているのは、人に対して神が関与したもうことについてであって、その逆ではないのです。徹底的に人間主体ではないのです。

言い換えますと、私たちが、何を信じているのかという事が「信仰告白」に書いてあるのです。つまり、「わたしの信仰はこういう信仰です」という事が、この信仰告白の内容なのです。

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