聖書から見る同性愛

結婚はキリストと教会の象徴です(エフェソ5:21-33)。結婚は神から人間へと与えられた素晴らしい贈り物であり、神から来る真実さを表しています。結婚は、イエスキリストと教会との関係性を象徴しています。教会はキリストの花嫁です(2コリント11:1-2 / 黙示録19:7-9)。人間の喜びのために神の意図された目的を曲げてしまうことは、問題を無視することになってしまいます。聖書が教えている結婚は、常に違った性別(男女)間のものであり、決して同性間のものではありません。聖書に何と書かれているか見ていきましょう。

神はアダムを人類最初の人間として創造されました(1コリント15:45)。そして神はアダムのためにパートナーを創造されましたが、それは女性でした(創世記2:18、21-24)。この男女という組み合わせは、子を産み、地上に人口を増やしていくことが可能です(創世記1:27-28)。

男女が一緒になるのは自然であり、良いことです。しかし人間は神の本来の目的を曲げてしまいました(ロマ1:24-27)。男と男が性的関係を持つことは、神が人間に対して与えられた本来の目的に敵対しています(レビ18:22)。男と男、または女と女が性的に一緒になるのは自然ではなく、人間が本来あるべき姿に反しています。同性から子どもを生み出すことは不可能であるため、同性同士が一緒になるべきではありません。
同性愛者であることは、神が人間を創造した本来の姿に反しています。同性愛者になることを人間は選べますが、神は人間をそのようには創造していません。これは個人の選択です。神は同性愛を嫌悪しており、それに反する者は死刑に処せられるべきだと述べています(レビ20:13)。もし同性愛が個人の選択でなく、神が人間をもともとそのように創造されたのであれば、神は人間を殺しはしないでしょう。同性愛者であることは、聖書の教えに反しているということです。

ロマ1:26-27とレビ18:22 / レビ20:13には『Septuagint(セプトゥアギンタ)』という同じギリシャ語が使われています。これは新約、旧約共に、神は同性愛の関係を嫌悪されるという意味です(1コリント6:9と1テモテ1:10も見て下さい)。聖い生活を送ろうとするなら、聖書のある部分にだけは従い、自分が従いたくない部分には従わないという選択をするのは間違っています。聖書が示している罪というものを、人間の好き勝手に解釈し、あれは罪だがこれは罪ではないなどとしてしまうことは、聖書に従っていません。聖書に従おうとする人は、神様を喜ばせられるように生きようとします。同性愛を認めている牧師や聖職者は、その教えをさばかれることになるでしょう。全てのことにおいて、牧師と聖書のメッセージが反発するということは通常あり得ないはずです。もし聖書と自らの意見が合わなかったとしても、人間の思いや気持ちではなく、神の言葉である聖書に倣うべきです。

ソドムという町(創世記18:16-19:29)には同性愛に走る多くの罪で満ちており、その罪によって町は滅ぼされました。彼らは罪を隠そうとさえしませんでした。(イザヤ3:9)そしてソドムの町は日常的に邪悪でした(2ペテ2:6ー8)。ソドムは非常に繁栄した町でありプライドに満ちていました(エゼキエル16:49)。そして彼らは自分たちの性的な罪を知っていました(創世記19:4-5 / ユダ1:7)。男が男を性的に求めることが罪であるということを知っていたのです。

神が人間に結婚内での性的関係を与えられたのは、夫婦がお互いに喜びを得られ、子どものことも考えられるようにされるためです。男女が結婚をするとき、新しい家族が始まります。二人は一体となるのです(創世記2:24)。男が父母を離れて女と結婚し、二人が一体となるという構図は、神ご自身が定められた順番です。これが神が人類を相続させていくようにされた自然の方法です。夫と妻が体の関係を持つとき、二人は一体となり、子どもをもうける可能性があります。同性同士で一体となることは不可能です。男女の生殖器は一体になることが可能ですが、同性同士の生殖器は一体となることができません。同性同士であっても性的関係を結ぶことはできますが、そもそも生殖器がそのように創造されていないため、それは自然なことではありません。神が人間に肉体関係を与えたのには理由があります。その目的を無視してしまっては、神が肉体関係を与えた理由が意味のないものになってしまいます。

神が一緒にした男女の結婚を離すべきではありません(マルコ10:7-9)。男が結婚をすると、優先順位が変わってきますが、常に神との関係を最も優先すべきです。そして妻帯者にとって第二の優先順位は、妻との関係であるべきです。

もしあなたがクリスチャンで、同性愛の問題を抱えているなら、自分で選択をする必要があります。主に従いたいなら、喜んでそうすべきです。信じる者がたとえ同性愛者であっても、一度主によって得た救いをそのことによって失うわけではありません。救いは永遠だからです。しかし、同性愛者であることで、主との関係性や天国での報酬、神に喜んでいただけるかということには大いに影響してきます。

あなたがクリスチャンではなく、どうして聖書が同性愛の関係を否定するのか考えているなら、聖書の内容は神の言葉だからです。神が私たち人間を創造され、神は私たちにとって何が最善であるかをご存知です。神は人間がどのように生きることが私たちにとって最善であるかを示されました。結婚関係外で性的関係を持つことに対して、聖書の教えに逆らっている結果、どれほどの性病や問題が起こっているかは見ての通りです。この件だけに関わらず、すべてのことにおいて聖書の教えに従うことが、私たちにとって最善であることは明確です。

何よりも最も大切なことは、救い、永遠の命はイエス・キリストへの信仰によってのみ得られます。どのような性的関係を持っているかによって救いが与えられるのではありません。すべては主が十字架上で流された血の購いによるのです。イエスに信仰を置くとき、全ての罪は許されて神の義を得ます(ロマ3:21ー28 / 2コリント5:21)。神の義を神が与えられるのであって、私たち自身の義で救われるのではありません。もしまだイエスを信じてお任せしたことがないなら、今がその時かもしれません。イエスを自分の救い主として信じてお任せすることだけで、救いは与えられます。神は全ての人間を愛し、ご自分を救い主として信じる者に、永遠のいのちを贈り物として与えてくださいます。聖書は性的不品行を避けるようにと教えています。1テサロニケ4:1ー8を読んでください。

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