しかし主は言われた。もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、「根こそぎ海の中に植われ。」と言えば、言いつけどおりになるのです。(ルカ伝17:6)

信仰が大切なのは言うまでもありませんが、聖書の教える全き信仰を持ちというのは、そう容易い事ではないようです。というのは、そのような信仰は人の努力で持ち得るものではなく、御霊の働きにより信仰が与えられなければならないからです。カルヴァン派の神学用語では、これを有効召命と言います。

有効召命があればこそ、キリスト者になり得るわけですが、有効召命がなくてもキリスト教という宗教団体の信者にはなれない事もないでしょう。本来、そういう事があってはならないのですが、信徒数を増やしたい教会側の思惑と聖書には興味もなければ神もキリストもどうでもいいが親切な友が欲しいという形式的入信希望者の利益が相俟って、偽りの信仰告白により信者になるケ...ースがあるのです。いやそれほど露骨ではなくても、救いの確信をまだ持たない状態でフライングしてしまう場合も多いように思われます。

これらは御霊の導きによって与えられる信仰ではないので、偽りの信仰と言わねばなりませんし、偽りの信仰であるならば、そのような者の心の内に、救いの保証として与えられる御霊がお住まいにはならないでしょう(第二コリント1:22)。

信仰は私たちの努力でどうかなるものではありません。あくまで神の憐れみにより有効召命が与えられかの如何にかかっているのです

ここで私たちは自分の信仰を点検する必要があります。有効召命が与えられて信仰を得ているか、それとも成り行きで「にわかクリスチャン」や「なんちゃってクリスチャン」になっていないかをです

形式的であったり見かけ倒しの信仰は何の役にもたちません。しかし、神が与えて下さる信仰は、からし種のように小さくても、信じられないほど大きな事をやってのける力があるのです。神が憐れんで全き信仰を与えて下さるように祈りましょう。今ならまだ間に合いますから。