プロテスタントの教会では、信仰が強調されます。約二千年にわたる教会の歴史の中で、「信仰か、それとも行いか」という問いかけが幾度もなされ、その時代の風潮の影響を受けながら、振り子が行ったり来たりしました。

信仰を強調する仏教風にいえば他力本願派も、行いを強調する自力本願派も、如何ともしがたい苦悩をなんとか克服しようとする点では共通しています。

苦悩に直面した時、それによってより神との交わりが深まるようにとの神の深遠なるご計画があるのだと考えて、苦悩のうちにも共にいて下さるキリストの愛と導きを確信して前進することで苦悩を克服しようとする者は、他力を強調します。

一方、苦悩に直面した時、完全なる勝利が約束されており、その勝利を得るべく神は既に力を与えて下さっているのだから、自分らも神の愛と導きに感謝して、勝利を得るべく努力すべきであると考える者は自力を強調します。

他力を強調しようが自力...を強調しようが、等しく神の愛と導きを認めているわけですから、神学者が論ずるようなカルヴァン主義とアルミニアン・ウェスレアン主義の違いを浮き上がらせて教団間の争いを加熱させる必要はないはずです。人それぞれフィットするアプローチがあるわけで、もし、自分の教会の教義と合わない信者がいるなら、その信者に合う教会を紹介できるくらいの度量が必要だと思います。使徒信条で「聖なる公同の教会」を信じると告白しながら、現実には自分の教派の教会のみを認めているようでは、頭であられるキリスト・イエスの御心に従わない大逆を犯している事に気付くべきです。

「ヨハネがイエスに言った。『先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。』しかし、イエスは言われた。『やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行いながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はいないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」(マルコ伝9:38-40)

教派神学もその教派のアイデンティティー形成のために必要だし、聖書の解釈の一つの類型である事は間違いありません。その教派に属するものにとっては、それは大切な地図の役割をするでしょう。しかし、別の教派の者たちは、別の地図を持っており、各々、その地図に従って違うルートで同じ目的地に向かって行っているのです。大阪から東京に向かうのに、飛行機でも新幹線でも行けるし、国道でトラックを捕まえてヒッチハイクで向かう手もあるでしょう。行き方はそれぞれです。

もし、教会の頭がキリスト・イエスであること、及び、聖なる公同の教会の存在を認めているならば、自分が属する教派のみが正統派であると吹聴し、他教派を異端扱いしたり、執拗に他教派を攻撃することなど出来ないはずです。他教派を批難する前に、自分らが良い実を実らすべく努力しては如何なものかと思います。牧師は、自分の神学でもって信者を誤導しないようにすべきなのです。教会のリバイバルを叫ぶ前に、牧師自らが先ずは悔い改める必要がありそうです。

主よ。憐れみたまえ。