「必要なことはひとつ」

 

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聖書
ルカの福音書10章38~42節
10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 

メッセージ

 ある会社が、「次のうち、次のうちどれかひとつだけ手に入るとしたら、あなたに必要なものは何ですか?」というアンケートを実施しました。対象は20代の若者です。
 有り余る金。誰もがひれ伏す権力。知らない人はいないというぐらいの名声、互いに信頼できる親友、心から愛し、愛される人、温かい家庭、誰にも負けない美しい容姿、一生かけて極めたい仕事、とことんのめりこめる趣味。皆様なら何を選ぶでしょうか。
 このアンケートの結果はというと、男性の一位は有り余る金で、二位は温かい家庭。逆に女性の一位は「温かい家庭」で、二位がお金でした。三位は男女共通で「心から愛し、愛される人」。四位はというと、男性は「一生をかけて極めたい仕事」で、女性は「信頼できる親友」となります。
 富か、名声か、家庭か、友か、仕事か、趣味か。人生に必要なものを一つ選ぶというのは、本当に難しいこと。その人の価値観、人生観が問われることかと思われます。
 それでは、私たちイエス・キリストを信じる者にとって、どうしても必要な一つのこととは一体何なのか。果たして、自分は今まで何を必要な一つのことと考えてきたのか、またそれをどう実践してきたのか。今日は、そんなことを考えさせられる場面です。
 さて、お話の舞台は、オリーブ山の麓にあったベタニヤという村。「果物の家」という意味の小さな村です。イエス・キリストがこの村を訪れ、既に親しいマルタ、マリヤ姉妹の家に足をのばすと、ふたりがこれを迎えるという場面でした。

 10:38,39「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」

 マルタとマリヤ、姉と妹。しかし、この二人、同じ血をひきながら性格は正反対でした。
 私にも二人の妹がいます。上の妹は内向的で、全てにおいて慎重で神経質。それに対して、下の妹は外交的で自由奔放、細かいことに拘らず大雑把と、対照的です。
 今日登場する姉妹、マルタさんとマリヤさんの場合は、お姉さんのマルタが行動的、妹のマリヤは内省的。お姉さんが「動」なら妹は「静」。マルタが熱く燃える太陽なら、マリヤの方は静かに佇む月のようです。
 イエス様が来てくださるというので、お姉さんのマルタはタスキがけで台所に立ち、あれもこれもと、料理と接待に奮闘する。片時も休まず働く働き者で世話好きなお姉さんでした。
 一方、妹のマリヤさんは脇役と言いましょうか。お姉さんが走り回る間、お客さんのかたわらでお相手をする。イエス様の話すことに、じっと耳を傾ける。内省的、宗教的な妹の姿です。
 ただ、これがマリヤの性格だからというだけでなく、実は彼女なりに大きな決断を伴う行動であったことは、後で触れたいと思います。
 いつもそうだとは決まっていたわけではないでしょうが、少なくともこの場合、働き、奉仕という点では、積極的なマルタと、受動的なマリヤという印象を受けます。
 妹のマリヤも、始めはお姉さんとともに台所で料理をしていたのでしょう。しかし、いつの間にか、イエスの足もとでみことばを聞く役となる。一方、姉のマルタは独り汗をにじませて立ち働く。姉と妹、お互いに相補い合っているように見えます。
 ところが、ここでマルタの問題が露わになりました。最初はちょっと位なら良いかと、みことばを聞く妹のことを大目に見ていたマルタが、その後一向に手伝いをせず、自分を助けようとしないのに腹を立てたのでしょうか。
 八つ当たりをしてしまったのです。それも、妹マリヤにではなく、お客様のイエス様に向かってです。

 10:40「ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

 こう言われて、イエスさまも困ったかもしれません。妹のマリヤに当たったのならともかく、なんとゲストのイエス様に当たってしまった。大切にもてなそうとしている当のお客さんに八つ当たりでした。
 「イエス様。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何とも思わないのですか。」実にきつい口調、刺のある物言い。目を吊り上げて怒るマルタの姿が目に浮かびます。
 しかし、これでは目的と結果が逆でした。最上のもてなしをしようと思いながら、かえって、大切な客に腹を立て、当たってしまった。一体、誰のため、何のためのもてなしか、ということになります。
 行動型の人の盲点、熱心に働き、奉仕する人の弱点は、こうした本末転倒にあるように思います。
 大切な人へのおもてなしが、いつしか、相手のためという目的を忘れ、「こうしたい」「ああしたい」という自分の思い、自分の計画の方が主となってしまう。そして、自分の計画通りに行動しない人にイライラし、批判する。自分の思い通りにならないお客様に腹を立て、抗議する。まさに本末転倒です。
  もちろん、マルタさんのような女性は魅力的です。どんな時でも、座り込んでお喋りばかりしている人よりも、周りの人のために心配りする人、黙々と立ち働く女性は、本当に美しいと思います。そんなタイプの男性は、何と格好良いことかと思います。
 しかし、残念ながら、マルタは一線を越えてしまったのです。妹にイライラし、お客のイエス様に八つ当たりしてしまった。つまり、自分では意識しなかったでしょうが、自分の基準で人を裁く裁判官になってしまったのです。
 その人のために良かれと思ってやっているうちに、熱心になればなるほど自分の計画が主となって、周りの人を居たたまれなくしてしまう、本来感謝されるべき親切が押し付けになって、人の迷惑になってしまう。
 我が身を振り返れば、誰にも身に覚えのあるマルタさんの言動。私たちも十分気をつけたいことです。
 さらに、です。「時」が「時」でした。この時の訪問は、イエス・キリストの十字架の時も近づいて、イエス様が一分でも、一秒でも多くを語り残しておきたい、教えておきたいと願い、なされたものと考えられます。
 他の「時」でない。十字架の死は迫っている。マルタにも、もてなしをきりあげて、ご自分が語ることばを聞いて欲しい。それが、イエス様の思いだったのでしょう。
 ですから、イエス様は、マルタらしい心遣いともてなしに十分に感謝しながら、やさしくマルタを戒めました。

 10:41,42「主は答えて言われた。『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』」

 色々と心を遣いすぎて、思い煩いとなってしまったマルタ。それがご自分のためであることを十分理解し、受けとめ、ねぎらいつつも、イエス・キリストは釘を一本刺しました。「わたしを信じる者にとって、どうしても必要なひとつのこと、良いことを選んだ妹のマリヤから、それをとりあげてはならない」と言われたのです。

 10:42「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。」

 マリヤが選んだ良いほう、どうしても必要な一つのこととは何だったのでしょうか。「ご馳走はたくさんでなく一品でよい」ととる説もあります。しかし、ここはイエス・キリストの教え、みことばを聞くこと、イエス・キリストと交わることと考えてよいでしょう。
 先ほど、マリヤは内省的、宗教的な女性だから、イエス様のもとでみことばを聞いていたわけではない、と言いました。むしろ、彼女は様々なストレスを感じながら、それと戦い、イエス様の言うとおり、自分にとってどうしても必要な一つのことを選んだのです。
 そのストレスとは何か。ひとつは、当時の男尊女卑の風潮です。昔ユダヤでは、女性が直接宗教の教師から教えを受けることは高慢、無作法であり、避けるべきこととされました。
 その様な社会にあって、男性の弟子達がいる中、イエス・キリストの前に進み出て、みことばを聞くこと、聞き続けることには大変な勇気が必要だったと思われます。しかし、その様な偏見に屈することなく、キリストを信じる者にとって必要な一つのことを選んだのがマリヤでした。
 ふたつ目のストレスは、お姉さんマルタの視線です。お姉さんが「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」と言った時、マリヤの心は切なかったことでしょう。
 お姉さんの自分に対する思い、「どうして一緒に働かないの。女性なら、姉妹なら当然そうすべきでしょ」という怒りを、マリヤはとうに察していたはずです。しかし、それが自分にではなく、イエス様に向けられたのを聞いた時、「こともあろうにイエス様に迷惑をかけてしまった」と心を痛めたでしょう。
 けれども、続けて語られたおことばは、マリヤの心を平安で満たし、いっそうイエス・キリストに対する信頼を深めたもの、と考えられます。何故なら、彼女がこの世の偏見と戦い、家族の冷たい視線に苦しみながら、直接みことばを聞き、イエス様と交わるのを選んだことを、イエス様が全て知っておられ、守ってくれたと分かったからです。

 10:42「『しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』」

 イエス・キリストを信じる私たちにとってなくてはならぬ一つのこと。それは、イエス・キリストとの正しい関係です。イエス・キリストのみことばを聞き、親しく交わることです。この一年間、皆様はこのためにどれ程時間をとり、実践してきたでしょうか。
 人生は多忙です。仕事、家事、育児に日常の雑事。親戚や隣人とのお付き合い。仕事の不振、家族の病、家計のやりくりに人間関係のもつれ。思い煩う事も多々あります。
 しかし、そのような様々なストレスの中で、どうしても必要なひとつのことを選び、実践してゆく者となりたいのです。
 あれも必要、これもしなければならない。そんな状況の中、あのマリヤのように私たちの魂の平安と成長のために、欠かすことのできないこと、どうしても必要なひとつのこと、聖日の礼拝、日々の個人的な礼拝を選びとる。イエス・キリストのもとに行き、実ことばを聞き、交わることを喜びとする。そんな歩みが出来たらと思います。
 ところで、ルカの福音書には、この出来事の前に、有名な「善きサマリヤ人」のお話が記されていました。そこで教えられたのは、愛とは隣人のために行動すること、実践、実行こそ大切ということでした。
 しかし、マルタに対するイエス様のことばは、その行動、実行も行きすぎるとこんな危険に落ち入ると、私たちをひきしめてくれます。「薬も過ぎれば毒になる」ということです。
 と同時に、隣人に対し愛をよく実行、実践するためには、イエス・キリストのみことばを聞くこと、親しく交わり、その愛を受け取ることを疎かにしてはならない、欠かしてはならない、いや実は、これこそ最も大事なことと教えられます。
 最後に、イエス・キリストの最大の願いはそのみことばをもって、私たちをもてなすことだということを確認したいのです。
 イエス様をもてなそうと一生懸命だったマルタ。そのために心患い、怒りを爆発させてしまったマルタ。しかし、実は、そのみことばをもってマルタをもてなしたいと願っていたのはイエスさまの方ではなかったかと思わされます。だから、どうしても必要なことは一つと、教えられたのではなかったでしょうか。
 私たち人間がもてなしている、奉仕をささげていると思ったら、実はイエス・キリストの方が、聖日の礼拝、日々の礼拝において、無くてはならぬもの、恵みのみことばのご馳走で私たちをもてなし、奉仕してくださっている。
 そんなイエス・キリストの愛を覚え、励まされ、私たちも気兼ねせず、救い主の心づくしのおもてなしを日々受けてゆきたいと思います。今日の聖句です。

コロサイ3:16「キリストのことばを、あなた方のうちに豊かに住まわせ、知恵をつくして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から髪に向かって歌いなさい。」

 

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