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偽善を警戒しよう
カルヴァン派の教理教育でよく利用されているウエストミンスター小教理問答の第一問は、カルヴァン派の信条を端的に表現しているとして有名です。
(問1) 人のおもな目的は何であるか。
(答) 人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。
ジャン・カルヴァンは神の主権を強調しました。プロテスタントの離脱・独立により西方教会が分裂するまでは、高級祭司の権威が膨張し過ぎて、それが聖の俗化をもたらしました。カルヴァンは神と人との仲裁者はイエス・キリスト以外に存在し得ないし、救いへと導かれる方も祭司ではなく全能なる神ご自身であるとして、神の絶対主権を提唱したのです。主権が神にあるのに、神の名により権力を振りかざす当時の堕落したカトリックの違法性を証明しようとしたのです。
神の主権的導き(聖定)により召し出されたキリスト者は、前掲の(問1)に対する答を信仰生活の目標にしなければなりません。カルヴァン派のキリスト者であるならば、必ず学んだはずのこの教理を果たしてどれだけの人が実践出来ているでしょうか。
カルヴァンは神の絶対主権を唱えることで全ての信者を神の前で公平であるとし、神から与えられた賜物に従って働くことが、神の栄光をあらわすことになると同時に、神を喜ぶことにつながるとしながら、教会における職分は賜物の違いに過ぎず、カトリックのようなヒエラルキーではないとしました。
ところがやはり人間は罪深いのか、カルヴァン派の教会の一部は、職分をヒエラルキーに変質させてしまい、その職分が神の名により付与された事を執拗に強調して、神の後光を帯びて信者を支配しようという堕落した中世カトリックの祭司以上に悪質な事をやってのける不届千万な連中が跋扈し始めました。特に、韓国から流入した長老派にこの傾向は顕著です。
さて、カルヴァン派の一部でなぜこのような脱線が始まったのでしょうか。その理由を知ることができる言葉があるので、それを紹介したいと思います。
「内的に生活して神を喜ばせ奉ることができず、ただなだめ奉ろうとする者は、禍なるかな。」(クレルヴォーのベルナルドゥス)
12世紀のフランスの神学者であったクレルヴォーのベルナルドゥスの言葉です。御言を生きる生活をして神に栄光を帰することをせず、礼拝行為に終始して神のご機嫌取りをするような連中を禍だと語っています。神のご機嫌取りは、敬虔さの指標ではありません。ところが、禍なる連中は、ご機嫌取りの演技を敬虔さの現れであるように見せかけるのです。こうして彼らは、腐敗した中世カトリック教会のミニチュアを自分らの教会に作り上げているのです。
イエスはこう語っています。
「イエスはまず弟子たちに対して、話しだされた。『パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。」(ルカ伝12:1b)
ここに出てくる「偽善」という言葉のギリシャ語は「ヒュポクリシス」という単語が使われており、元々の意味は、演技するという意味です。イエスがここで言いたかったのは、パリサイ派の連中が栄光を帰して喜びとするのは、そもそも神であったはずなのに、神を仰がず、会衆に見せるために自分の敬虔さを演技して見せていたことを警戒し、弟子たちに影響されて真似しないようにということだったのです。
人間には他人に評価してもらいたいという根源的欲求があります。聖書ではそれを肉の欲と呼んでいます。キリスト者はこの肉の欲に影響を受けないように御霊の導き、つまり神の主権的導きに従って生きるのです。ですから私たち人のおもな目的は、神の主権的導きにより、「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」なのであって、神の栄光をあらわしているふりをして、永遠に神を喜んでいるように見せかけて高慢になることではないということです。斜陽する今日の教会の問題の根元の一つは、まさにここにあるといっていいでしょう。信仰とは人に見せびらかすものではありません。ただひたすら神に感謝し、御言を生きるのみです。
(問1) 人のおもな目的は何であるか。
(答) 人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。
ジャン・カルヴァンは神の主権を強調しました。プロテスタントの離脱・独立により西方教会が分裂するまでは、高級祭司の権威が膨張し過ぎて、それが聖の俗化をもたらしました。カルヴァンは神と人との仲裁者はイエス・キリスト以外に存在し得ないし、救いへと導かれる方も祭司ではなく全能なる神ご自身であるとして、神の絶対主権を提唱したのです。主権が神にあるのに、神の名により権力を振りかざす当時の堕落したカトリックの違法性を証明しようとしたのです。
神の主権的導き(聖定)により召し出されたキリスト者は、前掲の(問1)に対する答を信仰生活の目標にしなければなりません。カルヴァン派のキリスト者であるならば、必ず学んだはずのこの教理を果たしてどれだけの人が実践出来ているでしょうか。
カルヴァンは神の絶対主権を唱えることで全ての信者を神の前で公平であるとし、神から与えられた賜物に従って働くことが、神の栄光をあらわすことになると同時に、神を喜ぶことにつながるとしながら、教会における職分は賜物の違いに過ぎず、カトリックのようなヒエラルキーではないとしました。
ところがやはり人間は罪深いのか、カルヴァン派の教会の一部は、職分をヒエラルキーに変質させてしまい、その職分が神の名により付与された事を執拗に強調して、神の後光を帯びて信者を支配しようという堕落した中世カトリックの祭司以上に悪質な事をやってのける不届千万な連中が跋扈し始めました。特に、韓国から流入した長老派にこの傾向は顕著です。
さて、カルヴァン派の一部でなぜこのような脱線が始まったのでしょうか。その理由を知ることができる言葉があるので、それを紹介したいと思います。
「内的に生活して神を喜ばせ奉ることができず、ただなだめ奉ろうとする者は、禍なるかな。」(クレルヴォーのベルナルドゥス)
12世紀のフランスの神学者であったクレルヴォーのベルナルドゥスの言葉です。御言を生きる生活をして神に栄光を帰することをせず、礼拝行為に終始して神のご機嫌取りをするような連中を禍だと語っています。神のご機嫌取りは、敬虔さの指標ではありません。ところが、禍なる連中は、ご機嫌取りの演技を敬虔さの現れであるように見せかけるのです。こうして彼らは、腐敗した中世カトリック教会のミニチュアを自分らの教会に作り上げているのです。
イエスはこう語っています。
「イエスはまず弟子たちに対して、話しだされた。『パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。」(ルカ伝12:1b)
ここに出てくる「偽善」という言葉のギリシャ語は「ヒュポクリシス」という単語が使われており、元々の意味は、演技するという意味です。イエスがここで言いたかったのは、パリサイ派の連中が栄光を帰して喜びとするのは、そもそも神であったはずなのに、神を仰がず、会衆に見せるために自分の敬虔さを演技して見せていたことを警戒し、弟子たちに影響されて真似しないようにということだったのです。
人間には他人に評価してもらいたいという根源的欲求があります。聖書ではそれを肉の欲と呼んでいます。キリスト者はこの肉の欲に影響を受けないように御霊の導き、つまり神の主権的導きに従って生きるのです。ですから私たち人のおもな目的は、神の主権的導きにより、「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」なのであって、神の栄光をあらわしているふりをして、永遠に神を喜んでいるように見せかけて高慢になることではないということです。斜陽する今日の教会の問題の根元の一つは、まさにここにあるといっていいでしょう。信仰とは人に見せびらかすものではありません。ただひたすら神に感謝し、御言を生きるのみです。