前進し続けるには

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絶対に勝てない相手を知っていますか。それは自分の理想です。自分の理想は、あくまで理想です。実現し得ないから理想であり得るのです。理想が叶いかけると、自分でも気付かないうちにハードルを上げて、またそれを乗り越えようと果てしない理想実現の旅を続けているのが私たち人間です。ですから、決して勝てないのです。

ただ問題は、絶対に勝てない自分の理想に叩きのめされて、しょぼんとしてしまう人がいるという事です。こういう人は、理想には勝てないという事を知らない場合が多いので、自分が決定的な敗北を喫したと思い、絶望してしまうのです。そこで彼らは理想の実現のために未来の目標に向かって進む事を諦めて、目を過去に向けてそれを後悔してみたり、過去に関わりのあった人を逆恨みしたりして、自分の傷を癒そうとするのです。しかし、私たちは過去に遡る事も出来なければ、それを修正する事も出来ないのです。それどころか、こういう人は、大事な事を忘れています。

どのような人でも、ある行為を行うにあたっては、出来る限りの情報を総合評価して、最善の判断を下しているのです。例えば、異性と交際する時に、不純な動機で交際するのでなければ、自分にとってピッタリな相手を選ぶでしょう。最悪な相手を最初から選ぶアブノーマルな人間は、皆無といっていいでしょう。しかし、そのようにして選んだ異性と破局を迎える事も場合によっては、ありますよね。確かに選んだその時は最善の判断を下して交際に踏み切ったにもかかわらず、こういう悲しい結末が待っていたりするのです。そうなのです。自分の判断は完璧のように思えて、実はそう当てにならない代物なのです。ですから過去を振り返って後悔してブツブツ言う時間があったら、別のアプローチを試してみるべきでしょう。異性の場合なら、その失敗が礎となって、よりぴったりの異性を選ぶ事ができるかもしれません。昔から失敗は成功の元と言いますが、理想を追い続ける事が出来る人とは、失敗を恐れない人、失敗を喜べる人なのです。

旧約聖書のイザヤ書に次のような御言(みことば)があります。

「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」(イザヤ書43:18-19)

前掲の御言は、バビロンに捕囚されているユダヤ人に対する神からの励ましであり解放の約束ですが、その条件として神は、悔い改めを要求しています。実はこれが大切なのです。過去の失敗は、素直に直視して、その問題点をあぶり出して、同じ失敗を繰り返さないようにしなければなりません。過去の歴史の清算をせずに先には進めないからです。

これは民族や国家のみならず、私たち一個人も同じです。過去に拘泥して先に進めない人は、過去の過ちを直視する勇気のない人なのです。しかし、もし彼が、人間の判断力など所詮当てにならないという事実を知っていれば、そこまで苦悩せずに、むしろどこに問題があったのかを冷静に見定めて、今後の戒めとしつつ、新しい第一歩を踏み出せるはずです。

キリスト者とはどんな人なのでしょうか。自分の弱さを自覚している人とも言えそうです。自分の努力では如何(いかん)ともしがたい限界や自分の判断力の不完全さを認めた人でなければ、救いや導かれる方を必要としないでしょう。自力本願など不可能なので、イエスという他力を求めるのです。

過去を直視し、至らなかった点を素直に反省し、悔い改めて、主イエス・キリストに導かれて前進しつづけるのがキリスト者なのです。

「正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ。悪者はつまずいて滅びる。」(箴言24:16)

私たちキリスト者は倒れても立ち上がれます。過去を恐れないからです。むしろ今後の戒めとしながら、神が与えてくださるヴィジョンに向かって、キリスト・イエスと共に前進し続けるのです。自分は弱い、でも弱いがゆえに、そこに神は働かれるのです。