「聖霊と洗礼」
牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: イザヤ書 第42章1-9節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第1章1-11節
・ 讃美歌:344、393、533
ペンテコステは教会の誕生日 本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。主イエスの復活から50日目のこの日、集まって祈っていた弟子たちの上に聖霊が降り、彼らは神様からの力を受けて、十字架にかかって死んだけれども父なる神様によって復活した主イエスこそ救い主であられる、という福音、救いの知らせを人々に宣べ伝え始めました。その出来事は使徒言行録の第2章に語られています。そこには、この日弟子たちの説教を聞いた人々が3000人ほど洗礼を受けたと語られています。イエス・キリストの名による洗礼を受けた者たちの群れである教会がこの世に誕生したのです。ですからペンテコステはキリスト教会の誕生日です。聖霊が降り、そのお働きの中で人々が洗礼を受けることによって教会が生まれたのです。
洗礼と聖霊 本日この礼拝においてご一緒に読む聖書の箇所は、マルコによる福音書第1章1~11節です。マルコ福音書の書き出しの部分であるこの箇所には、主イエスのために道を備える役割を神様から与えられた洗礼者ヨハネが現れ、ヨルダン川で洗礼を授けたこと、そしてヨハネは7節にあるように、「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」と言って、後から登場する主イエスのことを証ししたこと、そしてその主イエスご自身が現れ、ヨハネから洗礼を受けたこと、すると天から「霊」が主イエスの上に降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたことが語られています。この「霊」は神様からの霊、聖霊です。またヨハネは主イエスのことを8節で「わたしは水であなたがたに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」とも言いました。ですから本日のこの箇所には、主イエスご自身の洗礼において聖霊が降ったことと、主イエスは聖霊によって洗礼を授けて下さる方であることが語られているのです。聖霊の働きと洗礼とが不可分の関係にあることが示されていると言えます。ペンテコステの出来事においてもまさに、聖霊が降って人々が洗礼を受けました。使徒言行録第2章38節で使徒ペトロは、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と問うた人々に、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と語りました。この日聖霊を受けた弟子たちが洗礼を授け、それを受けた人たちにも聖霊が賜物として与えられるのです。聖霊の働きと洗礼との分ち難い結びつきが語られているという点で、本日の箇所とペンテコステの出来事とはつながっています。別の言い方をすれば、本日の箇所において「主イエスは聖霊で洗礼をお授けになる」と語ったヨハネの言葉が、ペンテコステの日に、聖霊を受けた弟子たちが洗礼を授けたことにおいて実現したのです。主イエスは復活して天に昇り、父なる神の右の座に着かれましたが、そこから遣わされた聖霊が弟子たちに降り、彼らが洗礼を授けることによって、聖霊で洗礼を授けるという主イエスのみ業が実現したのです。そのみ業は今も続いています。ペンテコステに、聖霊の働きによって誕生した教会は、それ以来およそ二千年にわたって、数えきれない人々に洗礼を授けてきました。本日もこの礼拝において、二人の方々が洗礼を受けます。主イエスが聖霊で洗礼を授けて下さるという恵みの出来事が、今日この場においても起るのです。「その方は聖霊で洗礼をお授けになる」とヨハネが語った主イエスのみ業が今ここでも行われるのです。直接洗礼を授けるのは牧師ですが、そのことを通して、主イエス・キリストご自身が、お二人の方に聖霊によって洗礼を授けて下さるのです。
聖霊による洗礼 ペンテコステの出来事においては、聖霊が降ったことによって、洗礼を授ける権威と力が弟子たちに与えられ、人々が洗礼を受けて教会が誕生しました。つまり教会の誕生は、イエス・キリストを信じる信仰を持った人たちが集まって一つの群れを作ったという出来事ではなかったのです。そういう人間の思いや行動によって教会が誕生したのではなくて、聖霊の力が働いて、キリストの福音を宣べ伝える者たちが興され、その者たちによって洗礼が授けられたことによって教会は誕生したのです。これはとても大事なことです。教会は人間が集まって作った団体、結社ではありません。私たちは聖霊のお働きによって呼び集められて、このように教会に連なる者、あるいは礼拝に出席する者となっているのです。そして洗礼を受けるというのも、単に私たちがキリストを信じる信仰を表明して、教会に入会する意志を表す、というだけのことではありません。洗礼には信仰の告白が伴いますが、洗礼の根本的な意味はそこにあるのではありません。洗礼は、聖霊が私たちを新しく生まれ変わらせて下さるという聖霊のみ業、神による出来事なのです。だから洗礼は生涯に一度だけ受けるものです。人間の信仰の告白ならば、何度繰り返してもよいものだし、もう一度新たに決意表明をし直すということもあるでしょう。しかし洗礼は、聖霊の力によって、生まれつきの、罪に支配された私たちがキリストの十字架の死にあずかって死んでしまい、主イエスの復活にあずかる新しい命が与えられる、つまり神様によって新しく生まれ変わるという出来事です。そのような決定的な変化が、私たちの人生にただ一度、洗礼において起るのです。教会とは、この洗礼を受けた者たちの群れです。つまり教会は聖霊によってキリストの救いにあずかり、新しくされて、神のものとされた人々の共同体なのです。
主イエスの受洗と聖霊 さて本日の箇所の、主イエスご自身が洗礼をお受けになった話を見ていきたいと思います。主イエスが洗礼をお受けになり、水の中から上がるとすぐ、天から「霊」が鳩のように降って来るのを御覧になった、と語られています。洗礼を受けた主イエスに聖霊が降った、これはペンテコステの日にペトロが、洗礼を受けることによって賜物として聖霊が与えられる、と語ったことと一見重なるようにも思われますが、そこには大きな違いがあります。ペンテコステ以来の教会の洗礼においては、先ほど申しましたように、聖霊が降ることによって洗礼を授ける権威と力が人間に与えられ、その洗礼を受ける者も聖霊によって新しく生まれ変わるという救いの出来事にあずかるわけですが、ここでは、洗礼者ヨハネに聖霊が降ったとは語られていません。ヨハネは、後から来る主イエスこそが聖霊で洗礼を授ける方であって、自分は水で洗礼を授けているに過ぎないと言っています。また主イエスも、ヨハネから洗礼を受けたことによって新しく生まれ変わったのではありません。ヨハネが「わたしより優れた方が、後から来られる」と言ったことがそれを示しています。自分が洗礼を授けることによってその人が優れた者となるのではなくて、もともと自分より優れている方が来られる、とヨハネは言っているのです。それゆえに、これはマルコではなくてマタイ福音書が語っていることですが、主イエスが洗礼を受けようとして来た時にヨハネは「わたしこそあなたから洗礼を受けるべき者なのに」と言ったと伝えられています。ヨハネが洗礼を授けたことによって主イエスが聖霊を受け、生まれ変わって救い主となったわけではないのです。それでは、洗礼を受けた主イエスに聖霊が降ったというここに語られている出来事にはどんな意味があるのでしょうか。
父なる神の宣言 その意味は、その時天から聞こえた声によって示されています。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえたのです。これは主イエスの父である神様のみ声です。聖霊が降ると共にこの声が聞こえたのです。それはいずれも父なる神様のみ業です。父なる神様が主イエスに聖霊を遣わし、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という宣言をお与えになったのです。「あなたは」とあるように、これは主イエスご自身への語りかけです。天が裂けて「霊」が鳩のように御自分に降って来るのを御覧になったのも主イエスご自身です。つまりこれは、父なる神様が主イエスに聖霊を遣わし、「あなたは私の心に適う神の子であり、私の思いを実現していく者だ」と告げた、という出来事なのです。このことを通して主イエスは、ご自分が神の子であり、父である神のみ心に適う救い主としての業を行なっていくのだ、という自覚と確信を与えられ、またその業を行っていくための力を聖霊によってお受けになったのです。
私たちの罪を背負うために この出来事が、主イエスがヨハネから洗礼を受けた直後に起ったことに大きな意味があります。ヨハネの授けていた洗礼は、4節にあるように「罪の赦しを得させるため」の「悔い改めの洗礼」です。悔い改めて罪の赦しを得る、という救いの印としてこの洗礼は授けられていたのです。それは当然ながら、罪を犯している者、罪人が受ける洗礼です。自分が罪人であり、このままでは救いにあずかることができないことを認めて、罪を悔い、神様からの赦しを求めて神様のもとに立ち帰る、それが悔い改めることです。それによって罪の赦しが、救いが与えられる、その救いの印が洗礼なのです。それはペンテコステ以降の教会の洗礼にも共通していることです。先ほどの使徒言行録第2章38節にあったように、ペトロは人々に、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」と勧めました。自分の罪を認め、その赦しを願って神様の方へと向きを変えること、そのように悔い改める者を神様は赦し、新しく生まれ変わらせて下さるのです。その救いの印が洗礼です。このように洗礼は罪人だからこそ受けるものなのです。その洗礼を、神様の独り子であられる主イエスがお受けになった。それは主イエスも悔い改めて神様に赦しを願わなければならない罪人だったということではありません。ご自身は全く罪のない神の独り子、まことの神であられる方が、罪人の救いの印である洗礼を受けて下さったのです。それは、まことの神であられる主イエスが、罪人であり、そのままでは救いにあずかることができない私たちの所にまで降りて来て下さり、私たちの罪を、そしてそこから生じる様々な苦しみ悲しみ、悲惨なことを、ご自分の身に背負って下さった、ということです。つまり主イエスが洗礼をお受けになったのは、ご自分のためではなくて、私たちの罪を背負うため、罪人である私たちの救いを成し遂げるための第一歩だったのです。
神の救いのみ心 主イエスがその洗礼を受けて下さった時に、聖霊が天から降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父なる神様のみ声が聞こえたという出来事は、主イエスが洗礼を受け、罪人の罪を背負うことを、父である神様が喜び、それこそご自分のみ心であると示して下さった、ということです。主イエスがこれからどのように歩み、神様のみ心に適う救いをどのようにして成し遂げていくことを父なる神様が望んでおられるのかがここに示されたのです。父なる神様の救いのみ心、ご計画は、神の独り子であられる主イエスが、罪人が受けるべき悔い改めの洗礼を受けて、罪人である私たちと共に歩んで下さり、私たちを担って下さることにこそありました。私たちは生まれつき罪のとりこであり、神様を愛することができず、神様によって与えられた自分の人生を感謝することができずに不平不満を覚え、つまり自分自身を本当に愛することができず、それゆえにまた隣人をも愛し慈しむことができず、ねたみや憎しみなどの苦い思い、意地悪な思いを抱いてお互いに傷付け合ってしまう者です。その結果、様々な苦しみや悲しみを背負い、それに押しつぶされそうになりながら生きています。その私たちの苦しみ悲しみの全てを、主イエスは私たちと共に担い、共に歩んで下さるのです。そのように歩んで下さる主イエスのことを、父なる神様は、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と宣言して下さったのです。主イエスが罪人と共に洗礼を受け、私たちの苦しみや悲しみを共に担って下さることこそ、父なる神様のみ心に適う救いのみ業なのです。そして神様は、主イエスがそのようにして救いのみ業を行っていくために、聖霊を遣わして下さったのです。聖霊の力によって主イエスは、罪人である私たちとただ共に歩み、苦しみや悲しみの傷を互いに舐め合い、慰め合うようなことではなくて、私たちの罪と苦しみ悲しみの全てを、私たちに代わって引き受け、それらを全て背負って下さることができたのです。主イエスが十字架にかかって死んで下さったというのはそういうことです。罪人と共に洗礼を受け、罪人と共に歩み、人間の罪を、苦しみ悲しみをご自分の身に全て背負って、主イエスは私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んで下さいました。主イエスが聖霊を受けてそのような生涯を歩み通して下さったことによって、私たちを支配している罪と死の力に対する神様の恵みの勝利が実現したのです。主イエスの復活がその勝利の印です。ヨハネから洗礼を受けたことから始まった主イエスの歩みは、聖霊の導きによって、ゴルコタの十字架の死へと、そして復活による勝利へとつながっていったのです。
イエス・キリストの名による洗礼 主イエスが聖霊の力を受けて歩まれたこのご生涯、十字架の死と復活に至る歩みによって、洗礼において与えられる恵みも新しくなりました。ヨハネの洗礼は、悔い改めの洗礼、罪人が神様のもとに立ち帰り、赦しを求めることを表す洗礼でした。しかし主イエスの十字架と復活による神様の恵みの勝利を経て、ペンテコステに聖霊が降ったことによって誕生した教会において授けられている洗礼は、それよりもはるかに大きな意味と力とを持つものなのです。この洗礼においては聖霊が働いて下さっており、ペトロが語ったように、これを受ける者は賜物として聖霊を受けるのです。つまりイエス・キリストの名による洗礼を受けることによって私たちは、主イエスの受洗の時に降り、ペンテコステに弟子たちに降って教会が誕生した、その聖霊を受け、その聖霊のお働きによって、主イエスが十字架の死によって実現して下さった罪の赦しの恵みをいただき、主イエスの復活にあずかる新しい命を生き始めるのです。生まれつき、神様をも隣人をも愛することのできない罪に捕えられてしまっていた私たちが、この洗礼において聖霊によって主イエスと一つとされ、私たちも神の子とされます。そして「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声が、主イエスと共にこの自分に対しても語られているみ言葉であることを知らされるのです。この父なる神様の語りかけを聞き、その愛の中で生きていくことによって、私たちも、神様と隣人を愛して生きる、み心に適う歩みへと押し出されていくのです。
教会は、洗礼を受けることによって聖霊を与えられ、主イエスと共に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父なる神様の語りかけを聞きつつ生きる者たちの群れです。ペンテコステに誕生したこの教会に、今日また新たに二人の方々が加えられます。聖霊のみ業を心から感謝すると共に、その聖霊が今ここに集う私たち全ての者に働いて下さっており、主イエス・キリストが成し遂げて下さった救いにあずからせて下さっていることを改めて確信したいと思います。そして聖霊なる神様が、さらに多くの方々を、洗礼へと導いて下さることを祈り願います。
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