自分をコントロールする事の難しさ

私たち人間にとって一番コントロールしにくいものは何でしょうか。コントロールし難いものはたくさんありますが、その中で最も厄介なのは、自分自身ではないでしょうか。他人からよくない習慣を指摘されると、自分の事は自分が一番よく分かっていると言い訳しますが、分かっていないから指摘されたのですから、すでに論理が破綻してますよね。古より自分をコントロールする事の難しさが指摘されています。古代ローマの政治家であった小セネカは、「自分を統制下における者こそ一番強大である。」(Potentissimus est quī sē habet in potestāte.)と彼の著書「道徳書簡集」の中で語っています。

さて、自分をコントロールできる人とはどんな人なのでしょうか。聖書に次のように書かれています。

「私たちはみな、多くの点で失敗するものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」(ヤコブ書3:2)

言葉は心の中で考えている事を発するわけですから、何を心の内に宿しているかが大切です。イエスもまた次のように語られました。

「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。(中略) あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ伝12:34-37)

なぜ私たちは、こんなに大言壮語するのでしょうか。それは、自分の弱さを隠したい衝動があるからなのでしょう。私たちは四六時中、他人の目を気にしながら、見栄を張って生きているようなものです。最近流行りのコスプレも、憧れのアニメのキャラのコスチュームで自分を包み込み、アニメキャラという鎧で自己を暫しのあいだ世間から消去する事で、世間体や見栄も張らず、自己の欲求をアニメキャラとして爆発させる事でストレスの解消を図っているのかもしれません。ありのままの姿で生きて行きたい。でもありのままの姿は、自分で考えてもおぞましい姿。他人様にお見せする事の出来る代物ではない。そこでどうしても見栄を張ってしまう。でもそれは本当の自分ではない。この悪循環が人間を疲れさせ、ついには、本当の自分を見失わせ、諸悪の原因となってしまうのです。勇気を出して、自分の弱さを認める事が、この苦しみのスパイラルから逃れる唯一の方法です。

キリスト教では、「罪を認めなさい」という言葉をよく使います。ひょっとしてあなたもお聞きになった事があるかもしれません。するとよく「私は他人様から後ろ指指されるような悪い事はしていません」と言われる方が多いです。確かに、聖書でいう罪に、法律上の罪、つまり、犯罪や不法行為等々も含まれますが、聖書のいう罪は、神の喜ばれる生き方を全うできない状態、つまり、聖書で神が私たち人間に要求している事を行っていない事を言います。神は私たちに、自力本願は無理だと語られます。心の中で否定的な考えが出る人は、まず脱落です。心の中で考えている事を語り、そしてそれを現実に行動するのが人間だからです。いい事をしよう、この目標を達成しようと努力しますが、何故、私たちは失敗するのですか。それは、私たちが弱いからです。

キリスト教には「原罪」という考え方があります。聖書によりますと、人間の始祖はアダムとあります。後に、独りぼっちは良くないという事で、アダムのあばら骨でエバという女を創り出しました。この夫婦はエデンの園に住み、園の果実を食べて幸せに暮らしておりました。園の果実は何を食べても良かったのですが、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)と神は命じられました。ところが蛇がエバをそそのかし、夫のアダムとその食べてはならぬ実を食べてしまいました。すると「ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った」(創世記3:7)とあります。裸であることを知って、彼らはお互いどのように自分が思われているのかという他人の目をこの時以来、気にするようになったのです。この事件を契機に、神と人との関係に断絶が生じました。神は聖なる方なので、悪と交わることが出来ません。ですから、神の命令に背いた人間とそれまでのように交わることができないのです。このように神との断絶状態をキリスト教では、「不義」と言います。

そこでこのような疑問が生まれると思います。神は何故、誘惑に陥るような善悪の知識の木を園に置き、しかもその事をアダムとエバにお語りになったのか、と。実はここが非常に重要なポイントです。堕落以前のアダムとエバには、自由意志がありました。この自由意志という単語が、神学的に使われる時と哲学的に使われる時で意味に大きな隔たりがあるので、多くの誤解を与えてきました。キリスト教、特に、カルヴァン派でいう自由意志とは、神の喜ばれる正しい事を常に選ぶ意志という意味で使っています。ですから、アダムとエバは、蛇の誘惑に翻弄される事なしに、善悪の知識の木の実を食べない意志を持てたにもかかわらず、自ら食べるという意志を選び取って神に敵対したので、神の義を失い、不義の世に暮らす事になったのです。この事件を境に、人間に二つの大きな恐れが入り込んできました。罪と死です。この二つを武器に、この世の王サタンが人間を恐怖で支配しているというのが聖書的見方です。いずれにしても神の喜ばれる正しい道を選択できない不完全な状態に人間はなってしまいました。もはや自分で正しい道を完全に選び取る力がなくなったのです。これをカルヴァン派では、全的堕落と言います。完全に堕落して神に喜ばれる最善の道を選択できないので、人間がいくら努力しても救われない。自力本願はないのです。

でも人間は、正しい道を選択し続け、平和な生活をし、死後も素晴らしいところへ行きたいという根源的な欲求があります。しかし足かせがあります。全的堕落により、神との関係が断絶しているので自由意志を働かせて、正しい道を選び取りそれを貫徹する事ができないのです。

そこで神は、まず、人間が、何が罪であるか、つまり、神が喜ばれない事は何かを知って、自分の弱さを知るようにと律法を与えられました。こうする事で、自分の努力では決して救いに到達し得ない事を知らしめ、自分の弱さを自覚させられたのです。でも、弱さを自覚するだけでは、神との関係は回復しません。神は聖き方であるので、悪と交わることが出来ません。ですから人が神と和解するためには贖いが必要です。罪から来る報酬は死です(ローマ書6:23)。ですから、人間が神と和解するためには死が要求されるのです。すると全ての人の命が要求されるので、全ての人間が死なざるを得なくなります。それは困ります。そこで私たちの贖いのために神に受け入れてもらえる完全な生贄が必要です。その生贄となって下さった方が、イエス・キリストです。

イエスは神の子です。神は御子を生贄にして私たち人間との関係を回復する道を開いて下さいました。イエスが人間の罪をかぶって代わりに死んで下さった事を信じる者に和解の道を開かれました。イエスを信じる者は、神との関係が回復します。この状態を「神の義」といいます。

それでは、どのような人がイエスを信じられるのでしょうか。カルヴァンは神の主権的選びを主張しています。これは神学的論争が絶えない部分ですので、深入りしない方がいいでしょう。しかし、これだけは言えるでしょう。自分が正しいだとか、自力でなんでも出来ると考える人に、イエスを信じる事は難しいでしょうし、それ以上にイエスを必要としないでしょう。しかし、自分の限界を知り、自分の弱さを自覚している人こそイエスは必要とされるのです。

ここまで述べてきた聖書の話やイエスの事も、自分の弱さを知らない人にとっては荒唐無稽な戯言にしか聞こえないでしょう。パウロも「十字架のことばは、滅びに至る人々(信じない人々)には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」と語っています(第一コリント1:18)。キリスト者とは、自分の弱さを認めた者です。私はここであなたに一つ質問してみたいです。あなたは、自分の過去を振り返って、あの時ああして置けば良かったと後悔した事はありませんか。もしあるというならば、考えて見てください。今は後悔しているかもしれませんが、過去においては、あなたは最善の判断をしてその行動を選び取ったはずです。誰も最悪な結果を期待して最悪な選択などしないでしょう。でも、私たちは結果としては、最悪なものを選び取っている事が多いのです。私たちの判断力の不完全さはこいうところを見ても明らかでしょう。

私たちは、自分を完全にコントロールするのは不可能なのです。逆にそのような制御不能な弱い自分を認める事が大切なのです。パウロは自分の弱さをなんとか克服しようとして、神に一生懸命祈りました。その時、神から与えられた啓示をコリント人への手紙第二の中で語っています。この原稿の締めくりとしてそれを紹介したいと思います。

「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(第二コリント12:9-10)

自分を完全にコントロール出来る人はいません。イエスを信じて、真の自由を得られるように心からお勧めしたいと思います。
 
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