九度山真田庵

真田庵真田庵(さなだあん)は正しくは、善名称院(ぜんみょうしょういん)といい、戦国時代最後の武将、真田昌幸・幸村父子隠棲の屋敷跡として県の史跡に指定されている。

関ヶ原の合戦で西軍につき、徳川家康を散々に苦しめた父子は、戦後この地に蟄居を命じられている。のち慶長19年(1614101日に徳川家康が大坂豊臣氏追討を命じると、豊臣方の指揮官・大野治長が真田信繁(幸村)へ勧誘の使者を派遣する。家康に一矢報いることを決意した幸村が、村人や監視役を集めて酒を振舞い、酔ったその隙に大阪城へ脱出したという逸話は有名。これは幸村の智謀ぶりを要した伝説であろうが、実際村人の協力があっての脱出だったのは間違いあるまい。8日後の109日に大坂城入城。その後の幸村の活躍はあまりにも有名である。

創設は、寛保元年(1714)で大安上人による。六文銭の紋が刻まれた門をくぐると、八つ棟造りの重厚な三層城閣風の本堂が建ち、軒の瓦には菊花の紋章が入っている。本尊は地蔵菩薩。境内には開山堂(大安上人の廟)・土砂堂・宝物資料館や真田昌幸の墓、それに与謝蕪村の句碑がある。

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(右写真はこの地で歿した真田昌幸の墓)

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(真田ぬけ穴)

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(真田昌幸画像)

「真田のぬけ穴」は、真田庵から東方約200mくらいの所に位置し、昔から、地元の人々には、この地点から真田庵までつなげる「真田のぬけ穴」と言い伝えられてきた。しかし、1953年(昭和28年)発掘調査が行われ、古墳時代後期(4世紀ごろ)につくられた横穴式石室をもった円墳であることが判明したという

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(南海高野線・九度山駅。この先には高野山がそびえ立つ。)

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真田幸村の家紋「六文銭」

 

■六文銭とは・・・

六文銭イメージ

■六文銭のいわれ その1
 真田家が六文銭を旗印として用いたのは武田家滅亡後の北条氏との一戦で勝利してからだとする伝承がある。
 居城である上田城に逃げ込もうとした真田勢を北条の大軍が追いかけてきた。そのときに、上杉家から帰された弁丸こと真田幸村が一計をたてた。白無地の旗に永楽通宝を書き込ませ、それを布下や穴山らの部将に持たせ北条軍に夜討ちさせた。北条軍の重臣のひとりである松田尾張守の紋所が永楽通宝であったため北条軍では謀反が起こったかと驚き、その混乱した隙に上田城に戻ることができた。真田昌幸はこれにより幸村に六文銭を家紋にせよと言ったらしい。
 しかし、上田城は武田家滅亡直後ではまだ出来ていないことを考えるとあやしい伝承である。

 

■六文銭のいわれ その2
 次は九度山真田庵にある言い伝え。六文銭旗の由来としています。
 「天正十年三国峠で上杉の大軍を戦わずして説伏せた真田父子は三百余人の軍勢を引いて三国峠を過ぎた箕(笠?)城(箕輪城か)で北条氏政の大軍四万五千と対決。その時幸村は十四才。父昌幸に『家名をあげるのはこの時です。どうして恐れることがありましょうか』と言って無紋の旗を取出し北条方の重臣松田尾張守の旗の紋、永楽通宝の紋を描き、旗六本を造り味方を六隊に分け敵陣に夜討ちをかけた。北条方は松田が謀反を起こした言って大騒動でした。昌幸幸村にその功を誉め『お前は今から定紋を六文銭にすることを許す』と言いました。これが真田の六文銭旗の由来です。」とあります。

真田庵の六文銭 ←紀州九度山真田庵の六文銭

■六文銭のいわれ その3
 六連銭は仏教でいうところの六道銭のことで、三途の川の渡し賃である。決死の覚悟であるという意気込みが伝わるところからこの家紋にした。

 六文銭は真田家の家紋として有名である。六連銭紋。真田家は六文銭を用いる前は雁金(かりがね)の紋であった。ちなみに、この家紋は真田家だけの家紋ではなく、海野氏や深井氏もこの家紋である。

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