「アブラハム、息子イサクを献げる

創世記 22章1節―19節

 

はじめに

 

 本日から、旧約聖書のお話しをいたします。考えてみますと、わたしたちは、新約聖書には、なじみがありますが、旧約聖書は、なかなか接する機会が少ないと思います。そこで、これから、旧約聖書のお話しをしていきます。旧約聖書は、創世記からマラキ書まで、39巻ありますが、各書物から代表的な個所を選んで、1回ずつお話しをしていく仕方にしたいと思います。少しでも、旧約聖書により親しんで、祝福を受けたいと思います。

 

 それで、本日は、創世紀からお話しをします。創世記と言いますと、創造、堕落、メシアによる救いの約束という、人間にとって根源的に重要な事柄が教えられていますが、これらのことについては、これまでの伝道的説教でも、お話ししてきましたので、創世記が記しているもうひとつの大きな事柄の方からお話しをします。

 

 すると、それは、罪人となった人類を救うメシアが出てくる民族として、イスラエル民族が歴史の中に起こされたことです。そして、救い主メシアが出てくるイスラエル民族の長い歴史を通し、罪人である人間が神を信仰して人生を歩んでいくことがいかに大切であるかを教えてくれるのです。

 

 そこで、本日は、救い主メシアが出てくるイスラエル民族の先祖、また、わたしたちクリスチャンの霊的先祖である、アブラハムという人物についてお話しをします。そして、特に、アブラハムの大きな信仰が、最後的に表される、イサク奉献の出来事からお話しをします。3点に絞ってお話しをします。第1点は、息子イサクを犠牲としてささげるという驚くべき出来事は、ある時突然、神の命令によって始まったという点です。第2点は、アブラハムは、神の命令に、すべて従順に従ったという点です。第3点は、アブラハムのイサク奉献は、キリストの十字架の犠牲に通じるという点です。これらを学んで、わたしたちも、一人ひとりが、アブラハムの霊的子孫として、人生のどのようなときにも、良い信仰をもち、祝福を受けながら歩みをしていきたいと思います。

 

. 息子イサクを犠牲としてささげる出来事は、神の命令によって始まりました

 

  早速、第1点に入ります。第1点は、息子イサクを生贄としてささげるという驚くべき出来事は、ある日突然、神の命令によって始まったという点です。イスラエルの先祖アブラハムは、イエス・キリストよりも約2千年前の人です。今日から見れば、約4千年前の人物です。

 

4千年前のイスラエルの人物などと言えば、随分昔の人物だなあと思って、遠く感じますが、しかし、わたしたちクリスチャンの霊的先祖と考えると、関係がぐーんと近く感じられるようになるでしょう。わたしも、最初は、アブラハムと聞くと4千年前のイスラエルの先祖と思って、昔の人だなあと、距離感が遠かったのですが、あるとき、ある先生の説教を聞きました。その先生はアブラハムは、イスラエルの先祖であるが、同時にわたしたちクリスチャンの霊的先祖でやるというのを聞いたときに、わたしは、自分とアブラハムの関係が、そのとたんに近くなったのを覚えています。アブラハムは、わたしたちの霊的先祖であり、わたしたちは、アブラハムの霊的子孫で、とても近い関係です。

 

それで、わたしたちクリスチャンの霊的先祖であるアブラハムは、神を信頼し、それまでの人生を歩んでいました。そして、その時のアブラハムは、百歳のとき、やっと与えられた跡とり息子イサクの成長を楽しみにしていましたが、そのイサクも、今や、少年に成長し、ますます男の子らしくなり、アブラハムは、可愛くて、可愛くて、目の中に入れても痛くないほどに感じていたときに、ある日、神は突然、そのイサクを全焼の生贄として献げるように命じたのです。

 

 1節、2節を見ますと、「神が『アブラハムよ』と呼びかけ、彼がが『はい』と答えると」とありますが、この表現は、イサク奉献の出来事が、何の前触れもなしに、ある日突然、神によって命じられたことから始まったことを記しています。では、神は、何のために、アブラハムに、このようなことを命じたのでしょう。すると、その目的は明白で、アブラハムの信仰を試すためでした。1節に「神はアブラハムを試された」とはっきり言われています。

 

 では、アブラハムを試すというのは、どういうことでしょう。すると、それは、アブラハムの信仰を試すという意味です。すなわち、アブラハムが、本当に、神に従順であるか否かを、アブラハムの人生の総決算として最後的に判定する目的のためになされるのです。したがって、この試みにおいて、従順であれば、アブラハムの生涯は、神に従順であったことになり、この試みに失敗すれば、アブラハムの生涯は、神に不従順であったことになります。ですから、この試みは、アブラハムにとって、小さなものではなく、とても大きなものでした。

 

 では、アブラハムの人生が、神に対して従順であるか、不従順であるかを分ける出来事とは、具体的には、どんな出来事であったでしょう。すると、それは、息子イサクを全焼の生贄として、神に献げることを求める出来事でした。2節に、神の命令が記されていますが、この命令は、驚くべきものでした。アブラハムが、宝物のように大事にしていた、息子イサクを、犠牲として献げよというのですから、これは本当に驚くべきことでした。

 

 2節の、アブラハムに対する神の呼びかけは、アブラハムが息子イサクをどんなに大事にしていたかを、神がよく知っていて、犠牲として献げよと命じていることを表しています。「あなたの息子」という表現は、他人の息子ではなく、アブラハム自身の大切の息子を献げるように命じています。また、「あなたの愛する独り子」とありますが、「あなたの独り子」というのは、アブラハムにとって、たった1人の正式な跡取り息子という意味で、この跡取り息子に代わる者はいないということを強調しています。また、「あなたの愛する」という言葉が、入っていて、アブラハムが、いかにイサクを可愛がっていたかを表しています。

 

 こうして、神は、アブラハムが、息子イサクをどれほど愛していたかをよく知っていて、イサクを全焼の生贄とすることを命令したのです。2節に「彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」とありまして、「焼き尽くす献げ物」とありますが、これは、もともとは、動物を灰になるまで、まるごと完全に焼き尽くして、神に献げるもので、神へのまったき献身を表すものです。それで「焼き尽くす献げ物」と言われました。

 

 ですから、「焼き尽くすささげ物」は、もともと、動物をささげて、神への献身を表すものでした。ところが、ある日、突然、神は、動物ならぬ、人間、しかも、アブラハムが、百歳の時にやっと与えられ、今や、成長して男の子らしい少年となり、目の中に入れても痛くないほどに、可愛がっていた、たった一人の大事な跡取り息子のイサクを、焼き尽くすささげ物、すなわち、全焼のいけにえとするように、命したのです。そして、この命令に従うか、従わないかで、アブラハムの生涯が、神に従順であるか、あるいは、不従順であるかに分かれるのです。これは、アブラハムの生涯における最大の試練と言えるものでした。

 

 それで、ここまできますと、わたしたちは、疑問が出るかもしれません。「何故、神は、息子イサクを犠牲として献げよと命じたのか。アブラハムの信仰を試すのであれば、そんなことしなくても、違う方法でもよかったのではないか。このやり方では、人の命を軽んじていると批判されるのではないか。」と思うかもしれません。

 

 実際にそのように批判されることがあるのです。ある時、わたしは、新聞を読んでいました。ある評論家が、宗教のことを書いていたのですが、キリスト教を批判しているのです。旧約聖書・創世記で、神は、アブラハムに息子を犠牲として献げよと命じているけれども、人間を、しかも、息子を犠牲として献げよなどと命じる神は、人命軽視でおかしいと批判しているのです。そんな神はとても信じられないと批判しているのです。

 

神が、何故、息子イサクを犠牲として献げよという仕方で、試したのかについては、記されていませんのでわかりません。それは、将来において、時が来たとき、神がご自分の独り子イエス・キリストを、犠牲とすることと通じていると思われますが、イサク奉献の出来事で、一番大切なことは、神が、アブラハムに息子を献げるように命じたことはおかしいと言って、神を批判することでなく、アブラハムは、神の命令に従順に従うことによって、神に対する自分の信仰を最後的に明白に表明したように、わたしたち一人ひとりも、アブラハムと同じように、神に対する自分の信仰というものを最大限に大事にして、豊かな祝福を受けながら生涯を歩むことです。聖書もそういう意味で書いてあります。聖書は、神が、アブラハムに、息子を献げよと命じたのはおかしいから神を批判をしなさいなどという意味で書いているのではないのです。あなたも、アブラハムと同じように、人生のどんなときも、神を信頼し、神に造られた真の人間として歩むようにと書いているのです。それゆえ、わたしたちも、アブラハムの信仰に目を向けましょう。聖書が言おうとしていないところから、聖書を読んではならないのです。

 

. アブラハムは、神の命令に、すべて従順に従いました

 

 第2点に入ります。第2点は、アブラハムは、神の命令に、すべて従順に従ったという点です。わたしたちは、イサク奉献の出来事を見るときに、アブラハムは、心に葛藤があったのか、なかったのか、どうだったのかと思うのです。すなわち、百歳の時にやっと与えられ、今や成長して少年となった、目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた息子イサクを献げよと命じられたとき、アブラハムは悩んだのか、それとも、悩まなかったのかと思うのです。しかし、聖書は、アブラハムの心の動きを、特には、記していません。聖書が記していることは、アブラハムは神の命令にすべて従順に従ったことです。

 

 そこで、わたしたちは、アブラハムが、神の命令にすべて従順に従ったことを、6つの事柄において見ていきたいと思います。第1のことは、神がアブラハムに命じたのは、夜であったのかもしれませんが、アブラハムは、次の朝、早く起きて、どんどん準備をし、神が指示したモリヤという地に向けて出発したことです。3節に、「次の朝早く」とありますので、神がアブラハムに命じたのは、その前の日の夜であったのかもしれませんが、何とアブラハムは、翌朝には、もう行動を起こしたのです。

 

 では、アブラハムの従順を表す第2のことは何でしょうか。すると、アブラハムが、その時住んでいた、パレスチナ南部のベエル・シェバから、パレスチナ中心部のモリヤの地までは、70キロメートルか、80キロメートルあり、当時、3日間かかりましたが、アブラハムは、その3日間、イサクをささげる決心が、少しも変わらなかったことです。4節に、「三日目になって」とあります。すなわち、三日間かけて、目的地のモリヤの山を目指して旅をしてきたことを表すわけですが、その間もアブラハムの決心は崩れることがなかったのです。

 

 では、アブラハムの従順を表す第3のことは何でしょう。アブラハは、息子イサクは、神への犠牲として一度死ぬけれども、しかし、その直後に、再び、神によって生き返らせられて、自分とともに帰ってくることができると固く信じていたことです。これこそアブラハムの驚くべき大きな信仰です。5節に、「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる」とありますが、「戻ってくる」というヘブル語は、単数形でなく、複数形になっています。したがって、アブラハムは1人だけ戻ってくるという意味ではなく、アブラハムと息子の2人が戻ってくるという意味です。

 

 すなわち、アブラハムは、イサクをほふって、焼き尽くし、全焼のいけにえとして献げるのです。それゆえ、イサクは、もちろん、死ぬわけです。しかし、その直後、イサクは、再び、全能の神によって生き返らせられて、2人で戻ってくると言っているのです。

 

 このことは、新約聖書ヘブライ人への手紙で明白に解説されています。ヘブライ人への手紙11章19節を見ますと「アブラハムは、神は人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいました。」と言われている通りです。すなわち、アブラハムは、自分の息子イサクは、確かに、ほふられ、焼き尽くす献げ物として献げられて死んでしまうけれども、しかし、また、すぐに、再び、生き返されて、自分の両手に可愛い息子を返してくださる、それゆえ、また息子と2人で帰ってくることができると確信していたのです。

 

 これは、本当に驚くべき大きな信仰です。何故かといいますと、アブラハムは、救いの歴史の最初の段階にいた人物でしたので、アブラハム以前に、死んだ者のよみがえりという出来事はまだありませんでした。後の時代になれば、神が預言者エリヤおよび預言者エリシャを通して、死んだ人をよみがえらせるということを行いますので、人々は、神には人をよみがえらせる力があることが分かります。でもアブラハム以前にはまだありませんでした。

 

しかし、それにもかかわらず、アブラハムは、神は、死んだ者もよみがえらせることができる力があるということを信じて、行動した初めての人物であり、これは驚くべき大きな信仰です。何でも、素晴らしいことを最初にすることは、大変なことでしょう。

 

 

  では、アブラハムの従順を表す第4のことはなんでしょう。すると、それは、かわいい息子の背中に、薪を背負わせ、自分は、「火」、すなわち、多分、たいまつのようなものと思われますが、「火」と、「刃物」、すなわち、多分、鋭いナイフのようなものをもって、実際にその場所に行ったことです。また、その場所に歩いて行くときに、イサクが、「お父さん、火と薪はありますが、焼き尽くす献げ物にする、小羊はどこにいるのですか」とけなげに尋ねた時にも、アブラハムの心は少しも変わらなかったのです。

 

 では、アブラハムの従順をあらわす第5のことは何でしょう。すると、それは、その場所に着いたときに、そこら辺にあったであろう石を集めてきて、祭壇を築き、その上に、イサクが背負ってきた薪を並べ、さらに、イサクの手足を縛って動かないようにして、祭壇の薪の上にイサクをほんとに載せたことです。

 

 では、アブラハムの従順を表す第6のことは何でしょう。すると、それは、アブラハムが、我が子イサクを本当に刃物でほふって、献げようとしたことです。10節がそうです。「アブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした」とありますが、「屠る」というのは、もちろん、具体的には、殺すことです。動物を屠るといえば、具体的には、動物を刃物で殺すことです。ですから、アブラハムは、「刃物」、多分、鋭いナイフのようなものであったと思われますが、それで、イサクを殺し、薪に火をつけ、本気で焼き尽くす献げ物にしようとしていたのです。

 

 この場面を描いた絵があります。わたしは、もうしばらく前ですが、時々、絵を見に行きました。懇意にしていた方が美術関係の仕事をしており、展覧会などのチケットをよくくれたのです。それで、ある時、チケットをもらい、東京八重洲口であったと思いますが、ブリヂストン美術館にレンブラントの絵を見にきました。いろいろな絵がありましたが、その中でも特に、このイサク奉献の場面を描いた絵がありました。アブラハムが、鋭いナイフを振りかざし、薪の上に、動かないように手足を縛られた少年イサクの胸を目指して、まさに振り下ろそうとしている場面です。かなり大きな絵で、とても迫力を感じました。アブラハムが本気で、真剣にイサクを屠ろうとしているすさまじい感じでした。

 

 こうして、アブラハムは、イサクを献げようという神の命令に対し、すべてのことにおいて従順だったことが、とてもよくわかります。

 

 それで、わたしは、このイサク奉献の説教の準備していて、あれこれ考えさせられました。自分がアブラハムの立場であったらどうしたかなあと思いました。皆さんが、アブラハムの立場だったらどうしたでしょう。自分の可愛い子供を本気で薪に載せられるでしょうか。それで、わたしも、いろいろ考えましたが、アブラハムが、イサクを献げる出来事は、これだけを切り離して考えるのではなく、それまでの、アブラハムの長い人生の信仰の積み重ねがあればこそできたことなのだと思いました。信仰の積み重ねというものがとても大切なのだと思いました。アブラハムであっても、信仰をもったばかりの時に、いきなりこんなことはできなかったでしょう。実際、神は、アブラハムが信仰を持った初めに、いきなり、この大きな試練を与えたのではありませんでした。アブラハムが、それまでの長い人生において、信仰を十分に積み重ね、神の大きな力を何回も経験していたからこそ、アブラハムは、この大きな最後的な試練に信仰で応答することができたと、わたしは思いました。今日のわたしたち一人一人にとっても、日々の信仰の積み重ねというものがとても大切でしょう。人生の日々の歩みの中で神の力と恵みと愛を知っていればこそ、ある時、大きな試練に、神を心から信頼して乗り切ることができるのでしょう。今日のわたしたち一人一人も信仰の積み重ねを大事にしましょう。

 

3.イサク奉献は、キリストの十字架の犠牲に通じるものです

 

 第3点に入ります。第3点は、アブラハムのイサク奉献は、キリストの十字架の犠牲に通じるという点です。アブラハムが、鋭いナイフのような刃物を手に振りかざし、イサクの胸元をめがけて振り下ろそうとしたときに、主の御使い、すなわち、一人の天使が、アブラハムに呼びかけ、イサクに手をかけてはならないことを命じました。また、それら一連のことを通し、アブラハムが、「神を畏れる者」すなわち、神に従順であることが、最後的に分かったと宣言しました。

 11節と15節で「主の御使い」といわれています。12節と16節で「御使い」といわれています。では、「主の御使い」あるいは「御使い」といわれるお方は、いったい誰でしょう。すると、これは、マリアから生まれる前の偉大な神のみ子、受肉前のイエス・キリストを表しています。単なる天使ではありません。では、単なる天使でなく、受肉前の偉大な神のみ子であることがどうしてわかるかと言いますならば、この天使は、12節で「あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」とあって、アブラハムは、自分にイサクを犠牲として献げようとしていたと言っていますので、このお方は、人間ではなく、神であるお方であることがわかります。

 また、16節から18節を見ますと、もっとはっきり分かります。この天使は、自らにかけて誓ったり、自らの権威で、アブラハムへの豊かな祝福と、子孫の増加を約束していることからも、単なる天使でなく、天使の姿で現れた偉大な神の御子であることがわかります。天の父なる神が天使の姿となって表れることはありません。そんなことすれば、天の御座が空っぽになってしまいます。天の未座が空位になってしまいます。そういうことはありません。父なる神は、常に、天の御座から離れることなく、世界を支配しておられます。したがって、天使の姿をとってイスラエルの先祖たちに現れたのは、後に、マリアから生まれ、この世に来てくださる神の御子です。神の御子は、受肉前から、イスラエルにご自身を親しく表し、将来、歴史に出現する備えをして下さっていたのです。

 

 さて、では、アブラハムはどうしたでしょう。アブラハムは、「その子に手を下すな」という命令に従って、イサクに手をかけることをやめました。そして、周囲を見渡しますと、すぐ後ろの木の茂みに、一頭のオスの羊が角を木にひっかけて動けないでいるのが見えましたので、そのオスの羊を捕まえ、焼き尽くすささげ物として献げ、神を心から礼拝することができました。そこで、アブラハムは、感謝の気持ちを持って、そのモリヤの地の山を「主は備えてくださる、ヘブル語では、ヤ-ウェ・イルエ」と名付けたのですが、後に、アブラハムが言った「主は備えてくださる、ヘブル語では、ヤ-ウェ・イルエ」ということは、ことわざとなり、「今日でも」、すなわち、創世記が書かれた時代でも、イスラエルの民は、神が備えてくださったと信じられるよいことが生じると、「主の山に備えあり、ヘブル語では、イエラエ」と言っていたのです。こうして、神は、備のよいお方であることを表してくださったのです。

 

 本当にそうです。神は、備えのよいお方です。このイサクが犠牲として献げられる出来事を通し、将来、イエス・キリストが罪人である人類の罪を許すために、十字架上で犠牲として献げられることを指し示しているのです。また、このモリヤの地は、イスラエルの民の罪の許しのために、犠牲がささげられるエルサレム神殿が、後に、建つところでした。また、神は、アブラハムに対し、「愛する独り子」を犠牲とするように命じましたが、それは、将来、父なる神が、ご自身の独り子であるイエス・キリスをト十字架で犠牲とすることに通じています。新約聖書ヨハネによる福音書316節で「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と記されていて、イエス・キリストが独り子と言われていることに通じてきます。

 

 そして、また、天使の姿を取った受肉前の神の子は、創世記22章18節で、アブラハムに対して、「地上の諸国はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る」と約束しましたが、後に、神の子が、アブラハムの子孫として、マリアから生まれ、成人し、十字架で犠牲の死を遂げることによって、地上の諸国が霊的祝福を豊かに受けることにおいて、その約束は真実に実現成就しました。

 

こうして、アブラハムが独り子イサクを犠牲とする出来事は、将来、神が人類の救いのために、ご自身の独り子イエス・キリストを十字架上で犠牲とする素晴らしい出来事に通じてくるのです。神は、わたしたちのため、イエス・キリストによる救いを備えていてくださるのです。ほんとに「ヤ-ウェ・イルエ、主は備えてくださる」のです。心から感謝できます。

 

結び

 

以上のようにして、イサク奉献の出来事を見ますが、わたしたち一人ひとりが、今の日本にあって、アブラハムの霊的子孫として、神へのよい信仰を持って歩み、豊かな祝福を受けたいと思います。神を信頼して歩む人生、これこそ、人を真に生かすものであることを、覚えたいと思います。

 

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