ラザロの復活が意味するもの
ヨハネ11章32-44節
출처: http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2010y/100404.htm
今日は、イースターに因んで、ラザロの復活についてご一緒に考えてみたいと思います。ヨハネ伝では、これがメシアとしての「第七のしるし」とされています。ラザロという人名は、ルカ伝とヨハネ伝に二回出てきます。ヨハネ伝に出てくるラザロは、「ベタニヤのラザロ」と呼ばれることがあります。ラザロとは、エリエゼル(神は助け主)というヘブル名のギリシャ語読みと推測されています。
ラザロは、死後4日目に蘇らされた人物として描かれています。今日は、ラザロの復活をめぐって、彼の二人の姉妹であるマルタとマリアの信仰のあり方を考えてみたいと思います。そのことへの理解が、キリストの復活に光を当てるものと思うからです。
(1)堅い信仰の死角
対照的な姉妹
マルタとマリヤは、同じ親に生まれた姉妹同士でありながら、まったく違うタイプの女性たちでした。マルタ(アラム語で婦人を意味する)は、ベタニヤ村の<らい病人シモン>の妻であったと推測されます。女将さんタイプの女性であったようで、イエスや弟子たちをよくもてなした記事がルカ伝10章にあります。一方、マリヤはおそらくはその妹であって、内省的なもの静かなタイプでした。
イエスがベタニヤ村に来られたとき、この二人の対応もまた対照的でした。「第七のしるし」は、この二人の姉妹がイエスに相対したことを経て、行われたのです。先ず、マルタについて見てみましょう。ヨハネ11:23-24をご覧ください。
マルタは兄弟を失っても、村の入り口にまで出向いて、イエスを出迎えるなど、気丈に振舞っています。彼女は、現実的な対応に非常に長けた、信望の厚い女性であったと思われます。
彼女はまた、イエスの教えもよく理解しているようでした。イエスは彼女に、「あなたの兄弟はよみがえります。」と言われました。すると、彼女はすぐに、「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っています。」と答えました。これは、教理問答に出てくるような、模範的な答えですね。身内を亡くしてまもない段階で、このように答えることができたのは、本当に、彼女の信仰の堅さを表していると思います。
イエスの真意とのずれ
しかし、彼女の信仰の問題点が、この後に明らかになります。11:23の「あなたの兄弟はよみがえります」と言われたイエスの真意は、数分後か数十分後の出来事として言われたのでした。しかし、彼女は、<終わりの日のよみがえりの時>のことに、限定しているのです。このように、「ラザロのよみがえり」の時期の認識が、イエスとマルタでは完全にずれているのです。この認識のずれが、彼女の信仰の問題点であったのです。
イエスは、ラザロが葬られている墓の「石を取りのけなさい」と言われました。ところが、彼女の応答は、「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」というものでした。墓には、死後四日経ったラザロの遺体があるという現実に、彼女の信仰は立ち向かうすべがなかったのです。ここで、彼女の信仰の問題点を確認してみましょう。彼女は、ラザロの復活を、<終わりの日のよみがえりの時>の出来事として信じていたが、イエスの真意は、「今、ここで」という現実の生での出来事としてであったということです。こうして、信仰を別の次元のこと(終末論的、天国的出来事)に限定し、現実の生活においては、現実の感覚で生きているという、信仰の二重構造が彼女の心の中で起きているのです。そして、これは、彼女だけの問題ではなく、私たちの問題でもあります。
(2)信仰における二重構造
「今、ここで」の出来事として
11:40をご覧ください。イエスがさらにマルタに語っておられるところです。イエスは、「もしあなたが信じるなら」と彼女に仰いました。イエスとマルタとでは、この「信じる」という意味が乖離しているのです。
マルタは、「信じる」ということを、終末論という教理を信じるという意味で理解したようです。このように、信仰を教理の受け入れと勘違いしている場合が多いのです。そうするとどうなるのでしょうか?教理は観念として固く信じているが、実際の生活においては、神の臨在や摂理を信じていないのです。こうして、信仰と生活との乖離が起こるのです。
歴史的には、17世紀のヨーロッパにおいて、そのような現象が特徴的であったと言われます。所謂「死せる正統主義」と呼ばれた時代ですね。この時代には、ドルト信条やウエストミンスター信仰告白などの、歴史に残るいろいろな素晴らしい信条や信仰告白が作成されました。それはそれで意義のあることであったのですが、信条の理解と同意だけが強調されて、信仰生活にいのちがなくなったと言われるのです。
教理を堅く信じる一方で、現実での「今、ここで」の対応には信仰的でない、という状況を考えてみましょう。なぜ、「今、ここで」という次元で、信じることができないのでしょうか?それは、信仰が内面的に深められていないからなのです。自我の働きだけで、人間の宗教心は表面的な信仰を持つことは可能なのです。かなり極端な信仰箇条でも人は信じられるし、マルティン・ルターのようにかなり禁欲的な修行をすることもできます。しかし、このような自我のわざとしての信仰は、自分の内面を変えることができないのです。こうして、表面的には堅い信仰と内面的には腐敗した人間性に、自我が分裂するのです。
マタイ23:28をご覧ください。ここでは、イエスがパリサイ人の信仰生活の欠陥を指摘しておられるところです。<外側は人に正しく見え(る)>のですが、<内側は偽善と不法でいっぱい>なのです。イエスが指摘された内面の二つの状態に、注目する必要があります。これが、宗教に現れる人間性の腐敗なのです。
内面の二つの相
宗教者の内面に現れる第一の相は、<偽善>(ヒュポクリシス)なのです。日本語では、「偽りの善」という意味ですが、原語では「仮面芝居」や「演技」が、元々の意味なのです。そこから、「見せ掛け」という意味になりました。ギリシャの古典劇(ドラマ)は、脇役の問いに対して、仮面を付けた主役が応答する形式でストーリーが展開しました。この主役が、「ヒュポクリテース」(応答者)と呼ばれ、後に「偽善者」の意味を持つようになりました。そして、主役の演技は「ヒュポクリシス」(応答)と呼ばれたのですが、これが「偽善」という意味を持つようになったのです。マタイ6:2の<偽善者>(ヒュポクリテース)の描写をご覧ください。<偽善>や<偽善者>という言葉は、福音書には20回出てきます。そして、いずれもイエスによって最悪の評価が下されているのです。
仮面芝居の演技としての信仰を、イエスは否定されました。信仰深い仮面の下に、素顔の自分を隠しながら、人は生きています。賢い人は、実に上手にその演技を続けるのです。虚飾に表面は飾られていますので、多くの人が騙されますが、その本質は、嘘なのです。また、偽善が上手な人は、自分さえも意識しないで、すなわち、自分さえも完全に欺き切っているように思えます。しかし、イエスは、そのようなパリサイ派の宗教者の姿を見抜いておられたのです。
宗教者の内面に現れる第二の状態は、<不法>(アノミア)です。この単語は、新約聖書には15回出てきます。これは、神の法である<律法>(ノモス)に違反することを意味します。すなわち、神が定めた規範をないがしろにし、神の恵みを乱用することを意味します。神はいろいろな良きものを創造されました。それによって、人の心を喜ばせてくださり、様々な幸福を与えてくださるためです。しかし、人間はそれを乱用することによって、神のみこころを損なうのです。これを<不法>と言います。イエスは、外面は立派に装っているが、<不法でいっぱい>な宗教家の内面を暴かれたのです。ユダヤ民族史で明らかになった彼らの<不法>は、権力欲や金銭欲や支配欲や情欲、そして、殺意などでした。ヨセフスのユダヤ戦記では、ユダヤ人内部の相継ぐ主導権争いが、民族を滅ぼす有様が書かれています。
私たちは、外面は何とか取り繕っても、内面までは変えることができません。ヨハネ11章では、このような霊的に死んでいる人間の現実と、ラザロの死は、ダブらせて描かれているように思えるのです。
(3)イエスの処方箋
悲しみをぶつけるマリヤ
実は、このマリヤの言葉は、11:21のマルタの言葉と同じなのです。しかし、終末論的希望を告白したマルタと違って、マリヤは、ラザロの死という現実をまともに背負って、イエスの御前に出ているのです。この意味では、マリヤは、親しい者の死という現実を直視していると言えます。もちろん、終末論的な希望を否定しているわけではありませんが、ラザロの死という現実に、まだ諦めきれない心情であったと思われます。ラザロやイエスとの関係を、マルタのように、彼岸の出来事に投影して、それで納得するには、彼女にとってあまりにも悲しい出来事であったのです。それで、「今、ここで」の出来事に、イエスを引き込んでいるのです。このように、自分が直面している現実に、ちゃんと向き合っているという点では、マリヤとイエスは、認識が一致していたと言えます。そして、そこから、神への真実な祈りの叫びがか出てくるのです。ただ、信仰箇条を持ち出したり、お題目を唱えるだけの祈りとは、まったく違うのです。
ヘブル4:16をご覧ください。ここには、<おりにかなった助け>とあります。<おりにかなった>(ユーカイロス)とは、「現実の状況に間に合うような」という意味ですが、「神の時」(カイロス)と絡めるニュアンスもあるようです。
この聖句は、彼岸に救いを求めるのではなく、現実の生の時空における<助け>を求めて、神に近づくべきだということを教えているのです。現実の生において起こりうる全ての事柄において、神に近づくことができるのです。このようにして、現実の次元で、生ける神を体験できるのです。私は、カルヴァン主義がもっとも聖書に適っていると思っているのですが、カルヴァンは、すべての生活の領域を、神の前に直面させたと、されています。ですから、実生活のあらゆる領域において、神に直面すべきなのです。そこに、真実な祈りが生まれます。なぜなら、そこに神が臨在されるのですから。
現実の次元での信仰
最後に、11:40のマルタへのイエスのことばを、見てみましょう。先ず、「もしあなたが信じるなら」というところです。マルタは、このイエスのことばを、終末論的に解釈し、現実の生の次元で起こることとは、信じていませんでした。しかし、<あなたの兄弟はよみがえります>(11:23)というみことばを、「今、ここで」の出来事として、<信じるなら>と、イエスは言われたのです。
ここに、生の各局面において、信じることへのイエスの励ましがあります。この励ましによって、マルタは現実の生の次元で、「ラザロの復活」というあり得ないことを<信じる>ことに導かれるのです。この種の信仰は、病的な妄想か神のわざかのどちらかなのです。妄想か神のわざかは、その後の結末で明らかになります。マルタは、イエスの励ましに促されて、墓の石を取り除けました。信じることが行動になりました。すると、イエスはみことばによって、ラザロをよみがえらされたのです。これが、「あなたは神の栄光を見る」とイエスが言われた出来事でした。死人のよみがえりほどあり得ないことはありません。それは、宇宙の原理(熱力学の第二の法則)に背くからです。しかし、イエスのみことばにおいては、あり得ないことが、現実の時空において、起こるのです。そして、もっともあり得ないことは、罪深い私たちの内面が変わることではないでしょうか?それは肉体の復活と同様、イエスのことばがそのことを可能にするのです。神の力である「復活の力」は、終末論的な文脈においてだけ、考えるべきではありません。それは、「今、ここで」という現実の生の地平において、個人的に体験できるものとして、提供されていることを覚えるべきなのです。