聖書に記されてあることを、神から与えられたものとして信じないならば、それを全く無価値なものとしてしまいます(Ⅰヨハネ5:10)。人間の行為を救いの条件に加えることは、救いから恵みを取り去ってしまうことになります(ロマ11:6)。
「信仰」という言葉はギリシャ語では「ピステウオ」と言いますが、「ピステウオ」には、信用する、頼る、体重をあずけるという意味があります。ヨハネによる福音書の中で、「信じる」(ギリシャ語でPisteuo)という言葉は99回出てきます。ただイエス・キリストのみを自分の救い主として信じるならば、その人は救われるのです(ヨハネ3:16)。
キリストが死んだということは、単に歴史的な事実に過ぎませんが、キリストが私の罪のために死んでくださったと信じるときに、救いはその人のものになります。
クリスチャン生活やクリスチャンの行いに対して与えられる報酬は取り去られる場合があるかも知れませんが、一度救われた人の救いは決して失われることはありません。
救いが永遠に保証されていることについては、ヨハネ6:38,39 / 10:28 をご覧になってください。
報酬と訓練の重要性については、次のところに述べられています:Ⅰコリント10:6-11 / 11:30,32 / ヘブル12:6-11。
イエスを救い主として受け入れたクリスチャンは、信仰者としての訓練を受けます。また、その報酬も約束されています。その救いは永遠のものであり、決して失われるものではありませんが、そうであるからと言って、あえて罪を犯す権利を、もはや、持ってはいません。救いはイエス・キリストを信じる信仰のみによります(ロマ4:5)。
もしあなたが「それは簡単すぎる」と言うなら、それは福音の真の恵みをないがしろにするものです(エペソ2:8,9)。
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