永遠の命を持つための唯一の道

永遠のいのちを受けるための唯一の道はイエスを信じることであり、この道は世界中のすべての人に提供されています。旧約聖書の時代の人々も、新約聖書の時代の人々もここには含まれています。

 

旧約聖書にも、信仰によって義とされるということが書かれていますが(創世記15:6、ハバクク2:4)、旧約聖書は新約聖書によって解釈することができます。聖書の記述には誤りは無く、聖書に矛盾はありませんから、もし新約聖書の中に、旧約聖書の時代の人々も救われていると書かれているなら、それは真実です。来るべきメシヤを信じていない人は救われてはいません(ヨハネ5:39-47)。

 

今日の人々も、過去の人々と同様に、救いの道はイエスによる以外にはありません。もし福音を知らない人々が一般的な啓示(すなわち自然界の事物)に感動して神を求めたとしても、神はさらに優れた啓示を与えてくださり、最終的には福音を発見できるでしょう(エレミヤ29:13)。ロマ書4章1節から8節を読むと、アブラハムとダビデは、救いは神からの賜物であり、行いではなく信仰によるということを知っていたことは明らかです。

 

動物の犠牲によって救われる人は誰もいません、動物の犠牲は、キリストの雛形であり、救いの必要を示し、神に近づくことが可能であることを示しています。しかし、決して永遠のいのちに導くことはありません(ヘブル1:3-4)。律法を守ることによっては救われる人はいません。なぜなら、律法はそのひとつでも破ればすべてを破ったことになり(ヤコブ2:10)、すべての人は罪を犯しているからです(ロマ3:23)。律法は永遠のいのちのために設けられたものではありません(ロマ3:20)。キリストであるメシヤを受け入れずに神を信じても、そのことによって救われる人はいません。神は人々に、信仰によって神の存在を信じることをを求めていますが、そのこと自体には救いはありません。

 

永遠のいのちは、常に、キリストであるメシヤを信じることよって与えられます。その方の御名こそイエスであり、旧約聖書によって来るべきメシヤとして証されているお方です(使徒の働き10:43)。私たちはキリストの十字架を見上げ、キリストが再来される希望に満たされることができます。ロマ4:1-5,ガラテヤ3:6-14, ヨハネ8:37-56,5:39などの箇所を読むと、旧約聖書の人々でさえ、永遠のいのちを得るためには、イエスを信じなければならなかったということがわかります。これまでも、これからも、いつまでも、福音はただひとつ、救いに至る道もただひとつです。

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