神礼拝の祝福

ヨハネによる福音書 4章 16節 ― 26節

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聖 書                          

16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 

はじめに

 

本日のお話は、どんなお話かと言いますと、イエス様とサマリア人の女性の会話と言われるものです。長いので、3回に分けてお話をしますが、本日は、先週に続き、第2回目になります。本日の流れは、どんな流れかと言いますと、イエス様は、約束の救い主であるご自分の出現により、エルサレム神殿礼拝が終了し、これからは、場所に制約されず、人は聖霊が豊かに働くキリスト教礼拝を通し、霊的祝福をいくらでも受けられる時代が到来したことを教えてくださったという流れです。今日のわたしたちも、聖霊が豊かに働くキリスト教礼拝を通し、霊的祝福をたくさん受け、喜んで、日々の歩みをしていきたいと思います。

 

1.サマリアの女性はイエス様を預言者と見始めました

 

サマリアの女性は、イエス様を、何でも知っている預言者と見始めました。本日とのつながりのため、少し復習をしましょう。イエス様は、エルサレム神殿があるイスラエル南部のユダヤ地方での伝道活動を切り上げ、イスラエル北部のガリラヤ地方に戻るため、その中間のサマリア地方を通りました。サマリア地方は、ユダヤ人と異邦人の混血民族のサマリア人が住んでおり、ユダヤ人とサマリア人は数百年間にわたって反目し合っていたので、通常であれば、ユダヤ人は、サマリア地方を通りませんでしたが、イエス様は、そんなことにとらわれずに、サマリア地方を通りました。

 しかし、何分、砂漠地方の暑いところですから、イエス様もくたくたに疲れ、ヤコブの井戸といわれるところに、座って、休んだのです。その時、地元のサマリア人の女性が、水がめを頭か肩に乗せ、水をくみに来たので、イエス様は、自分にも水を飲ませてほしいと、自分から声をかけました。ユダヤ人とサマリア人は、民族的反目のゆえに、口をきかない習わしだったので、声をかけられたサマリア人の女性は、とても驚きました。

 そこで、会話が始まりました。イエス様は、このサマリア人の女性を、救いに導くため、今日で言う、個人伝道を行いました。のどの渇きをいやす実際の水を、罪によって荒廃した心をいやす聖霊の命の水にたとえて、語り始めました。しかし、サマリア人の女性は、霊的なことがわからず、とんちんかんな受け答えを繰り返していました。そこで、イエス様は、御自分がすべてのことを知っている、そして、また同時に、恵みによって救う神の御子にして救い主であることを気づかせるため、そのサマリア人の女性がどのような生活をしているかを、語りました。すると、そのサマリア人の女性は、とても驚き、イエス様のことを預言者と見始めたのです。16節から19節がそうです。

 16節から19節を見ますと、突然、イエス様は、サマリア人の女性の5人の夫のことを語り始めますが、その意図は何であるかと言いますと、イエス様は、御自分が、人間一人ひとりの罪を何でも見通し、知っていること、同時に、その上で、どの罪もすべて恵みによって赦し、救って、喜びと平安のある真の人生に立ち上がらせることができる、神の子にして救い主であることを、サマリア人の女性に気づかせる意図でした。ですから、イエス様は、サマリア人の女性に意地悪をしようとして、あるいは、サマリアの女性を苦しめようとして、5人の夫のことを持ち出したのではないのです。

イエス様は、そのため、夫をここに連れて来なさいと言いましたが、それに対し、サマリア人の女性は、夫はいないと答えました。実は、このサマリア人の女性には、夫が過去5人いました。5回結婚をしていたわけです。そして、現在は、6人目の男性と暮らしていましたが、6人目の男性とは、暮らしていただけで、結婚はしていませんでした。それで、サマリア人の女性は、自分には、夫はいないと答えたわけですが、「夫がいないというのは、その通りだ、今連れ添って、一緒にいるのは、結婚はしていないので、夫ではないからだ」と、面と向かってハッキリ言われたときには、とてもびっくりしたでしょう。

 自分の目の前にいるのは、初対面の1人のユダヤ人の男性です。旅をしていて、たまたま、井戸のそばで会った人物です。それにもかかわらず、それらのことをハッキリ言い当てられてしまったことに、とても驚き、恐れすら感じたかもしれません。そこで、このサマリア人の女性は、イエス様を、とても単なる人とは思えず、神から特別な力を与えられた預言者と言われる人物にちがいないと思い始めたのです。

 19節に「あなたは預言者だとお見受けします」とあります。 厳密には、「わたしは、あなたを1人の預言者と見ます」という言い方です。そして、預言者というのは、神から特別の力を与えられ、人々に、神の御心を語ったり、将来のことを語ったり、人々の知らないことを語ったりする人物のことでした。旧約時代のイスラエルには、しばしば、預言者が起こされました。そこで、サマリア人の女性は、イエス様も、神から特別の力を与えられたゆえに、何でも知っている1人の預言者に違いないと思ったのです。こうして、このサマリア人の女性は、イエス様に出会って、だんだん変わってきたことがわかります。

 イエス様との出会いは人を変えるのです。出会いによって、人が変わるということは、世間でもよくあることです。たとえば、今、アメリカのメジャーリーグで活躍している松井選手もそうですね。松井選手は、巨人軍の長嶋監督と出会うことによって大きく変わった人ですね。

こういうことは、他にもあるでしょう。だれかとの出会いによって、変わるということはあるでしょう。それで、人との出会いによって変わるのであれば、なおさら、すばらしい神の御子にして救い主であるイエス・キリストとの出会いよって、人は根本から変わるでしょう。

キリストは、わたしたちが罪人であるとハッキリ教えますが、しかし、それは、わたしたちを苦しめ、痛めつけるためではなく、恵みによって、救い、神に造られた真の人間として、わたしたちが生涯喜びと平安をもって生きられるようにして下さるためなのです。

 

2.イエス様はキリスト教礼拝が始まることを教えました

 

イエス様は、エルサレム神殿礼拝が終わり、場所によらない、聖霊が豊かに働くキリスト教礼拝が始まることを教えました。20節から24節がそうです。

 サマリア人の女性は、イエス様を、何でも知っている1人の預言者と思いましたので、その当時の、一番大きな問題であった礼拝の場所について質問しました。ユダヤ人たちは、約千年前のソロモン王の時代から、エルサレム神殿で礼拝をしていましたが、サマリア人たちは、混血民族であったゆえにエルサレム神殿礼拝から排除されてしまいました。それで、サマリア人たちは、サマリア地方のゲリジム山という山に、500年ほど前に、自分たちで神殿を建て、独自に礼拝を行うようになりました。しかし、百数十年前に、ユダヤ人が攻めこんできて、ゲリジム山神殿を破壊してしまいました。それでも、サマリア人は、破壊されたゲリジム山神殿で、神礼拝を続けていました。

 サマリア人女性は、神礼拝の場所について、イエス様に質問し、どちらの礼拝が正しいのかを教えてもらおうとしました。すると、イエス様は、約束の救い主である御自分が出現した今の時代においては、場所によらず、どこでも、旧約時代にはるかに勝る聖霊の働きによって、霊的な礼拝が行われ、人々が、聖霊の豊かな祝福を受ける新しい時代が到来したことを、権威をもって、厳かに教えたのです。これは、大真理でした。

 21節に「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」とあります。「この山」とは、サマリア人たちのゲリジム山神殿礼拝を表しています。「エルサレム」というのは、ユダヤ人たちのエルサレム神殿礼拝を表しています。

 では、具体的に、それまで数百年間にわたって継続されてきた、サマリア人たちのゲリジム山神殿礼拝はどういうものなのでしょう。それは、霊的無知による自分勝手な礼拝でした。22節に「あなたがたは知らないものを礼拝している」とあります。この表現で、サマリア人たちのゲリジム山神殿礼拝は、霊的無知による自分勝手な礼拝であったことを意味しています。

 サマリア人たちは、旧約聖書全体を受け入れず、最初の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の、いわゆる、モーセ5書と言われるものだけを取り入れ、他の書物は、切り捨てていました。ですから、旧約聖書39巻全体で教えられている神と救いについて、知らないことがたくさんありました。それで、イエス様によって、「あなたがたは知らないものを礼拝している」とはっきり言われてしまうほど、神と救いについて知りませんでした。

 それに比べると、ユダヤ人たちは、旧約聖書39巻全体を受け入れていましたので、39巻全体を通して、神と救いについてよく知っていました。神の御心とご計画は、人類の救いが、ユダヤ人を通して実現、成就していくことで、もちろん、サマリア人を通してではありませんでした。

 こうして、サマリア人のゲリジム山の神殿礼拝は退けられるべきものですが、だからといって、エルサレム神殿礼拝が、これからも続いていくものではないのです。儀式的なエルサレム神殿礼拝は、約束の救い主イエス様の出現により、役目を終わり、これからは、儀式的でない簡素な礼拝、しかも、聖霊の働きが旧約時代とは違って、格段に豊かに働くキリスト教礼拝が始まる時が来たのです。

 24節に「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」とあります。この御言葉は、本日の箇所で最も重要な御言葉です。それで、実は、2つの解釈があります。1つは、キリスト教の伝統的な解釈です。「神は霊である」というのは、神の本質を教えている。神は、霊、すなわち、目に見えないし、体がないし、物や物体ではないことを教えている。ですから、霊である神を礼拝する人々も、「霊と真理」すなわち、心と霊的真理をもって礼拝すべきであると解釈してきました。この場合、「霊と真理」の「霊」は、心の意味にとります。また「真理」は、霊的真理ととります。あるいは、「真理」を、心の誠実、心のまことと、とる人もいます。

 ところが、だんだん聖書解釈が進み、新しい解釈が現れてきました。それは、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」という御言葉は、神の本質を教えているのではなく、約束の救い主イエス様の出現による聖霊の豊かな働きによるキリスト教礼拝の開始を教えているという解釈です。「神は霊である」の霊とは、聖霊のことで、神は、約束の救い主イエス様の出現により、霊、すなわち、聖霊を、旧約時代とは比べものにならないほど豊かに、ダイナミックに、力強く働かせ、人の心を聖霊によって根本から生まれ変わらせてくださる。

「霊と真理をもって礼拝しなければならない。」の霊も、これは、心や、心の真実や心のまことを表すのではなく、聖霊そのものを表している。すなわち、礼拝者も、聖霊の豊かな働きを受けて神を礼拝できるようになることを教えている。また「真理」というのは、うそや偽りに対する真理という意味ではなく、ヨハネ福音書における特別な用法で、ひな型に対する実体、模型に対する実物、約束に対する実現、影に対する本体という意味である。

すなわち、旧約時代のエルサレム神殿の儀式的礼拝は、将来、約束の救い主が出現したときに始まる、聖霊が比類なく豊かに働くキリスト教礼拝のひな形、模型、約束、影であったが、今や、救い主のイエス様が出現したので、聖霊が比類なく豊かに働くキリスト教礼拝は、ひな形に対する実体、模型に対する実物、約束に対する実現、影に対する本体として、歴史の中に、本当に実現し始め、人々は、キリスト教礼拝を通し、旧約時代とは比べものにならない霊的祝福をたっぷり受けて満たされることを意味している、という解釈です。

また、直前の23節の「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」とありまして、ここで「まことの礼拝」と言われておりますが、「まことの礼拝」というのも、うそや偽りに対するまことでなく、旧約時代のエルサレム神殿の儀式的礼拝は、将来、約束の救い主が出現したときに始まる、聖霊が比類なく豊かに働く霊的礼拝のひな形、模型、約束、影でしたが、今や、救い主のイエス様が出現したことにより、そのひな形に対する実体、模型に対する実物、約束に対する実現、影に対する本体として聖霊が比類なく豊かに働く霊的礼拝をする人々を、イエス様を遣わした父なる神ご自身が求めていることを意味している、という解釈です。そして、こちらの解釈が、文脈に即しているとして、だんだん受け入れられつつある状況です。わたしたちは、2つの解釈があることを覚えておけばよいでしょう。

 実際、イエス様が出現してから、場所によらず、どこででも、聖霊が豊かに働くキリスト教礼拝が広がっていきましたが、キリスト教がローマ帝国から公認されるまでの、1世紀から4世紀初頭までの、迫害の時代においては、キリスト教は、まさに、場所によらず、どこででも、聖霊が豊かに働く礼拝を通して、祝福を受け、歩んでいたのです。

 使徒言行録を見ますと、1世紀の教会は、どこででも迫害と圧迫を受けましたが、それは、紀元313年に、キリスト教がローマ皇帝コンスタンチヌスによって、公認されるまで続きました。では、その期間、キリスト教は、いったいどういうところで礼拝したのでしょう。いろいろのところで隠れて礼拝しましたが、1つの場所は、カタコムといわれるところでした。

 カタコムというのは、地下墓所、地下のお墓です。地下道になっていて、その地下道の側面が、棚のようになっており、その棚に遺体を横たえて置くというものでした。もちろん、時間がたつにつれ、その体は、腐敗して、骨になっていくわけです。ですから、骨が丸見えというところもたくさんあったでしょう。そして、お墓ですから、そこは、いい気持ちがしなかったでしょう。しかも、人目につかない地下道ですから、薄暗いところであったでしょう。そこで礼拝をしたわけです。

でも、そういうところであっても、人々は、聖書にもとづく説教と、洗礼と聖餐式の礼典と、祈りによって、神を礼拝し、心は、生きていく力と喜びと希望で満ち溢れたのです。なぜでしょう。それは、キリスト教の礼拝には、聖霊、神の霊、御霊が、力強く、ダイナミックに、豊かに働いて、礼拝する人々の心を、天上的な祝福で満ち溢れさせることがいくらでもできるからです。キリスト教の礼拝というのは、本当にすばらしいでしょう。こんなにすばらしく、こんなに力のあるものはほかにないでしょう。キリスト教の礼拝は、どこででも成立し、人を本当に生かすことができます。

 

3.サマリアの女性にはイエス様への信仰が芽生え始めました

 

サマリアの女性には救い主イエス様への信仰が芽生え始めました。25節と26節がそうです。サマリアの女性は、その当時の一番大きな問題であった、礼拝の場所について、イエス様が、即座に、権威をもって、厳かに、教えてくださったのを見て、さらにびっくりしたと思いますが、イエス様のことを1人の預言者以上の方、すなわち、約束のメシア、キリストではないかと、思い始めました。そこで、イエス様も、サマリアの女性を信仰に導くため、御自分が約束のメシア、キリストであることを、明言しましたので、このサマリアの女性は、ついに、イエス様を救い主と信じ始めたのです。

 25節に「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています」とあります。どうして、旧約聖書の最初の、いわゆるモーセ5書しか知らないサマリア人たちが、約束のメシア出現を知って、待っていたかと言いますと、それは、旧約聖書・申命記18章15節から22節までの箇所によってです。そこは、出エジプトの指導者そして同時に預言者であったモーセが語っているところです。モーセは、将来、神が、モーセのような預言者を起こすから、その時には従いなさいと命じましたが、実は、モーセのような預言者というのは、将来出てくる約束の救い主を表していました。

 サマリア人たちも、預言者のように何でも知っている救い主を待ち望んでいたわけですが、このサマリアの女性は、エルサレム神殿とゲリジム山神殿のどちらの神礼拝が、正しいかという大問題も、即座に、権威をもって解決することができた、自分の目の前にいるイエス様のことではないかと思い始めたのです。そこで、イエス様も、サマリア人の女性をすばらしい救いに導くため、自らが、約束の救い主であることを明言され、サマリア人の女性もイエス様を約束の救い主と信じ始めたのです。

 考えてみますと、今日も、イエス様は、わたしたちのどのような問題にも必ず、解決を与えてくださるでしょう。もちろん、1世紀のサマリア人の女性のように、イエス様が、わたしたちの目の前に立ち、口を開いて、その問題の解決は、これこれですよと声を出して教えてくれるわけではありません。イエス様は、今は、天におられますので、わたしたちの目には見えませんし、また、イエス様の声が、天から聞こえるわけでもありません。

 しかし、わたしたちの人生の目的、生きる意味、仕事をする意味、救いの問題、他の人と一緒に生きる問題、家庭のあり方、生きていく力や喜びや平安の問題、悩めるときの助けや慰めの、死んだ後どうなるのかという問題、この世界や宇宙はなぜ存在するのか、そして最後はどうなるのかというような大きな重要な根本問題について、聖書を通し、満足できる解答を与えてくれます。

 また、直接、聖書に書いてない、生活と人生において生じる、いろいろな問題がありますけれども、でも、それらの問題も、聖書の指し示す方向で考えていくことができるでしょう。また、大切なヒントやサジェスションをたくさん与えてくれるでしょう。また、いろいろな問題の解決を求めて、祈り続けるときに、必ず、これが解決なのだという確信、そして平安を、また喜びを与えてくれるでしょう。イエス様は、今日も、生きておられ、わたしたちのいろいろな問題に必ず解決と解答を与えてくださり、わたしたちが喜んで生きられるようにしてくださるのです。イエス様が解決できない問題はありません。

 

結び

 

以上のようにして、本日のところを見ますが、今日のわたしたちも、聖霊が力強く、ダイナミックに、豊かに働く、キリスト教の礼拝を通し、必要な祝福をたくさん受け、大事な人生の歩みをしていきましょう。