内村鑑三 メモ集
「“予定説”の疑問」
1880年12月26日(日)札幌
「予定説」について苦しむ。***
われらの小さな教会は再び予定の教義について論じ合ったのである。この
朝の集会で研究した聖書ロマ書九章であった。
色とりどりのインクでアンダーラインを引いたり欄外に書き入れをしたた
めに、ひどくよごれてしまった私の古い聖書の中の、このおそろしい神秘的
な章に、一つの大きな疑問符が、大きな釣り針のようにぶらさがっている。
「もし神が、ある器を貴きに用いるものとして造り、他の器を卑しきに用い
るものとして造りたもうたのであるならば、われらが救われようとして努力
するのは無益だ。なぜならば、神は救おうと思う人々をば、堕落せぬように
と、ご自身でみとりたもうにちがいないから。そして人間は、自分の努力い
かんにかかわらず、救いか滅びのどちらかに、神によって定められるのであ
る」。これがパウロの悲観的結論だ。そして世界中の思慮深いクリスチャン
が、同じ疑問に苦しめられ悩まされるのである。だがこの問題はしばらくそ
っとしておくこととしよう。予定の教義を理解できないからと言って聖書と
キリスト教とを捨てることはできないのだから。
「“予定”の教義 -信仰の首石(おやいし)」
1886年6月3日 米国・アマスト
「予定」の教義を学び、その重大さに強く打たれた。心は喜びにおどった。
誘惑は一掃され、わが心の気高い資質はことごとく感激に燃え立った。もし
も自分が神に選ばれた者の一人であり、そして世の基礎のすえられる前から
神の相続人として予定されていたものであるならば、どこに恐怖があるか、
どこに誘(いざな)う者の力があるか!
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出処:未詳