真理は人を自由にする

ヨハネによる福音書 8章 31節ー38節 

      

聖 書

8:31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」33 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」34 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。37 あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。38 わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

 

はじめに

 

本日のお話は、真の自由は、イエス・キリストを信じて、罪の奴隷から解放されることによって得られるというお話です。人は、真の自由をいつの時代でも求めるものですが、真の自由は罪からの解放によって成り立つもので、イエス・キリストの力ある御言葉にとどまり続けることによって、恵みとして与えられるものです。そこで、今日のわたしたちも、イエス・キリストを信じ、罪の奴隷から解放され、心の真の自由を得、神の御心に適う善を行って喜んで歩んでいきたいと思います。

 

1.真の自由は御言葉にとどまり続けることによって与えられます

 

 イエス様は、エルサレム神殿の仮庵祭の時、内外から集まった多くのユダヤ人たちに対し神殿境内で何回も説教をしましたが、今日のお話は、前回からの続きです。前回のお話の最後に、そのとき、イエス様の説教を聞いたユダヤ人たちの多くは、感情を動かされ、イエス様を信じたと記されていました。では、イエス様を信じたときに必要なことは何でしょう。その後も、イエス様の御言葉にとどまり続け、イエス様に従う本当の弟子となって歩み続けることです。

 

そうすれば、いろいろな祝福が必ず与えられます。その祝福の最初のものは、イエス様の力のある真理の御言葉により、罪の人生から解放され、それまで味わうことがなかった真の自由を恵みとして与えられ、こんな素晴らしい自由があったのかと、喜んで人生を歩むようになることです。31節がそうです。

 

 31節を見ますと、「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた」とあります。イエス様を信じたユダヤ人たちがいたと言われています。このことは、直前の30節とつながっています。直前の30節は、前回お話しましたが「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた」ということを受けているものです。このとき、エルサレム神殿の境内でイエス様の説教を聞いた、仮庵祭に集まってきた内外からのユダヤ人たちの多くの人々が、イエス様を神の子にして救い主メシアと信じたというのです。

 

 31節に「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」とあります。このとき、イエス様には、もうすでにペトロやヨハネをはじめとする12弟子がいました。さらに、12弟子以外にも、弟子たちがいました。イエス様を信じ、イエス様の語る言葉の中にとどまり続けるのであれば、だれでも、イエス様の真の弟子になります。今日もそうです。わたしたちクリスチャンは、イエス様を信じ、イエス様の御言葉にとどまり続けていますので、イエス様の真の弟子です。

 

 イエス様を信じて、イエス様の御言葉にとどまり続け、イエス様の真の弟子となれば、いろいろな祝福があります。その最初の祝福は、それまでの希望のない空虚な罪の人生から解放され、真の自由が恵みとして与えられ、こんな素晴らしい自由があったのかと驚き、喜びにあふれ、その自由の中で神のみ心にかなう善を行うようになる祝福です。

 

 32節で「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」とあります。「真理」というのは、イエス様の御口から語られる御言葉の真理のことです。イエス様の御言葉は、絶対的な真理であり、永遠の真理であり、計り知れない豊かな力があり、それまでの希望のない、むなしい罪の人生から解放することができるのです。人が必要とする真の自由を恵みとして与え、その自由の素晴らしさと豊かさをたっぷり味わわせますので、人は、こんな素晴らしい自由があったのかと驚き、喜び、今度は、その自由の中で、神の御心にかなう善を行い、神の永栄光を表すようになります。

 

 「自由にする」とあります。今日の箇所のキーワードが、この「自由にする」です。今日の箇所に4回出てきます。「自由にする」という言葉は、もともと「奴隷から解放して自由にするという意味の言葉です。では、何の奴隷から解放されて自由になるのでしょう。それまでの罪の奴隷から解放されて自由になるのです。人は皆、生まれながらの罪人で、罪の太い鎖につながれた罪の奴隷です。罪を犯しながら一生を歩み、最後には、罪の中で、希望なくむなしく人生が終わります。しかし、キリストを信じ、キリストの御言葉にとどまり続け、キリストの真の弟子になるのであれば、それまでの希望のないむなしい罪の奴隷の人生から解放され、真の自由が恵みとして与えられるのです。

 

 わたしは、イエス様を信じて、救われ、クリスチャンになったとき、いろいろな祝福に本当に驚きました。まず平安に驚きました。それまでの人生で味わったことがない、平安がわたしの心に宿るようになりました。これには本当に驚きました。また、それまでの人生で味わったことがない喜びがわたしの心に宿るようになったのにも、本当に驚きました。これは救われた喜びですね。

 

そして、もう1つが、自由でした。しばしば言われることですが、キリスト教信仰を持ったら、あれをしてはいけない、これをしてはいけないと戒律で、がんじがらめにされて、不自由になって、身動きできないのではないかとよく言われるのですけれども、逆です。クリスチャンになったら、本当に心が自由になったのには、とてもびっくりしました。わたしの心がいろいろなものから解放され、重荷から解き放たれて自由になり、楽になり、くつろげ、リラックスできるのに、驚きました。こんな素晴らしい自由があったのだ、知らなかったと思いました。

 

 欧米で自由というものは、人が生きていくときの基本的人権として尊いものとされてきたことの根っこには、キリスト教が与える真の自由、聖書の教える真の自由、イエス・キリストへの信仰によって与えられる真の自由があるのだということに気がつきました。また、同時に、コリントの信徒への手紙二3章17節「主の霊のおられるところに自由があります」という御言葉を、当時読みまして、真の自由は、聖霊の豊かな働きの実でもあることを知り、わたしの心にも、聖霊が豊かに働いていてくださることを思い、喜びが満ちあふれました。

 

真の自由が自分にも与えられているという素晴らしい実感と経験は、40年間ずっと変わりません。今も、真の自由の素晴らしさと豊かさを日々味わい経験し、喜んで歩んでいます。恵みの賜物としてのこの自由を濫用するのではなく、人生の全領域において神の栄光を表すために使いたいと願いつつ歩んでいます。このことは皆さんも同じでしょう。

 

2.ユダヤ人たちは罪の奴隷でした。

 

 イエス様は、そのとき、御自分を信じたユダヤ人たちに、これからも御自分の言葉にとどまり続けて、真の弟子となり、恵みとして、御言葉の真理により、罪の奴隷から解放され、真の自由を与えられ、神の御心にかなう善を行って歩んでいくように勧めました。

 

 ところが、イエス様のその勧めを聞いたユダヤ人たちは、イエス様が、ユダヤ人たちは現在罪の奴隷であることを前提にして勧めたのはおかしい。なぜなら、自分たちは、アブラハムの子孫で神の民であるので、罪の奴隷ではない。また、イスラエルの歴史を振り返っても、罪の奴隷であったことは1度もない。それなのに、どうして、イエス様は、罪の奴隷から解き放たれて、真の自由を恵みとして与えられるというのか、と怒りの感情を表わしたのです。32節から34節がそうです。

 

 33節を見ますと、「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」とあります。これは、ユダヤ人が民族的誇りを傷つけられと感じ怒りの表現です。「アブラハムの子孫」というのは、誇りを表す表現です。

 

ユダヤ人たちは、その時から約2千年前のアブラハムから出発しますが、アブラハムは、目に見えない真の神から選ばれ、アブラハムの子孫が神の民となり、神から豊かな祝福を受けると約束されました。そこで、ユダヤ人たちは、常に、神とともにあり、いつも自由であって、神以外の誰かの奴隷となって、心、魂、精神が束縛されて不自由になったことは、1度もない、だから、奴隷から解放されて、恵みとして真の自由が与えられるなどという必要はない、と感情を害し激しくイエス様に反発したのです。 

 

しかし、これは事実ではありませんでした。なぜなら、ユダヤ人たちは、真の神を離れ、他の神々に心を寄せ、他の神々の奴隷になったことはいくらでもあったからです。たとえば、キリスト出現よりも、8百年ほど前のイスラエルは、アハブ王とその妃イゼベルの影響により、カナンの農耕神バアルに心を寄せ、民の心はバアルの奴隷でした。さらに、イスラエルの民は、時代が下るにつれ、次々と他の神々を慕って、その心は、他の神々の奴隷となり、罪を犯しました。そのため、神の怒りにより審判され、紀元前734年には、アッスリア帝国によってイスラエルの北半分が滅ぼされ、さらに紀元前586年にはバビロン帝国によって、南半分が滅ぼされ、エルサレム神殿も破壊炎上させられてしまうほどでした。

 

 さらに、1世紀においても、ユダヤ人たちの心は、最悪の律法主義の奴隷になっていました。とうてい守り切ることのできない神の律法を自力ですべて守り切って、救いを得るという律法主義の奴隷でした。律法主義によって、罪を赦されて救われる人は誰もいません。1世紀のイスラエルにおいては、ユダヤ人たちは、罪を犯して生きていて、まさに、民族全体が罪の奴隷でした。

 

 イエス様は、これらのことをすべてご存知でした。そのとき御自分を信じたユダヤ人たちが、これからも、イエス様を信じ続け、イエス様の御言葉にとどまり続けるようにと勧めたのです。また、罪の人生から解放され、同時に、律法主義の重荷からも解き放たれ、大事な心がすべてのものから解かれて楽になり、真の自由を恵みとして与えられ、こんな素晴らしい自由があったのだと驚き、喜びに満ちあふれ、神の御心にかなう善を、今度は聖霊の力によって行っていくように勧めたのです。イエス様のこの勧めは、最も適切なものでした。

 

 ところが、イエス様を信じたはずのユダヤ人たちは、もう、これで、以前のように心かたくなにしてしまいました。そこで、イエス様は、ユダヤ人たちが、救いを必要とする惨めな罪人である事実を厳かに権威もって宣言しました。34節で「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」とあります。

 

もともとの言い方は、大変興味深い言い方です。「はっきり言っておく」という表現は、これまでの口語訳聖書では、「よくよくあなたがたに言っておく」となっていましたが、もともとの言い方は、「アーメン、アーメン、あなたがたに言う」という言い方なのです。わたしたち、お祈りの時に、最後に、確かにその通りですという意味で、アーメンと言いますが、そのアーメンが2つも、つながった言い方で、「アーメン、アーメン、あなたがたに言う」という表現です。ですから、その意味を出せば、「確かに、確かに、わたしはあなたがたに言いますよ」という意味で、厳かな宣言をする文学的な形式なのです。

 

 「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」とあります。罪という言葉が2回出てきますが、この場合の罪は、どちらも単数ですので、この罪、あの罪といういろいろな罪の行為を表しているのではなく、罪の生き方、罪の人生を表します。罪というのは、ギリシャ語では、しばしば言われることですが、ハマルテアという言葉で、もともとの意味は、的外れです。罪というのは、的はずれの生き方、的はずれの人生を表します。神がおられ、その神が人類に対する愛によって、救い主メシアをこの世に遣わしてくださったのに、そのメシアを受け入れずに、自分勝手に的はずれに生きていくことを表しています。

 

 どの人も罪人であるということは簡単にわかります。自分の心の中を他の人にお互いに恥ずかしくて見せられないからです。罪は、行為、行動となって外側に現れますが、行為、行動だけが罪ではありません。語る言葉も罪になります。言葉でどれだけ人を傷つけ、苦しめるか計り知れないでしょう。言葉だけで人を死に至らしめることだっていくらでもあるでしょう。

 

罪はさらに、心の思いにも現れます。人は、心の中でいろいろなことを考えるでしょう。そして、とんでもないことを心の中で考えます。自分が心の中で考えていることを、他の人々が知ったらびっくりするようなことをたくさん考えているでしょう。あなたは、こんなことを考えているのと言われるようなことを考えているでしょう。でも、そのように言う人だって、自分の心で同じようにとんでもないことをたくさん考えているのです。ですから、人はお互いに恥ずかしくて自分の心を見せられませんね。まさに罪人です。

 

 でも、イエス様は、わたしたちの心の中まですべてお見通しです。わたしたち一人ひとりが、心の中でどのようなことを考えているか全部ご存知です。その上で、わたしたちを赦してくださるのです。これが恵みでなくていったい何でしょう。わたしたちは、自分で自分の心を変えてから、イエス様のところに行くのではありません。そんなことはだれもできないのです。自分の力で、罪なことを考える自分の心を変える力を、だれも持っていません。

 

わたしたちは、罪なことを考える心も持ったままでイエス様のところに行けばよいのです。イエス様は、ありのままのわたしたちを愛を持って受け入れ、まず罪の生き方そのものから解き放ってくださいます。また、犯してきたあの罪この罪をどんなに多くてもすべて全部赦してくださいます。

 

こうして、イエス様は、罪の生き方から、また、犯してきた罪から解放し、心の重荷をすべて取り去り、あらゆることから開放し、楽にし、くつろぎ、リラックスできるようにしてくださるのです。こんな心の自由があったのだと、驚きながらも喜び、これからは、その自由を神の栄光を表す機会として用いていけるように、聖霊の豊かな霊的力を一人ひとりの心に与えてくださるのです。人は、クリスチャンになったとき、初めて心の本当の自由を味わい、経験し、喜びに満ちあふれるのです。

 

3.ユダヤ人たちはアブラハムの信仰を受け継いではいませんでした

 

 ユダヤ人たちは、確かに、先祖アブラハムの血を受け継いだ民族でした。しかし、先祖アブラハムが持っていた信仰を受け継いではいませんでした。逆に、神の子にして救い主のイエス様を殺すことを計画していたのですから、完全に罪の奴隷です。ですから、神の家にいつまでもいることができません。まもなく追放されるときがきます。代わって、神の子らとされ、いつまでも神の家にいて、神の家のあらゆる霊的祝福を全部受け継ぐのは、イエス様を信じて、神の子らとされるクリスチャンたちです。35節から38節がそうです。

 

 イエス様は、35節で、「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる」と言いました。ここで、「奴隷」と「子」の比較対照があります。「奴隷」は、ユダヤ人たちのことを指しており、「子」は、イエス様を信じて、神の子らとされるクリスチャンたちを指しています。神が遣わしてくださった救い主をかたくなに拒否して、殺害するユダヤ人たちは、罪を犯し続ける罪の奴隷ですので、間もなく、審判によって神の家から追放され、神からの祝福を失うことを意味しています。実際にそうなります。このときは、紀元30年ごろと思われますが、その後、40年間の悔い改めの十分な期間が与えられても、悔い改めようとしなかった1世紀のユダヤ人たちに対して、神の審判がなされ、ユダヤ人たちは、ローマ帝国との戦いに敗れ、エルサレム神殿は陥落、崩壊し、ユダヤ人たちは国を失い、世界の流浪の民となってしまいます。これは神の家からの追放であり、神の家の祝福を失うことでした。

 

 ユダヤ人に代わって、神の子らとされ、神の家で神とともにおり、神の家の祝福を受け継いだのはクリスチャンたちでした。クリスチャンたちは、民族や国籍に関係なく、イエス様を信じて、それまでの罪の生き方から解放され、真の自由を与えられ、神の子らとされ、神の家で神とともにおり、神の家のすべての祝福を受け継いだのです。

 

「子はいつまでもいる」とあります。これはクリスチャンたちのことです。今日のわたしたちも、神の子らであり、神の家に神とともにいつまでもいることができるのであり、神の家のあらゆる祝福を受け継いで、喜びにあふれこの世とかの世に生きていくのです。奴隷は、家を受け継ぐことができず、家から出ていかなければならず、子はその家を受け継ぐということは、旧約聖書、創世記21章9節から21節に記されている、アブラハムの2人の子供のイシュマエルとイサクの出来事に似ています。イシュマエルは、アブラハムとそばめの女奴隷ハガルの間に生まれた子供でした。

 

イシュマエルは、アブラハムの家を継ぐことができず、砂漠に追放されました。しかし、イサクは、アブラハムと妻のサラの間に生まれた神の約束による子供でした。イサクは、アブラハムの家を受け継ぎました。この出来事に似ています。救い主をかたくなに受け入れず、殺害してしまう1世紀のユダヤ人たちは、罪の奴隷であるので、神の家から追放されます。でも、クリスチャンたちは、神の子らとされ、いつまでも神の家にいて、神の祝福をすべて受け継ぐのです。

 

 クリスチャンたちを神の子らにしてくださるのはだれでしょう。それはイエス様です。イエス様は、もともと、神の永遠の御子です。ですから、わたしたちがイエス様を信じると、罪の生き方からわたしたちを解放して、自由にし、神の子らにして、父なる神の家にいつまでもいることができるようにしてくださるのです。

 

イエス様は、36節で「だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」と言われました。この場合の「子」というのは、前の節の35節の「子」がクリスチャンたちを表すのとは違って、神の永遠の御子のイエス様御自身を表しています。

 

 こうして見てきますと、ユダヤ人たちは、先祖アブラハムの信仰の霊的子孫ではありません。確かに、ユダヤ人たちは、血のつながりからいえばアブラハムの子孫です。しかし、アブラハムの信仰を受け継いではいません。なぜなら、信仰者のアブラハムは、殺人の罪を犯すことなどしませんでしたが、ユダヤ人たちは、人を、否、神の御子にして救い主のイエス様を殺す大きな罪を犯そうとしています。イエス様は、人間の姿形をしていても、単なる人間ではなく天において、父なる神のもとにおられた永遠の神の御子であるので、目で見たと言えるほど、確実に、父なる神の御心を知っておられて、ユダヤ人たちに話しているのです。

 

 ユダヤ人たちが、どうして、イエス様を殺害しようとしているのかと言うと、ユダヤ人たちの心は、イエス様を遣わした天の父なる神に結びついていたのではなく、人を殺すという罪に人を誘惑する悪魔、サタンに結びついていたからです。ユダヤ人たちの父は、アブラハムではなく、すべての悪の元凶の悪魔、サタンであったのです。38節に、「あなたたちは父から聞いたことを行っている」とあります。この場合の「父」とは、悪魔、サタンのことです。旧約聖書、創世記の4章に、カインは兄弟のアベルを殺したと世界で最初の殺人の罪を記しています。カインのアベル殺しの大きな罪の背景には、サタンの働きがあったと考えられますが、今や、そのサタンは、ユダヤ人たちの心に働いて、イエス様を殺す大きな罪を犯すように働きかけているのです。このことは、39節以下でさらに詳しく展開されます。

 

 なぜ、ユダヤ人たちが、サタンにそそのかされて、イエス様を殺害するという大きな罪を犯すことになるのかと言うと、その理由は、イエス様の言葉を自分たちの心の中に受け入れ場所をあけておかなかったからです。37節の後半の「わたしの言葉を受け入れないからである」の「受け入れない」という用語のもともとの意味は、受け入れのための場所をあけておかないという大変意味深い用語が使われています。

 

ですから、ユダヤ人たちは、自分たちの心を律法主義やこの世のことを受け入れるための、場所は心にあけていても、人を真に生かすイエス様の言葉が入る場所は、心の中にあけておかなかったのです。人は、自分の力で自分の心を変えることはできません。でも、人の心を変えてくださるイエス様の力ある言葉を自分の心に受け入れるため、自分の心に場所をあけておくことは、しようと思えばいくらでもできるのです。

 

 今日のわたしたちは、ユダヤ人たちの失敗を繰り返さないようにしたいと思います。自分の大切な心にこの世のことのためには、場所をあけておいても、イエス様の御言葉のための場所はありませんということがないようにしましょう。わたしたちの心の1番よいところ、心の1番深いところ、心の中心、心の王座を広くあけて場所を作っておきましょう。礼拝のたびごとに、心の王座に、あなたを今も後も、そして、永遠に生かすことができるイエス様の豊かな力のある御言葉を納めるようにしましょう。

 

結び

 

以上のようにして本日のところからお話をしました。わたしたちは、イエス・キリストを信じ、罪の生き方そのものから解き放たれ、心の真の自由を恵みとして与えられ、神の御心にかなう善を聖霊の力によって積極的に行い、今の時代において、喜んで歩んでいきましょう。キリストによる真の自由が多くの人々に恵みとして与えられるように祈りましょう。

 

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