聖霊による新生
テトスへの手紙 3章1節ー7節
3:1 人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと、2 また、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。3 わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。4 しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、5 神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。6 神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。7 こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。
はじめに
本日のところは、どんなところかと言いますと、クレタ島のクリスチャンたちが、聖霊の恵みによって霊的に新生した者として、神の国の一員としてしっかり歩むとともに、この世の国の一員、あるいは社会の一員としてもしっかり歩んで行くように、パウロがテトスを通して勧めたところです。わたしたちも、ここを学んで、21世紀の日本にあって、同じく聖霊の恵みによって霊的に新生した者として、神の国の一員としてもしっかり歩むとともに、また、この世の国の一員あるいは社会の一員としても、しっかり歩んでいきたいと思います。
1.社会の一員としてしっかり歩むようにとの勧め
パウロは、クレタ島のクリスチャンたちが、神の国の一員として、しっかり歩むとともに、この世の国の一員としても、あるいは、社会の一員としても、しっかり歩むように勧めました。1節、2節がそうです。
1章12節で言われておりますように、クレタ島の人々の性格は非常に悪いものとして、当時の地中海世界に知れ渡っていました。彼らは、平気でうそをつき、人々をだましていました。また、彼らは、知性や良心や道徳心のない、獣のように、考えなしに悪事を手当たり次第に行いました。また、彼らは仕事を怠けて、飲んだり食べたりして時間を過ごしていました。さらに、彼らは、粗暴で、けんか好きで、権威に対しては反抗的でした。そのためクレタ島には常に、殺人、反乱や暴動、戦いや戦争などがあって社会秩序が乱れたと言われています。
しかし、そのようなところにも、神の愛が注がれ、キリストが宣べ伝えられ、救われる人々が恵みによって起こされ、洗礼を受け、キリストを信じる生活がスタートしました。でも、以前の古い国民性がまだまだ残っていましたので、クリスチャンになっても、以前の古い国民性に影響され、社会の秩序を乱すようなことをしないように、勧めたのです。
1節後半に「支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと」とあります。「支配者や権威者」とありますが、この表現で、当時の政治をつかさどる人々を表しています。具体的には、クレタ島もローマ帝国の支配下にありましたので、ローマ皇帝およびローマ皇帝から各地に遣わされた総督などを表すものと思われます。パウロは、クレタ島のクリスチャンたちが、これらの政治をつかさどる人々にいたずらに反抗し、反乱や暴動や流血沙汰を起こし、社会の秩序を乱すことをしないように命じました。
なぜなら、神は、政治をつかさどる人々を通して、社会に秩序が保たれることを御心としているからです。キリスト教は、無政府主義の立場ではありません。キリスト教は、国家とか政府とか為政者を認める立場です。ですから、たとえ、国家や政府や為政者がキリスト教を知らなくても、クリスチャンは、神に認められた権威として従う義務があります。モーセを通して与えられた、十戒の第5戒に「あなたの父と母を敬え」とありますが、その戒めは、実際の両親を敬うことだけを教えているのではなく、政治をつかさどる人々も親のように敬って従うように教えているのです。このことは、ウェストミンスター大教理問答124問を見ると、すぐわかります。
問124「第5戒の父や母とは、だれのことであるか。」 答「第5戒の父や母とは、本来の両親ばかりではなく、すべて年齢や賜物での上の人、特に家庭・教会・国家社会のいずれであれ、神のみ定めによって、権威上わたしたちの上にある人を指すのである。」と言われている通りです。この戒めは、国家の為政者や政治をつかさどる人々の権威を認めて、尊敬し、従うべきことも教えているわけです。
こうして、神は、旧約時代から、政治をつかさどる人々を通して、社会の秩序が保たれることを御心として教えていたのです。ですから、クレタ島のクリスチャンたちも、ローマ皇帝やローマ皇帝から遣わされてきた総督には従うべきです。もちろん、ローマ皇帝やローマ皇帝から遣わされてきた総督が、神の御心に反することを要求した場合には、その要求には従う必要はありませんが、そうでない限りは、従うべきであり、いたずらに反抗し、反乱や暴動や流血沙汰を起こし、社会秩序を乱すようなことをしてはならないのです。
また、クレタ島のクリスチャンたちは、政治上の権威を認め、当然、税金を払ったり、あるいは、公共の建造物建築のための労働などの国民としての義務を果たすべきでした。そこで、パウロは、「すべての善い業を行う用意がなければならない」と言いましたが、「すべての善い業」というのは、税金を払うこととか、当時、道路を作ったり、橋を作ったり、公共の建物を作ったりなどの仕事に駆り出されることなどを表していると考えられます。従って、クレタ島のクリスチャンたちは、政治上の権威にいたずらに逆らう必要はありませんし、また、キリスト教とは違った宗教を持っている人々といたずらに争って、社会の秩序を乱す必要もありません。他の宗教を持っている人々とも、平和的に、協調して歩むべきです。
2節に「だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを」とありますが、この表現で、キリスト教と違った宗教を持っているクレタ島の人々とも、社会において、平和的に、協調して歩むべきことを教えています。当時は、まだ、キリスト教が成立してから30数年しか経っていませんので、キリスト教に対する誤解がいくらでもありました。そのため、キリスト教のことをあれこれひどく言う人々もいました。でも、その都度、争いを起こしてはなりませんでした。「だれをもそしらず」とありますが、これは、だれに対しても根も葉もない中傷をしないことです。「争いを好まず」は、争いを避けること、「寛容で」は、人を許す広い心を持つこと、「すべての人に心から優しく接すること」は、誰に対しても優しく親切に対応することを心掛けるようにということです。パウロはクレタ島のクリスチャンたちにテトスを通じてこのように勧めたのです。
このことは、今日のわたしたちにとっても大事なことです。わたしたちは、確かに、恵みによって神の国の一員とされていますけれども、しかし、だからといって、この国の一員であることや社会の一員であることを軽んじてはなりません。わたしたちは、両方とも大切にして歩むのです。特に今週は8月15日の終戦記念日が来ますが、わたしたちは、神の国の一員であるとともに、この世の国、日本国の一員としても、平和な国家になるように、社会秩序が守られるように、政教分離の原則が確立するように祈り、かつ努力をしていきたいと思います。
2.パウロは聖霊の新生の御業を教えました
パウロは、クレタ島のクリスチャンたちに、しっかり歩むように勧めましたが、しっかりした歩みは、自分の力でなく、聖霊の新生の御業ゆえに可能であることを教えました。パウロは、クレタ島のクリスチャンたちに、しっかりした歩みをするように勧めましたが、クレタ島のクリスチャンたちは、自分たちに、しっかりした歩みを求めることなど無理であると思ったかもしれません。なぜなら、「自分たちの国民性は、悪い性格であって、ことわざにもなっているくらいであるから、自分たちがクリスチャンになっても、しっかりしたよい歩みをしていくことなどとてもできない、パウロ先生は、自分たちに無理なことを求めている」と感じてしまうかもしれません。
そこで、今度は、パウロは、自分自身のことも含めて語ります。自分自身を含めて、どのクリスチャンも、以前は、全面的に堕落した罪人であったけれども、聖霊の新生の御業によって、しっかりしたよい歩みができるように、必ず変えられることを語って励ましたのです。3節を見ますと、「わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。」とありますが、この7つの表現で、パウロ自身も含めて、クリスチャンになる前の、全面的に堕落した罪人の姿を表しています。
第1の「無分別」というのは、霊的によいことと悪いこととの健全な判断ができないことを表します。第2の「不従順」というのは、真の神に対して従順でないことを表します。そんなこと言うと、疑問が出るかもしれません。パウロは、クリスチャンになる前でも、ユダヤ人として真の神を信じていたのであるから、真の神に対して従順であったのではないかと思うかもしれません。しかし、これは間違いです。なぜなら、真の神に従順であるというのは、真の神が遣わしてくださったイエス・キリストを約束の救い主として受け入れるからです。キリストを受け入れなければ、キリストを遣わしてくださった真の神に不従順なのです。今日でも同じです。今日でも、ユダヤ人たちは、キリストを受け入れないで、自分たちは真の神に従順であると豪語していますが、それが間違いの大もとです。
第3の「道に迷い」というのは、人としての生きる道から迷い出ているという意味です。「わたしは道であり、真理である」といわれるキリストを知らなければ、人は、生きる道から迷い出ています。第4の「種々の情欲と快楽のとりこ」というのは、この表現で、性的な不道徳を広く表すと考えられます。当時は、遊郭があり、遊女がいましたが、そういうところに入り浸りになることも意味していると思われます。
第5の「悪意とねたみを抱いて暮らし」というのは、他の人の悲しみや苦しみになることを意識的に行ったり、他の人の幸せをねたんで壊す行いなどを意味します。第6の「忌み嫌われ」というのは、人の嫌がることをして人から嫌われることを表します。第7の「憎み合っていた」というのは、嫌われるよりも、さらに強く、お互いに憎しみ合う状態を意味します。
こうして、7つの表現で、クリスチャンになる以前の罪の状態が語られています。7は完全あるいは十分を表します。ですから、パウロ自身を含めて、どのクリスチャンも、クリスチャンになる前は、完全な罪人、十分な罪人、本当にひどい罪人であったのです。しかし、それでも、恵みによって、しっかりした歩みをする者に変えられたのです。
では、どのように変えられるのでしょうか。パウロは、当時の賛美歌を引用しながら、クリスチャンは、洗礼を受けたとき、聖霊の豊かな働きによって新生したゆえに、それまでとは違う、クリスチャンとしてのしっかりしたよい歩みができるものに変えられることを、とても力を込めて教えました。わたしたちは4節から7節までを見ますが、この4節から7節は、1世紀の時代の教会で歌われていた賛美歌が引用されていると考えられます。とても格調高い感じがします。洗礼式の時に歌った賛美歌かもしれません。
賛美歌というのは素晴らしいものです。賛美歌の言葉、歌詞が心に響いてきてとてもいいなあと思います。わたしは、賛美歌を40年近く歌ってきていますが、ある時までは、特に、賛美歌の言葉、歌詞をあまり考えないで歌っていました。ところが、不思議なことに、ある時期から、賛美歌の言葉、歌詞が心に響いてくるようになりました。今もそうです。礼拝で、賛美歌を歌ってる時、賛美歌の言葉、歌詞がとても心に響いてきて、賛美歌をよいなと思うようになりました。
パウロもそうだったのでしょう。礼拝で、他の人々とともに歌う賛美歌の言葉、歌詞が心によく響いていたのでしょう。それで、テトスへの手紙を書いている時にも、賛美歌の言葉が自然に頭に浮かんできたので書いたのでしょう。4節から7節までの、とても格調の高いこの賛美歌の中心は何であるかと言いますと、それは、5節後半の文章です。「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。」これが中心です。
この一文は、何を歌っているかと言いますと、洗礼を受けることによって、クリスチャンは救われ、生まれ変わったのであるということをとても素晴らしいこととして歌っているのです。人がキリストについてのよき知らせである福音を聞くときに、聖霊がその人の心に豊かに働いて、その人を霊的に生まれ変わらせます。そこで、その人は、キリストを信じ、洗礼を受けます。洗礼は、その人に水を注ぐことによって、その人が罪からきれいに洗われ、罪の古い人が死に、義に生きる新しい人が誕生したことを意味します。こうして、洗礼は、聖霊の新生の御業によって、新しい人のスタートを表します。
「新たに造りかえる洗い」というのは、洗礼のことです。洗礼は、その人に水を注ぐことによって、その人が罪からきれいに洗われ、罪の古い人が死に、義に生きる新しい人が誕生したことを意味しますので「新たに造りかえる洗い」と言われました。4節から7節の他の文章は、すべて、この中心的な文章を説明するものです。例えば、聖霊の新生の御業によって、人は救われるのですけれども、その救いが成り立つためには、もちろん、その前提として、キリストが歴史の中に本当に現れ、十字架の死と復活によって救いの道を開くことが必要です。
4節と5節前半で「わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。」とありますが、この表現で、キリストが、歴史の中に本当に現れ、十字架の死と復活によって救いの道を開いてくださったことを歌っているのです。キリストが歴史の中に本当に現れ、十字架の死と復活によって救いの道を開いて下さったことは、罪人であるわたしたちに対する天の神の慈しみと愛に基づくので、キリストが現れたことが、「神の慈しみと人間に対する愛とが現れたとき」と言われたのです。また、天の神が救いのご計画を立てお方ですので、ここでは、天の神が「わたしたちの救い主である神」と歌われました。
聖霊の新生の御業によって、人は救われるのですけれども、聖霊が一人ひとりに豊かに働いて新生の御業を行うのは、もちろん、十字架の死と復活の後、天にお帰りになったキリストが、ペンテコステにおいて、聖霊を雨のように豊かに人類世界に注いでくださるということがあったからです。6節で「神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。」と歌っているのです。
こうして、パウロは、4節から7節までで、当時の教会で歌われていた、格調高い賛美歌を引用し、人は、聖霊の新生の御業によって霊的に新しい人に生まれ変わったのであるから、それまでとは違った、しっかりしたよい歩みが必ずできるということを教えて、クレタ島のクリスチャンたちを励ましたのです。
キリスト教の洗礼は、罪の中に生きてきた古い自分が死んで、義に生きる新しい自分が誕生したことを象徴する儀式です。こんなお話を聞いたことがあります。洗礼式の時、水を入れた洗礼盤を使います。日本では、銀でできた大きなコップのような形をしているわけですが、ヨーロッパのある教会では、6角形の洗礼盤を使うそうです。
6角形の形をしたものはもともとお棺だそうです。人が亡くなって、埋葬するときに6角形のお棺に入れて埋葬したそうです。そこから、キリスト教の洗礼は、罪の中に生きていた古い自分が死ぬことを意味するというので、6角形の洗礼盤が用いられるようになったそうです。キリスト教の洗礼式は、罪の中に生きていた古い自分のお葬式になるわけです。罪の中に生きていた古い自分はもう死んでお葬式をした、今の自分は、聖霊の新生の御業、恵みによって誕生した新しい自分であるということ象徴したわけです。
わたしは、それを聞いたとき「なるほどなあ」と思いました。洗礼式を行うときの礼拝式文にも、まさにそういう意味のことがはっきりと述べられています。洗礼式の時の式辞の文章の1部です。「それゆえ、洗礼を受ける者は、自分自身が、キリスト・イエスにあって罪に対して死に、神に生きる者とされたことを確信し、今から後、もはや自分のために生きず、自分のために死んでよみがえってくださったキリストのために生きることを決意しなければなりません」という文章ですが、本当にこの通りです。クリスチャンは、聖霊の新生という恵みによって、必ずしっかりしたよい歩みができるものに変えられるのです。わたしたちは、自分の力に信頼するのではなく、恵みの大きな力に信頼して、安心して歩みましょう。
3.クリスチャンは永遠の生命の希望を受け継ぐ者に変えられています
聖霊によって新生しているクリスチャンは、永遠の生命の希望を受け継ぐ者にも変えられています。7節がそうです。この7節も、当時の教会の賛美歌の一部ですが、特に、聖霊によって新生しているクリスチャンは、今、この世にあってしっかりしたよい歩みができる者にされているのですが、将来に対しても、素晴らしい希望を持つ者にされていることが歌われています。将来に対して持つすばらしい希望とは、永遠の生命が完成するという希望です。
考えてみますと、わたしたちは、イエス・キリストを信じることにより、いろいろな祝福を与えられます。例えば、「義とされます」とあり、神の前に罪のない正しい者として扱われるようになります。また、心には、平安や喜びや力が与えられます。また、祈りが聞かれるようになります。問題や困難に直面したときには、助けと保護が与えられます。
聖霊の働きによって、罪の性質がだんだん清められます。そして、それらとともに、永遠の生命を受け継ぐ者にされ、世の終わりに、必ず、永遠の生命が完成するという大きな希望を持って生きる者にもされるのです。これは本当に素晴らしいことです。なぜなら、希望は人を生かすからです。希望がなければ絶望です。しかし、聖霊によって新生したクリスチャンには、永遠の生命の完成という、これに勝るものはない最高の、しかも確実な希望が与えられるのです。クリスチャンは、最高のしかも確実な希望である永遠の命が完成するときが来るということに思いをめぐらすことで大きな喜びに包まれるのです。
7節に、「希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです」とありますが、この意味は、永遠の命という希望を受け継ぐ者にされていますという意味です。聖霊によって新生したクリスチャンは、永遠の命という希望を受け継ぐ者にされています。実際に、世の終わりに、キリストが再臨したときに、永遠の命が完成し、わたしたちは、キリストともに、また、キリストを遣わしてくださった神とともに、罪のない新天新地で、永遠に生きていく者にされるのです。
永遠の命というのは不思議なものです。永遠ということを考えるのは人間だけです。時間を超える永遠というものがあるのではないかと考えたり、自分は、永遠に生きたいと願望を持ったり、神は永遠的存在に違いないなどと考えるのは、人間だけでしょう。動物や植物や岩石は、永遠があるなどということを考えません。永遠ということを考えたり、求めたり、憧れたり、望んだりするのは、人間だけです。どうしてでしょう。
それは、永遠にいます神が、人間の心の中に、永遠を思う思いを入れたからです。また、人間は、エデンの園で人類の代表アダムが、永遠の命を手に入れ損ねたので、願望が残っているのかもしれません。また、人間は、本能的に恐れを感じる死に勝利するために、永遠の命を望むのかもしれません。
宗教改革者のカルヴァンも「来るべき生の瞑想」ということを言いました。「人が、動物と違うのは、人は死んでも終わりではなく、天国で生きること、さらに、世の終わりには、復活して、永遠に生きていくことを、よく瞑想して、喜びとすることができることにある」と「キリスト教綱要」の中で力強く語りました。クリスチャンは、この世の歩みを決して軽んじたりはしません。しかし、この世の歩みはいつか終わって、天国で生きること、そして、最後には、復活して神とともに永遠に生きていくという確実な希望について瞑想することによって、大きな喜びを覚え、それで死の恐れを克服できるのであると語りました。
本当にそうです。永遠の命の約束と永遠の命の完成の希望について、考え、瞑想し、思いを巡らすことは、心に大きな喜びをもたらし、死さえも飲み込んでしまうのです。聖書もそうです。聖書の最初の旧約聖書の創世記1章から3章のエデンの園においては、永遠の命の木は中央に一本生えていたという書き方で、永遠の命というものがあることを教えていますが、聖書の最後のヨハネの黙示録22章においては、永遠の命の木は、川の両岸にずらりと生えていて、年に12回実を結び、その永遠の命の木の葉は、諸国の民の病をも癒すという書き方で、キリスト再臨の世の終わりには、永遠の命が完成し、永遠の命の圧倒的豊かさが新天新地に充満している姿を印象深く読者に教えています。死の影は、もはや少しもありません。死は永遠の命の圧倒的豊かさに飲み込まれてしまい、永遠の命が完全に勝利します。わたしたちも、きたるべき生、永遠の命について考え、瞑想し、思い巡らすことによって、心に大きな喜びを覚えつつ、将来に向かっていきたいと思います。
結び
以上のようにして、本日のところを見ます。今日のわたしたちも、聖霊によって新生した者として、クリスチャンとしてのしっかりした歩みを自分のためにも、また、他の人々へのよい証しのためにも、していきたいと思います。さらに、聖霊なる神がわたしたち一人ひとりを、ますます整ったクリスチャン、円熟したクリスチャンにしてくださるように、祈りたいと思います。 |
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