良い行いに励む
テトスへの手紙 3章8節ー15節
聖 書
3:8 この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。9 愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。10 分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい。11 あなたも知っているとおり、このような人は心がすっかりゆがんでいて、自ら悪いと知りつつ罪を犯しているのです。12 アルテマスかティキコをあなたのもとへ遣わしたら、急いで、ニコポリスにいるわたしのところへ来てください。わたしはそこで冬を越すことにしたからです。13 法律家ゼナスとアポロとを、何も不自由しないように、よく世話をして、送り出してください。14 わたしたちの仲間も、実際に必要な物を賄うために、良い行いに励むことを学ばねばなりません。実を結ばない者とならないためです。15 わたしと一緒にいる者たちが皆、あなたによろしくと言っています。わたしたちを愛している信仰の友人たちによろしく伝えてください。恵みがあなたがた一同と共にあるように。
はじめに
本日は、テトスへの手紙の最後のお話になりますが、クレタ島で回心してクリスチャンになった人々が、神の御心にかなうよい行いをして歩むようにテトスを通して、パウロが勧めているところです。1世紀の地中海世界においてクレタ島の人々は、行いや行状が悪いことで有名でした。しかし、恵みによって救われ、聖霊によって内面が新しく生まれ変わりましたので、これからは、神の御心にかなうよい行いをして歩んでいくように勧めたのです。今日のわたしたちも、ここを学んで、21世紀の日本社会において、聖霊によって新生した者として、神の御心にかなうよい行いをしながら、歩みをしていきたいと思います。
1.パウロはテトスが救いの真理を力強く説教するよう命じました
パウロは、若い伝道者テトスが救いの真理を力強く説教するように命じました。神による救いの真理は真実で、絶対確実で、1世紀の教会の賛美歌においても、歌われていたほどです。しかし、神による救いの真理が人々の心に伝わり、人々が、神の御心にかなうよい行いをするためには、伝道者が確信に満ちて力強く説教ことが必要です。伝道者が、神による救いの真理を確信に満ちて力強く説教しなければ、人々がそれを聞いて、神の御心にかなうよい行いをすることができません。そこで、パウロは、若い伝道者テトスが、確信に満ちて力強く説教するように命じました。
8節に「この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます」とありますが、「この言葉」また「これらのこと」いうのは、直前の4節から7節の部分で言われていることを指しています。直前の4節から7節は、当時の賛美歌からの引用と考えられています。その内容は、キリストが現れ、十字架の死と復活によって救いの道を開いたのは、救いのご計画を立ててくださった天の神の、慈しみと愛であること、また、わたしたち罪人が救われるのは、聖霊がわたしたち一人ひとりに豊かに働いて、新生させてくださるからです。新生は、洗礼を受け、水による洗いを通して表されました。また、聖霊が一人ひとりに豊かに働くのは、聖霊降臨、ペンテコステにおいて、聖霊が地上に豊かに注がれたからです。こうして、人は、恵みによって義と認められ、永遠の命の完成の望みを受け継ぐものとして歩むことができるようになったという意味です。
パウロ自身も、その賛美歌を礼拝で歌っていたのでしょう。パウロのような優れた信仰者であっても、今日のわたしたちと同じように礼拝で神をたたえる賛美歌を歌っていた姿を想像するのは楽しいことです。信仰者は、いつの時代でも心から神をたたえる賛美歌を歌うのです。神による救いの真理は真実で、絶対確実なもので、1世紀の賛美歌においても表明されていたほどですが、その真実で、絶対確実な神による救いの真理を確信に満ちて、力強く説教するように、パウロは若い伝道者テトスに勧めたのです。「力強く主張するように」というのは、確信に満ちて、力強く説教するようにということです。
では、若くてもキリスト教伝道者であることには変わりはないテトスが、確信に満ちて力強く、神による救いの真理を説教するとどのようなことが生じるのでしょうか。回心して真の神を信じるようになったクレタ島の人々が、真の神の御心にかなうよい行いをしようと強く心がけるようになります。
8節の後半がそうです。「神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります」とありまして、「神を信じるようになった人々」と言われておりますが、この表現で、クレタ島の回心者たちを表しています。クレタ島伝道は、パウロとテトスによって行われ、恵みによって回心に導かれた人たちが、多くいたのですが、クレタ島の人々の悪い国民性のゆえに、信仰の成長が妨げられるかもしれません。そこで、テトスが、神による救いの真理を、聖霊により、確信に満ち、力強く、堂々と説教し、信仰の強い感化力を与えることによって、クレタ島の回心者たちが、神の御心にかなうよい行いをしようと強く心掛けるようになることが必要であったのです。
何回かお話していますが、クレタ島の人々の国民性の悪さは、当時の地中海世界に悪い意味で評判で、ことわざまでできていたくらいです。1章12節がそうです。クレタ島の人々は、常に平気でうそをついて人をだましていました。また、知性や良心や道徳心がない悪い獣のように、いろいろな悪事を行い、行状が非常に悪かったのです。また、勤労をせず、飲んだり食べたりして時間をつぶしているというありさまでした。クレタ島の人々の国民性は、それほど悪いもので有名でした。
しかし、国民性の非常に悪いこのクレタ島にも神の愛が注がれ、キリスト教の伝道がなされ、恵みによって回心者たちが次々と起こされ、洗礼を受け、クリスチャンになりました。でも、うっかりすると、以前の悪い国民性のゆえに、クリスチャンになったのに、まだ相変わらず平気でウソをついたり、悪い行状をしたり、勤労せず飲んだり食べたりして時間をつぶしているというのであれば、これはいけません。変わっていかなければなりません。そのためには、伝道者のテトスが、若くても、聖霊によって、確信に満ち、力強く説教し、彼ら一人ひとりの心によい影響を及ぼす必要があります。そこで、パウロは、テトスに「力強く主張するように、わたしは望みます」と言って、説教に頑張るように勧めたのです。
考えてみれば、説教というのは、キリスト教にとっては、とても大切なものです。あってもなくてもよいものではありません。なければ困るものです。実は、説教がなければキリスト教は成立しないものです。必要不可欠なものです。
わたしは、説教の必要不可欠性ということを言うときに、オランダのベルカワー先生のことを思い出します。ベルカワー先生は、説教の不可欠性についてこんなことを言いました。キリスト教おいては、神による救いの真理を記した聖書が根本的に必要なものであるけれども、では、聖書があれば、キリスト教はそれで成り立つかというとそういうわけにもいかないというのです。説教が同時に必要だというのです。なぜなら、救いの真理を記した聖書があっても、聖書はあくまで、本、書物であって、自分で声を出して、救いの真理を伝えるわけではない。聖書は、トレーニングを受けた伝道者や牧師によって説教されて、救いの真理がはじめて人々に伝えられるのである。だから、聖書と説教は実際には切り離すことはできない、聖書と説教は実際には1セットであるという意味のことを言っています。 わたしは本当にそうだ思いました。確かに、聖書があるということだけでは、神による救いの真理は人々には伝わりません。今日でもそうです。今ここに、講壇に聖書が開かれていますが、聖書が自分で声を出して皆さんにその内容である救いの真理を伝えたりはしないのです。そんな不思議なことは起こらないのです。神はそんなことはなさらないのです。
聖書は、そういう意味では、あくまでも本、書物なのです。そこで、トレーニングを受けた伝道者や牧師が、本あるいは書物である聖書を解釈し、その時代の人々に分かりやすい言葉で解き明かし、説教することによって、聖書の素晴らしい内容である神による救いの真理が初めて人々の大事な心に伝わるのです。これが、神の決めた方法なのです。神は、説教という方法によって、救いの素晴らしい真理が一人ひとりの心に伝わるようにされたのです。今日も、日本のひとつひとつの教会の説教が恵みによって用いられ、一人でも多くの人の心に、真の神による素晴らしい救済の真理が伝わり、それを聞いた人々が、真の神の御心にかなうよい行いをすることに熱心になれるよう祈りたいと思います。
2.パウロはテトスが異端の教えを退けて歩むように勧めました
パウロは、テトスが異端の教えを退けて歩むように勧めました。キリスト教には、その時代その時代の課題がありますが、1世紀のキリスト教の課題の1つは、異端との戦いでした。異端とは、偽物のキリスト教のことです。本物があれば偽物もあるというわけです。異端には救いはありません。救いを破壊してしまいます。異端は、地中海の島、クレタ島にも入り込んでいました。そこで、パウロは、若い伝道者テトスが異端を退けて歩むように勧めました。
では、クレタ島に入り込んできた異端はどんなものであったのでしょう。パウロは、9節から11節で、異端の特色や扱い方について述べています。「愚かな議論」、これは、異端は、賢さが少しもない馬鹿げた議論をするという意味です。「系図の詮索」、これは、旧約聖書の系図に出てくる人物について、自分勝手な物語りを作って話すということです。「争い」、これは、異端は、すぐに口論をするということです。「争い」というのは口論という意味です。「律法についての論議」、「律法」というのは、旧約聖書に出てくる神の掟、戒めのことです。特に、モーセを通して与えられた十の戒めをはじめとする戒めのことですが、異端は、神の戒めをめぐって議論し、本来の意味を離れ、極端な解釈をしていました。
ですから、クレタ島に入り込んできた異端は、ユダヤ教の影響が相当強いものであったと考えられます。異端の教えは、「無益」、信仰の益がなく役に立たないものであり、「むなしいもの」、空虚で空っぽで意味のないものです。異端の教えが教会に持ち込まれれば、必ず教会に分裂を引き起こします。そこで、教会は、「それは、正統的な教えから外れる異端ですよ」と、公の正式な教会的注意と忠告を1回だけでなく、2回、すなわち、十分与えます。しかし、それでも、異端の教えに固執するのであれば、「かかわりを持たないようにしなさい」とありますように、教会から除名にするように、パウロは命じました。
異端というのは、自分を真に救ってくれる、神の愛による素晴らしい救いの真理についての正統的な健全な教えを拒否し、救いを決してもたらすことのない偽りの教えを喜んで受け入れることですから、それは、罪人である人間の知性の歪みを表すもの以外のなにものでもありません。そこで、パウロは、異端に固執して離れない人は、「心がすっかり歪んでいて」とはっきり語りました。また、異端に固執して離れない人は、「それは異端ですよ。悪いものですよ。正統的な健全な教えから外れていますよ」という教会的な正式の注意や助言を、十分受け、その立場は、教会から異端とされていて悪いものであると言われているのを知っていながら、離れませんので、パウロは「自ら悪いと知りつつ罪を犯している」とはっきり語りました。
キリスト教には、その時代の課題というものがあります。1世紀のキリスト教にとっての課題は、2つありました。1つは異教社会における伝道、もう1つが異端の排除でした。ちなみに、1世紀の異教社会におけるキリスト教の伝道については、キリスト教こそ、真の宗教、キリスト教の神こそ真の神と伝道して、地中海世界、そして、さらに、ヨーロッパ全域に広く伝えられていきました。
では、その後のキリスト教にとっての課題は、何だったでしょう。16世紀と17世紀の宗教改革の時代におけるキリスト教の課題は、聖書に立つプロテスタントキリスト教の確立でした。ルターやカルヴァンなどの宗教改革者といわれる人物が出て、聖書にないローマ法王制度やマリア崇拝などを教えるカトリック教会とたもとを分け、聖書に立つプロテスタントキリスト教を確立することが大きな課題でした。その後のキリスト教の課題は何であったかというと、合理主義です。人間は、創造主なる神への信仰によらなくても、理性を働かせれば、幸せになれるのだという考えが広まり、信仰を軽んじ、理性を過度に尊びました。皆さんも、フランスのデカルトという人が、「われ思うゆえにわれ在り」と言ったことを世界史の授業などで聞いたことがあるでしょう。これが近代の始まりです。
その意味は、人間は、神への信仰によらなくても、「われ思う」、すなわち、考えることのできる理性があればやれるのだという意味でした。もはや、自分の存在を基礎づけるのに、創造主なる神への信仰などいらない。理性があればそれでよいという意味でした。これが近代の始まりでした。多くの人々が影響を受け信仰から離れ、理性の立場に立ちました。こうして、キリスト教は、合理主義、理性に対する過度の信頼を課題としなければなりませんでした。
ついで、その後のキリスト教の課題は、自然科学の発展とそれに伴う科学万能主義でした。科学が高度に発展しました。そのため、人間は高ぶり、科学さえあれば幸せになれると、多くの人々が間違って思い始めました。20世紀に入り、科学は一層発展しました。けれども、科学の力を用いた悲惨な戦争も何度も行われ、反省が出てきました。近代は、神への信仰を軽んじ、理性を信頼してスタートしたけれども、その結果、人間の心は非常にすさみ、荒廃し、生き方がわからなくなり、平安や喜びを失い、不安が世界に蔓延しました。理性に対する信頼では人間はやれないのではないか。人間は、創造主なる神への信仰に立ち帰るべきではないかという動きが大きく出てきました。
こうして、現在の世界のキリスト教の課題は、心の荒廃した時代、不安な時代において、平安と喜びのある、神への信仰による真の生き方を再び力強く確信をもって提示すること、すなわち、福音を伝えることとなりました。福音を伝えることは、もちろん、日本のキリスト教の課題でもあります。日本のキリスト教の課題は、旧約聖書のサムエル記17章に描かれているように、大男のゴリアトに挑む少年ダビデのような感じもします。しかし、神の力を信頼して戦った少年ダビデが勝利したように、日本のキリスト教も必ず勝利するときが来るでしょう。伝道によって現実に救われる人々がいること、また、救われて喜んで人生を歩んでいるわたしたちクリスチャンが現実にいることが、実は、もう勝利のしるしなのです。キリスト教伝道は全能で慈愛深い神により必ず勝利します。21世紀の日本伝道、皆で一緒にやりましょう。
3.手紙のしめくくり
手紙のしめくくりにあたり、パウロは、幾つかのことを記しました。この手紙を書いたとき、パウロはどこにいたのかと思うのですが、ギリシャ南部のフィリピにいたのかもしれません。パウロのこれからの計画は、ギリシャの西海岸の海沿いの町ニコポリスというところに行って、そこで冬を過ごすことにしていたのです。そこで、テトスにもニコポリスに来てもらい、クレタ島のキリスト教の様子を聞くとともに、今後の地中海世界におけるキリスト教伝道について、テトスと相談しようと考えていたと思われます。そのため、テトスには、クレタ島の伝道を切り上げて、ニコポリスに来てもらわなければなりませんが、その代わりに、パウロは、クレタ島のテトスの後任として、アルテマスかティキコをクレタ島に送るつもりでした。
12節に「アルテマス」という名前が出てきますが、この人もパウロの伝道者仲間の一人と思われますが、この人物はここにしか出てきません。もう一人の「ティキコ」という人は、聖書の中に5回ほど出てきます。ティキコも、パウロの伝道者仲間の一人です。パウロの第3回伝道旅行にも参加しました。また、パウロのエフェソの信徒への手紙とコロサイの信徒への手紙を届けた人物です。
この手紙を書いたときには、パウロの伝道者仲間の「法律家ゼナスとアポロ」が、クレタ島のテトスのところに滞在していましたが、この2人の伝道者が滞在中は、不自由がないように配慮すべきこと、また、間もなく、次の伝道地を目指して旅立つときには、「必要な物」、具体的には、お金や食料や身の回りのものなどを、クレタ島のクリスチャンたちが備えるように指導するよう勧めました。
13節に「法律家ゼナスとアポロ」とありますが、「法律家ゼナス」という名前も、ここに1回だけしか出てこないので、どのような人かよくわかりません。「法律家」という言葉は、ユダヤ人の律法学者も表しますので、この人は、ユダヤ人律法学者であったところから恵みによってキリスト教に回心した人なのかもしれません。あるいは、「ゼナス」という名前は、ギリシャ語の名前ですので、ギリシャ人かローマ人の法律家であったところから、恵みによってキリスト教に回心した人なのかもしれません。
もう一人の「アポロ」という人物は、使徒言行録やコリントの信徒への手紙にも出てきます。アフリカの地中海沿岸のアレクサンドリア出身のユダヤ人で、雄弁で、特に、旧約聖書に精通していた伝道者として知られています。以前に、ギリシャ南部のコリントで伝道したこともありましたが、パウロのテトスへの手紙が書かれたときには、テトスのいたクレタ島に「法律家ゼナス」とともに巡回伝道にやってきて、ある期間滞在し、説教によってテトスを助けたと考えられます。
そこで、パウロは、クレタ島のクリスチャンたちが、この2人の伝道者を支えることを学ぶよう望んだのです。具体的には、クレタ島に滞在しているときは、不自由がないようによく世話をし、次の伝道地を目指して出発する時には、お金や食べ物や衣類や身の回りのものを整えて、送り出すように勧めました。それは、1世紀のクレタ島のクリスチャンたちにとって、神の御心にかなうよい行いであり、信仰の実となるものでした。
パウロは、14節で「わたしたちの仲間も、実際に必要なものを賄うために、良い行いに励むことを学ばねばなりません。実を結ばないものとならないためです」と語りました。「わたしたちの仲間」というのは、クレタ島のクリスチャンたちを表しています。クレタ島のクリスチャンたちも、主にあるパウロの仲間です。
パウロは、この手紙を書いたときに自分と一緒にいたアルテマスやティキコをはじめとする人々から、クレタ島で伝道しているテトスに「よろしく」とあいさつをしました。また、「わたしたちを愛している信仰の人たち」と述べ、クレタ島のクリスチャンたち、みんなに「よろしく」とあいさつをし、最後に、クレタ島のクリスチャン全員に神の恵みを祈って終わりました。パウロは、キリスト教の伝道者を支えることは、神の御心にかなうよい行いであり、信仰の実であると堂々と勧めています。その理由は何かと言いますと、もちろん、伝道者が神の御言葉を語ってくれることに対する感謝としてです。
神は、伝道者や牧師が語る神の御言葉を通して人々が救われ、また、人々の信仰が養われていく方法を定めましたが、今の時代の日本においても、それぞれの教会においてなされる、神の御言葉の説教が用いられ、人々が、平安と喜びのある真の人生に立ち上がれるようお祈りしたいと思います。
結び
以上のようにして、テトスへの手紙の締めくくりを見ますが、今日のわたしたちも、神の御言葉に力づけられ、神の御心にかなうよい行いを、信仰の実として行いながら、日々の歩みをしていきたいと思います。
http://homepage3.nifty.com/msasaki/tetosu3n2.html
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