<プロテスタント教会の展開>


 日本でのプロテスタント宣教は、政府の欧化主義を背景に明治10年代にピークを迎えました。その第一の源流は横浜バンド(Band=集合体)でした。宣教師ヘボンやブラウンによって日本で最初のプロテスタント教会が設立され、日本人指導者として植村正久、井深梶乃助などを生み出しました。
第二の源流は熊本バンドで、熊本洋学校の教師ジェーンズの感化によって入信した熊本藩士の師弟が中心となりました。やがて彼らは新島襄が1875年に開いたキリスト教を基盤とした同志社へと転じ、海老名弾正、徳富蘇峰、徳富蘆花などが言論、文芸の分野で活躍しました。
第三の源流は札幌バンドで札幌農学校(北海道大学農学部の前身)の教頭として赴任したクラークの感化によって入信した学生を中心に形成され、内村鑑三、新渡戸稲造などを輩出しました。

1877年(明治10年)頃から日本のプロテスタントは組織化の時代を迎えます。1876年熊本バンドを中心に日本組合教会が、翌1877年、横浜バンドの長老派・改革派のグループを中心に、日本基督一致教会(のち日本基督教会に改称)が、1887年にはアメリカ及びイギリスの聖公会によって日本聖公会が、また1872年以来、横浜、東京、静岡など各地に宣教を展開したメソジスト諸派はその大方は合同して、1907年日本メソジスト教会を設立しました。
また1880年と1887年に日本語訳の聖書の活字本が出版され、プロテスタントは女子教育を含む青年教育、社会福祉や社会事業、言論、文化などの分野でめざましい影響を及ぼし、日本の近代化に大きな役割を果たしました。


ーミッション・スクールー

1859年に最初のプロテスタント宣教師が来日して以来、彼らが開い た家塾から多くのすぐれた日本人指導者が生まれ、そこから明治学 院やフェリス女学院など、最初のキリスト教主義学校(ミッション・ スクール)が誕生しました。(註:ミッション・スクールは日本ではキリ スト教系学校の総称として用いられてきましたが、今日ではプロテスタント 系はキリスト教主義学校、カトリック系学校と呼ばれており、本ページでは、 ミッション・スクール=キリスト教主義学校としています) 欧化主義によってキリスト教主義学校は著しく発展しました。

現在 のプロテスタント系のキリスト学校同盟の統計では、開国前後から 1870年代までに15校が、1880年代にはさらに35校が創立されており、 最近の調査では日本人全体の約1割が何らかの形でキリスト教教育 機関の出身者であるとされています。

明治20年代には国家主義が高まり、「教育勅語」が発布されました。 1891(明治24)年、第一高等中学校の内村鑑三が「教育勅語」の親書 (天皇の署名)に礼拝しなかったことを不敬とする、いわゆる「不敬事 件」がおこりました。

また熊本県でも県知事がキリスト教信者の小学 校教員を威嚇して、聖書を読んだ小学生を退学させる事件がおこり ました。 これらを受けて、東京帝国大学教授の井上哲次郎は1893年「教育と 宗教の衝突」を発表し、「教育」すなわち国家主義教育と「宗教」は衝突 するものであると説きました。この説は大きな論争の火種となり、キ リスト教主義学校では、生徒数が激減し、財政的にも行き詰まりまし た。

 さらに1899年には宗教教育禁止令が発せられ、キリスト教主義学校 は存続の危機に立たされました。しかし指導者たちの忍耐強い交渉 によって、1900年代には安定した進展を回復し、とりわけ女子高等教 育に関しては、キリスト教主義学校は多大な貢献をしました。

<国家主義とキリスト教>

明治10年代から明治20年前後にかけてキリスト教は地方都市と農 村部へ布教を拡大し、組織化も進みました。しかし1887年(明治20)年 を境に外国人とキリスト教を排斥する機運が高まり、強力な国権回 復運動と国粋主義が台頭して欧化主義は退潮しはじめました。 こうした中で、天皇制国家の確立を宣言した「大日本帝国憲法」が18 89(明治22)年に施行されました。

その第28条には “日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス、及臣民タルノ義務に背カサル 限リニ於イテ信教ノ自由を有ス” と定められました。しかしこの信教の自由は、あくまでも「神聖ニシ テ犯スヘカラ」ざる天皇(第3条)に忠実な臣民にのみ許されるという 限界と矛盾を最初から含んでいました。

その翌年の1890年、政府は 「教育勅語」を発布して、天皇に対する臣民の忠誠を説き、これを日本 の「教育の淵源(根源のこと)」であるとしました。 こうして絶対君主たる天皇が「現人神」として神聖視されるように なると、神社を通して天皇制国家主義を国民に教化しようとする政 府官僚のキリスト教に対する干渉はますます増大し、キリスト教の 勢いは頭打ちになりました。

明治新政府は1868年の祭政一致と神祇官復興の宣布、1870年の「大 教宣布の詔」によって神祇官は宣教師を任命し、大教すなわち天皇を 中心とする国体の教義を国民に布教することを命じました。(参考サ イト・国家神道の成立) さらに1872年の教部省の設置により、神仏各宗の教義、規則、社寺の 廃位、神官・僧侶の等級を司ることとし、明治新政府は発足当初から 神道国教化への布石を打ち出していました。

それは新政府が天皇を 中心とする絶対主義国家を目指していたためで「大日本帝国憲法」と 「教育勅語」はその政策を実現するためのものでした。明治以降の日 本のキリスト教は、少なくとも第二次大戦終結までは、天皇制国家主 義と対立する運命をたどりました。

<社会活動とキリスト教>

隣人愛、とくに貧しい人々への愛の具体的実践を教えるキリスト教 は日本の社会福祉の分野における諸事業の先駆者となりました。 開国後再渡来したカトリックは各地に乳児や児童の養護施設を開 きましたが、なかでも修道女・岩永マキの浦上養育園(1874年設立)の 活動が有名です。

 プロテスタントでは石井十次の岡山孤児院(1887年設立)、石井亮一 の聖三孤女学院(1891年設立、その後、日本で初めての知的障害児を 対象とした教育を開始し、1897年滝乃川学園と改称)などがあります。 留岡幸助が東京・巣鴨に設けた東京家庭学校(1899年設立)は少年犯 罪者の厚生施設であり、現在の少年自立支援施設にあたります。

「愛盲の使徒」と呼ばれた岩橋武夫は「点字毎日新聞」の発行(1922年) と日本ライトハウスの創設(1935年)により、視覚障害者の社会生活 を助けました。 医療事業ではハンセン病患者のための施設、結核患者の療養所など が設立されました。また貧困者の救済と廃娼運動をはじめ、女性解放 運動を推進した日本キリスト教婦人矯正会(*3)が活発に活動しまし た。

1897(明治30)年頃から日本でも様々な社会問題が発生してきまし たが、キリスト教の説く人間の平等観、隣人愛、地上における神の国 の樹立などの思想に基づく社会運動がおこりました。 キリスト教の人道主義に基づき足尾銅山鉱毒問題と取り組んだ政 治家、田中正造や1901年にキリスト教社会主義(*4)の理念を実現し ようとして「社会民主党」を結成した安部磯雄、木下尚江など日本の 初期の社会運動はキリスト教と強くつながっています。 また1910年以降に活発な社会運動を行い、キリスト新聞社をおこし た賀川豊彦は労働組合運動、消費組合(生活協同組合)の設立(1926年) などを推し進めました。

 日本のアジア進出に対しては内村鑑三らの反対もありましたが、大 勢は同化政策の一環としての植民地伝道や仏教、教派神道との三教 合同(*5)などにより、侵略戦争へ突入する国家機構に組み込まれて いきました。

 

http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/kirisitokyou24.html