キリスト教質疑応答集
疑問を通して理解を深める
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/kirinyu-9.htm
宗教は、「精霊信仰」のような形態が最も原始的で、そこから「多神教」が生まれ、さらにそれが発展して、至高神だけを拝するゾロアスター教などの「拝一神教」や、神を唯一とするキリスト教などの「唯一神教」が生まれた、という説があります。これについてはどう考えるべきですか。
そのように、宗教の発展を進化論的にとらえる考え方は、しばしば世の中に見られます。しかし最近の考古学的研究は、事実は全く逆であったことを、明らかにしました。最近の考古学的発見によると、時代を古くさかのぼればさかのぼるほど、昔の人は、より少ない神々に対して信仰を持っていたのです。
たとえば、考古学上最も古い民族の一つと言われる「スメリヤ人」は、その文化の終わり頃には、五千の神々を持っていました。しかし初期には、ただ一つの神である「空の神」がいただけです。この「空の神」とは、もともと聖書でいう「天の神」と同じに違いありません。
また有名なエジプトの考古学者フリンダース・ペトリー卿は、エジプトの宗教は、はじめは「一神教」だったと言っています。
オクスフォード大学のスティーブン・ラングドン博士は、バビロニアで碑文を発見し、その研究から、世界最古の宗教が何であったかについて、言及しています。それによるとその碑文は、人類最初の宗教は唯一神の信仰であって、そこから急速に多神教と偶像崇拝に傾いていったことを、示していたとのことです(ラングドン著『セム族の神話』)。
W・シュミット、W・コッペルスなどの有力な学者たちも、豊富な資料にもとづき、一神教こそはあらゆる原始的宗教の基本となるもので、これが後に堕落変形して、他の様々な宗教形態が生じた事実を、明らかにしています。
これらのことは、まさに聖書の記述に一致しています。
聖書によれば、人類最初の宗教は唯一神教でした。唯一神教は人類誕生とともにあり、その後に、堕落した宗教形態である多神教や、偶像崇拝が広まっていったのです。
人間はサルのような動物から進化したという「進化論」について、どう考えるべきですか。
今日のキリスト者の間には、進化論に対して、大別して二つの考え方があります。
一つは、神が「進化」という方法を用いて、世界や人間をお造りになったのだ、という考え方です。これは「有神論的進化論」(有神進化論)と呼ばれています。
これは進化論と信仰を合わせたものですが、たしかにこのような考え方でも、信仰は成り立つ部分があります。
もう一つの考え方は、進化論はじつは科学的に間違いであって、実際は聖書の記しているように、すべての生物は「種類にしたがって」造られた、と信じるものです。この考え方をする人々は、「創造論者」と呼ばれています。
事実、かつて進化論の「証拠」と言われたものは、その後次々とくつがえされ、今日では進化論の内状はもはや「科学」とは言えないほどにガタガタになっています。たとえば、世界の全化石の二〇%を保存している米国シカゴ・フィールド博物館の館長であるディビッド・ローブ博士は、こう述べました。
「進化論の立場から生命を説明する上で、化石がそれを証明してくれる、と思っている人は多い。さて、ダーウィンが『種の起源』を書いてから一二〇年たつ今、化石記録に関する研究は大いに進んだ。しかし皮肉なことに、進化論を支持する実例は、まるで出てこないのである」(ジェレミー・リフキン著『エントロピーの法則2』)。
今日の進化論者の中には、進化論は研究すればするほど多くの矛盾に突き当たると感じ、その結果進化論を放棄した人も少なくありません。日本の代表的進化論者だった今西錦司氏も、進化論の矛盾に突き当たり、老年になって進化論研究を捨て去りました(一九八三年一一月一九日付け毎日新聞)。
また進化論を捨て去って、さらに創造論を支持するようになった科学者も、少なくありません。現在アメリカには、ヘンリー・モリス博士などを中心とし、創造論を支持するようになった、博士号を持つ数千人の科学者の団体があります。日本や韓国でも、最近同様の団体が設立されました。
創造論とは、あらゆる健全な科学的証拠は、進化の考え方よりも聖書に記されたような創造の考え方によって、より矛盾なく理解される、というものです。この理論は、今日ひじょうに科学的な裏づけを持っており、理性的に考えるならば、もっともよく理解できるものです。
このように、キリスト者の間には今日、有神論的進化論の考え方と、創造論の考え方とがあります。私自身は、後者の考え方をとっています。
創造論の詳しい考え方については、キリスト教読み物サイトの「創造論」の項や、拙著『オーパーツと天地創造の科学』(学研)、『新・科学の説明が聖書に近づいた』(レムナント出版)、または『創造論の世界』(徳間書店)等をお読みください。
信仰生活の上で、疑いは決して持ってはいけないものですか。
「疑い」すなわち「懐疑」には、二種類のものがあります。一つは単に議論を目的とした懐疑、もう一つは、真理追求のための懐疑です。
議論を目的とした懐疑――つまり議論を吹きかけて、相手を打ち負かそうという懐疑は、信仰の上で益はありません。それはむしろ、健全な信仰を破壊するものです。
しかし、真理追求のための懐疑は、信仰生活に益となります。
私たちは、信仰に入ったからといって、すぐに聖書のすべてがわかるようになるわけではありません。実際は、ほんのわずかしかわからないのです。そういうなかで聖書を読み、
「この個所の意味はどういうことなんだろう」
という疑問がわいてきて当然です。大切なのはそういう疑問を、真理追求の足がかりとすることです。
疑問がわけば、調べたいと思うようになります。何も疑問のない人は、真理を知りたいという欲のない人です。私たちは疑問を足がかりとして、真理を一つ一つ知っていくのです。ですから、真理追求のための懐疑は、どんどん持ってほしいものです。私自身も、そういう懐疑を通して、聖書理解を深めてきました。
大切なのは、わかるところから、吸収していくことです。あなたは、魚を食べるとき、柔らかい肉を食べて、かたい骨は残しておくでしょう。同様に、聖書を読んですべてがわからなくても、柔らかい、わかる部分を先に吸収して、かたい難しい部分はあとに残しておけばよいのです。そしてそれは、あとで吸収できるようになったときに、吸収すればよいのです。
仏教とキリスト教の教えの違いは、どんなところにありますか。
一言でいうのは難しいのですが、幾つかのことを述べましょう。
第一に、仏教は"人からの宗教"であり、キリスト教は"神からの宗教"である、ということです。仏教がシャカという一人の人間が開いた教えであるのに対し、キリスト教は、神ご自身が人間に"啓示"した教えです。
第二に、仏教は本来、おもに人間個人の完成を目指す教えであるのに対し、キリスト教は、人間個人の完成はもちろん、神・自分・隣人の三者の関係の完成を目指すものである、ということです。
キリスト教においては、「神を愛せよ」の教えと、「自分と同じように隣人を愛せよ」の教えが二大戒とされています。これはそうすることによって、神・自分・隣人の三者の間の愛の関係が、完成するからなのです。
第三に、仏教が「欲望を捨てよ」と説くのに対し、キリスト教では必ずしも「欲望を捨てよ」とは説かない、ということです。キリスト教では、「欲望からの救い」ではなく、「罪からの救い」を説きます。
第四に、仏教では「生死輪廻からの救い」を説くのに対し、キリスト教では「永遠の滅びからの救い」を説きます。生存から脱却することではなく、「永遠の生命」の大海に入る道を説くのです。
第五に――意外に知られていないことですが、仏教においては、女性は女性のままでは仏になれません。女性は「変成男子」といって、一度男に生まれ変わってからでなければ、仏になれないのです。
仏の国である「浄土」には「女性はいない」、と仏典に書かれています。そこは男性だけの国なのです。仏教徒の中には、女性も女性のままで仏になれると説く者も現われましたが、仏教の経典を見る限りでは、女性は女性のままでは仏になれません。
これは、男も女も分け隔てなくそのままで神の子になれる、というキリスト教の教えとは対照的です。
第六に、仏教は、基本的に「修行」によって救われようとする教えであるのに対し、キリスト教は、「贖い」によって救われる、という教えです。
仏教では、どのくらいの期間修行したら仏になれる、と説いているでしょうか。ある経典は、
「三阿僧祇百大劫」
だと言っています。「三阿僧祇」とは仏教学者によると、三×一〇の五九乗という数字だそうです。「百大劫」は八〇〇〇劫と同じで、一劫=四三・二億年ですから、「三阿僧祇百大劫」はなんと、約一兆年のさらに一〇の六一乗倍という途方もない年月です。
原始仏教においては、こんなに長い間修行しなければ仏になれない、と説いたのです。この教えはその後だんだん変わっていきましたが、キリスト教では、もとからこうした「修行」という考え方をとりません。
キリスト教では、人間は修行によっては救われないと説きます。たとえば、おぼれかけている人に「水泳の修行をしなさい」と言っても、その人は助からないでしょう。
泳げる人が助けてあげるしかないのです。
この「泳げる人」が、救い主イエス・キリストに相当します。キリスト教では、神がなしてくださった「贖い」というわざによって救われる、と説くのです。
キリスト教では、救われるために修行するのではなく、「救われたことを感謝して、神の栄光を現わすために生き、日々向上していきなさい」と説くのです。
第七に、小乗仏教では「(出家して)家庭生活を捨てなければ仏になれない」といい、一方、大乗仏教では「(在家で)家庭生活を営むにもかかわらず仏になれる」と説きます。しかしキリスト教では、むしろ家庭の完成を目指します。
キリスト教では、家庭は人類における最も基本的な単位であり、信仰を通して神の祝福の宿る場であると考えられています。神が人間を男と女に造られたのは、うるわしい家庭を築くためです。
家庭においては、神を中心に「夫と妻と子」が三位一体の愛の関係となることにより、祝福された家庭になります。ほかにも、仏教とキリスト教は多くの点で違いますが、詳しくお知りになりたいかたは、キリスト教読み物サイトの「比較宗教」の項や、拙著『仏教の仏とキリスト教の神』(レムナント出版)、または『日本・ユダヤ封印の古代史2 仏教・景教篇』(徳間書店)が参考になります。
私は神道の家庭に生まれ、神社の中で育ち、キリスト教は「外国の宗教」と教わりました。キリスト教を信じることは、これまでの日本の伝統を否定するような感じがするのですが……。
その心配はいりません。あなたが神道の家庭でお生まれになり、神社で育ったことは、すばらしいことです。日本の神道というものは、じつは旧約時代(キリスト以前)の古代イスラエル宗教に、様々な点で似ているのです。
神社の構造にしても、お神輿にしても、祭、汚れの観念、禊ぎ(清め)にしても、様々の点で似通っています。詳しくはラビ・M・トケイヤー著『日本・ユダヤ封印の古代史』(徳間書店)が参考になるでしょう。
日本の神道の信仰は、一種の旧約的な信仰です。私たちはそこからさらに、新約的な信仰(新約聖書で言っている信仰)に進む必要があります。イエス・キリストは、ご自分が来たのは旧約的な信仰を否定・廃棄するためではなく、むしろ成就・完成させるためだ、と言われました。
旧約が建物の一階とすれば、新約は二階です。一階あっての二階なのです。また二階あっての一階です。上の階にあるものは、下の階にあるものを生かします。新約的な信仰(キリスト教)は、旧約的な信仰(神道)を成就・完成させるものです。
東京で牧師をしている牧野 泰先生は、昔、神社の神主をしていました。しかしその後クリスチャンとなり、牧師になりました。牧野師も、日本神道は旧約であり、キリスト教はそれを完成させる新約なのだ、と述べています。
また明治時代に、松山高吉という牧師がいました。彼はかつて熱心な神道家、また国学者だったのですが、その著『神道起源』の中で、古事記や日本書紀(共に八世紀)以前の日本固有の神道は、多神教ではなく、一神教だったと述べています。そしてキリスト教は、この古代日本固有の宗教を完成するものだと。
つまりキリスト信仰に入ることは、日本の伝統文化を否定することではありません。真のキリスト教は、日本の伝統文化を完成・成就します。私たちはキリストを信じることによって、日本人をやめるのではなく、むしろ本当の日本人になるのです。
神が自分を日本人として生まれさせ、生かしてくださっている意味を理解し、本当の日本人として、神から与えられた使命をそこで果たしていこうではありませんか。かつて明治・大正期に活躍した内村鑑三先生は、
「私は日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために、そしてすべては神のために」
と言いました。私たちはキリストを愛することによって、真の愛国心にも目覚めます。
キリスト教は、東洋の一角、中東で生まれました。キリスト教は、もともと西洋のものではありません。西洋のキリスト教は、アジアの伝統文化を否定しようとしました。しかしそれは間違いです。
東方基督教といって、「東洋の基督教」もあります。それはじつは日本の古代に伝来し、日本の伝統文化の根幹をつくってきました。神道の中にも多分にその影響があります。詳しくは、『日本・ユダヤ封印の古代史2 仏教・景教篇』(徳間書店)を参照してください。
私たちクリスチャンは、日本の伝統文化を愛します。それが、キリストのうちに純化され、完成され、多くの祝福された実を結ぶことを願い、祈るのです。
信仰に入ると、いろいろな戒律にしばられて不自由になることはありませんか。
それはありません。私たちは信仰によって、何かに縛られた状態に入るのではなく、むしろ、様々なしがらみから解放されるのです。
聖書の教えは、私たちを幸福の世界の中へと解放するものです。クリスチャンは信仰に入ってから、自分が解放され、自由になったことを感じています。
たとえば、人間関係が下手でいつも孤独を感じていたある人は、クリスチャンになって人を思いやるようになり、その結果人間関係もスムーズになって、のびのびと生きるようになりました。一方、世間の目や人の意見ばかり気にして自分の意見を持てなかったある人は、クリスチャンになって、主体的に決断できるようになりました。
また、古い因習の中に暮らしていたある人は、クリスチャンになって新しい考え方ができるようになりました。ある人は、死の恐れの中に暮らしていましたが、クリスチャンになって死がこわくなくなりました。
ある人は、占いの言葉がいつも気になって行動していましたが、クリスチャンになるとそのような言葉に左右されて行動することはなくなりました。迷信の中にいたある人は、クリスチャンになって真理の光の中を歩むようになりました。
これらの人々はみな、私たちの幸福を限定する様々のものから解放されたのです。これらの解放こそ、本当の「自由」ではないでしょうか。
世の中には、孤独、不安、罪、因習、迷信、また死の恐れなどの中に生きている人が少なくありません。こうしたものに捕らえられた生き方こそ、「不自由な」生き方であるとクリスチャンは考えます。本当の自由とは、そうしたものから解放され、真理の大道を闊歩していくことです。
聖書には、「~をしなさい」とか「~をしてはいけない」という教えが記されています。しかしこうした教えは、私たちが不自由な生き方から解放され、伸び伸びと生きていくための処方箋なのです。イエス・キリストは言われました。
「もしわたしの言葉にとどまっておるなら、あなたがたは、本当にわたしの弟子なのである。また、真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハ八・三二)。
本当の自由は、真理に立つことによって得られるものなのです。
最後に、私があなたにご質問しましょう。
あなたは、神様を信じますか。神様が天地を造られたこと、また神様があなたを愛しておられることを信じますか。
あなたは、イエス・キリストを信じますか。彼があなたの罪のゆえに十字架にかかり、あなたの罪のあがない(救い)をなしてくださったことを信じますか。また彼が三日後に復活し、今も生きて、あなたと共におられることを、信じますか。
これらの質問に、あなたがすべて「YES」とお答えになったなら、あなたはすでに「神の子」(ヨハネ一・一二)です。そしてあなたは、滅びへの途上から、すでに永遠の命の中に移されています(ヨハネ五・二四)。
またあなたに、さらに二つの質問をしましょう。
あなたが今晩、何かの原因で、寝ている間に死んだとしましょう。そのとき、あなたはどこで目覚めますか。
もう一つの質問はこれです。イエス・キリストは今、どこにおられますか。
あなたは何とお答えになりますか。私はあなたに言いましょう。あなたは、今晩死んだとしても、天国で目覚めるのです。
またイエス・キリストは、今、あなたの内におられます。そしてあなたと共に生きてくださるのです。主イエス・キリストに、あなたの心の王座を占めていただきなさい。そうすれば、あなたの人生は、祝福と変えられるのです。