キリスト教と出会った日本人

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 フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えたのが1549年。その後、わずかの間にその教えは全国に広まり、当時の日本の人口約1000万人中、50万人~60万人(諸説あり)がキリスト教の信仰を受け入れたといいます。日本でもキリシタンの誕生から今に至るまで、多くの殉教者と傑出した信仰者を出してきています。その中からわずか数人ですがその足跡を辿りました。「キリスト教と日本人」のテーマを考えるきっかけとなればと思います
 江戸時代の信仰の戦いの一例として、島原の乱と天草四郎を扱ってみました。バチカン(教皇庁)はこの乱を積極的に評価していませんが、あえて取り上げてみました。聖書翻訳のテーマからは、ヘボンと奥野・井深の二人の日本人の姿を追ってみました。今私たちが手にしている聖書があるのは彼らの努力があったからこそだと思います。日本の教育を支え続けてきたキリスト教主義大学の分野では、新島襄を取り上げました。また、教会人ではありませんが、いわゆる知識人のキリスト教の受容の例として中村正直の生涯を簡単にたどってみました。(※他の人々についてもご寄稿いただければ幸いです。)

        


  天草四郎①

 関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、一六一五(元和元)年には豊臣家を滅ぼし(大坂夏の陣)、戦国時代以来の戦乱を集結させた。人々はこれを元和偃武(げんなえんぶ)の平和を味わっていた。
 キリシタン対策に関して家康は、秀吉の方針を引き継いでいたが、貿易のうま味もあって宣教を黙認していた。しかし、予想外に信徒数が増大してしまったので、幕府はキリシタンの弾圧を始めた。そのため長崎では一六二二(元和八)年、五十五人の殉教者を出すに至った。これは「元和の大殉教」と言われるが、天草四郎が生まれたのはこの年であった。
 天草四郎こと益田四郎(一六二二~一六三八)は、キリシタン大名小西行長の遺臣・益田甚兵衛好次の長男として生まれた。甚兵衛は、行長の祐筆であったと言われるが、小西家没後は、肥後の宇土郡(現・熊本県宇土市)に帰農した。大矢野の庄屋だったという説もあるが、貧農ではなかったと思われる。しかし暮らし向きについては想像の域を出ない。
 益田家がキリシタンだったことは間違いない。甚兵衛の霊名(洗礼名)は不明だが(一説にはペトロ)、妻も信者でマルタと呼ばれていた。長女の福はレジイナ、長男の四郎はジェロニモ(ヒエロニムス)の名を霊名に受けた(フランシスコという説あり)。二女・万の霊名は不明。
 甚兵衛が息子四郎とともに、有馬(島原半島南部)から大矢野、上津浦(天草諸島)までの広範囲にわたる地域で宣教活動をしていたことは、細川家の『綿考輯録』に記録されている。

 さて、後に一揆の総大将となる天草四郎とはどのような人物だったのだろうか。四郎については彼が美少年だったというほかに、多くの俗説が流布していた。とくに出生にまつわる話には興味深いものが多い。『切支丹天草軍記』は、素姓を隠して潜伏していたバテレンと遊女との間に生まれた子だとし、『耶蘇天誅記』では、豊臣秀頼の遺児「秀綱」だという説が紹介されている。
 また、一揆に荷担しながら後に幕府側に寝返りただ一人生き残った山田右衛門作(やまだよもさく)の証言にも「さればかの四郎諸術を尽し、新たに奇特〔きどく=奇跡〕をなし、諸民に見するによりて、みな善心を翻へし、これこそ、でいうす(デウス)の生まれ変り、ただ世の常に非じとて、ことごとくその宗旨に心を染めおわんぬ」とある(『山田右衛門作以言語記』)。『耶蘇宗門制禁大全』にも同様の記述があるらしい。さらに、鳩を手招いて手のひらに乗せて卵を産ませ、それを割って中からキリシタンの経文を取りだしたとか、水の上を歩いたとかの奇跡物語が伝えられている。
 これらの話は、一揆の首謀者たちが、無学な農民をキリシタン信仰の下に一致団結させるために、四郎を天からの使い、神童として創作したものだったと思われる。事実、『宇土町平作十兵衛口上覚書』は、天草周辺の村々に「切支丹広め申し候は、(渡辺)小左衛門にて御座候、四郎をでいうすの再誕のように申し候も小左衛門仕り成し候様に取さた仕り候」と報告している。
 しかし四郎は、周囲の言いなりだったのではなく「浪人の援助と農民の団結で客観的には指導性を発揮した」(鶴田文史)ようだ。彼は九歳から長崎に出向いて学問をしており、そこにいた中国人の間に噂が広まるほど才知に長けた人物だった。父・甚兵衛も、各地に潜伏しているキリシタン集団(コンフラリヤ)の将来の指導者として、四郎を養成しようとしていたらしい。しかし、四郎は、充分に時が熟さないままに、擁立されることになる。

 天草四郎②

島原、天草地方は、元来キリシタン大名の有馬晴信、小西行長がそれぞれ支配した地域だった。『耶蘇天誅記』には、有馬家が領主だったころはキリシタンが栄え、五穀も豊饒であったと記されており、『天草嶋鏡』にも、行長が税を軽減したり、年貢を免除したことが記録されている。つまり、領民にとってキリシタンが栄えた時代は軽税の良い時代であった。
 しかし、キリシタン大名が没落し、天草・島原を、それぞれ松倉家と寺沢家が支配するようになると、彼らは農民のほとんどがキリシタンであることを知って棄教を迫り、激しい拷問を加えただけでなく、過酷な税を課した。他藩にも例がない囲炉銭、窓銭、戸口銭、死人に対する穴銭などの諸税を掛けたため、農民の生活は困窮した。
 年貢を納められない者は、徹底的に処罰された。とくに島原では、蓑を着せて火を付ける「蓑踊り」や、女性を裸にして水に漬ける「水籠」などの残忍な刑罰がなされたという。
 さらに、島原・天草地方では一六三四(寛永十一)年から凶作が始まり、飢饉となったことが苦しい農民の生活に拍車をかけた。この飢饉のために、ある村では一三六人もの犠牲者を出し、死体が道ばたに転がっている有様だった。
 一六三七(寛永十四)年六月、天草・島原の農民たちは借米訴訟を起こしたが、それさえも拒否されてしまい、精神面、物質面ともに追い込まれた彼らは、あとは武力蜂起するしかないところにまで追いつめられてしまった。

そんな中、天地異変ともいえる現象が起こり始めた。この月の初めの頃、全国的に空が赤くなるという異常気象があったことが『天草風土記』に記録されているが、ほかにも桜が狂い咲きしたり、大きな彗星が現れたりしたことが、農民たちを不安にさせた。
 農民の中には、近いうちに世の中が火の地獄となりデウスがキリシタンだけを救うためにやって来るという風説を信じる者も現れ、終末思想が次第に前面に現れるようになる。
 帰農していた小西行長の遺臣たちは、この期を巧みに利用し、予言書『末鏡』(すえかがみ)なる書を六月中旬ころから各地を巡回して言い広めていった。一揆の準備も同時に進めていたらしい。
 この『末鏡』は、一六一六(慶応一九)年、長崎からマカオに追放されたバテレン、マルコス・フェラロ(マルコス上人)が残していったものとされるものである。原本は残っていないが、『山田右衛門作以言語記』によれば、「向年より五々の暦数に及んで、日城に善童一人出生し、習わざる諸道を留め、通詞現前たるべし。さあらば、東西雲焼し、枯木に不時の花さかば、諸人の頭にくるす(十字架)を立て、海濠野山に白旗なびけ、でいうすを尊ぶ時至る可き也」という。
 「向年(禁教令の年)より五々の暦数」を意味する一六三七年は今年であり、実際に天地異変もあった。この「善童」こそ益田四郎に違いないと、彼らは農民に説いて廻ったのだろう。先に紹介した四郎に関する逸話も、この六月から十月にかけての短期間に流布したものだった。ただしこの時は、一揆の大将ではなく宗教上のカリスマ的存在として期待されていたに過ぎなかった。
 四郎は、十月七日に宮津で四郎大夫時貞と名乗り、そこに礼拝堂を設けた。九日には上津浦で民衆の前に現れ、説法を行った。
 「威厳を正し衣装を修め、天女の如く装ひて、建達(コンタツ)を左手に携さへ、上座に設けたるしとねの上に着座し」ていたという(『耶蘇天誅記』)。

 天草四郎③

「不憫や、ぜんちょ(異教徒)の輩、やがて三教敗転の期至り、耶蘇一宗の世となるとママコスが書残せし未来記の旨を疑い、いたずらに百年の生計をなして明日の滅亡を知らず」。
 それが四郎の第一声だった。そして彼が奇跡を行ったのでたちまち二百人が帰依したという。困窮から救い出してくれる救世主のうわさは瞬く間に広まっていった。そのため、五千人以上の棄教者がキリシタンに立ち返ったという。「神童」四郎は計画通り、民衆の心をしっかりとつかんでいった。
 一方、一揆の首謀者である小西の遺臣らは着々と準備を進めていったが、十月二十五日、有馬でのキリシタン集会を弾圧した代官林兵左衛門を返り討ちにしたことで計画が表面化した。一揆の首謀者らは、「審判の時が来たので、デウスの敵対者である代官や、異教の僧侶たちを討ち取ろう」と回状を各村の庄屋、名主らに送って武力蜂起を呼びかけた。
 それを受けて農民たちは団結し、島原の農民たちは島原城へ、天草の農民たちは富岡城へ攻め上った。はじめ一揆勢はともに優勢だったが、島原城も富岡城も簡単には落とすことができず、退却を余儀なくされた。
 双方とも組織的に戦うことが必要であると悟り、団結の象徴として四郎を総大将に迎えようと、大矢野にいた四郎に使いを出した。彼は申し出を受け入れ、村ごとに人口調査とキリシタンの誓詞をさせたという。

 四郎を総大将に戴いた一揆勢は、原城に立てこもるために終結。十二月十日までに籠城のための体制が整えられた。非戦闘員二万人を含む総勢三万人。城内には十字架が描かれた陣中旗がはためいていた。
 幕府もこの事態を重く見て一揆弾圧のために加勢をし、幕藩連合軍は十二万に及んだ。しかし、一日目の攻撃に失敗、元旦に第二回の攻撃を仕掛けたが、総大将の板倉重昌は無惨にも討死。後を引き継いだ松平信綱は兵糧攻めに作戦を変更した。
 一揆側の戦いの指揮は、小西の遺臣らが当たっており、四郎は本丸に作られた祈祷所にこもり、祈りにふけっていたという。原城内では次第に食糧が底をついてきたことに加え、天の使いであるはずの四郎に砲弾がかすめるという事件が起こるにいたって、不安がみなぎるようになっていった。
 幕藩軍は、食糧がなくなったことを確認すると、二月二十七日に総攻撃に出て、翌日には原城を攻め落とした。非戦闘員を含め一揆に参加した全員が殺されるという壮絶な結末だった。
 四郎は傷ついていたところを討ち取られたらしい。上等な着物を着た若者がいたので首を取ったところ、四郎のものと判明した。四郎と母と姉の首は長崎の出島にさらされたという。
 天草・島原の乱の結果、幕府はキリシタン禁制を強化し鎖国を完成させたが、一方で領主の苛政を認め、これを処罰した。

 この乱は、信教の自由を求めての宗教戦争だったとは言えないだろう。キリスト教は重税に耐えかねた農民たちを団結させる役割を果たしたにすぎなかった。
 しかし、城内の一揆軍から幕府軍へ放たれた矢文の中に「天地同根万物一体、一切の衆生貴賤を選ばず」(『耶蘇天誅記』)という一文があるが、ここにある、すべてのものが平等だという思想は、彼らが戦いの中にあっても福音の真理に支えられていたことを裏付けていると言えるのではないだろうか。士農工商の身分制度が確立される時期にあって、特筆すべきものといえるだろう。その後、天草四郎は圧政に苦しむ農民たちの心の中に英雄として生き続けた。

                 


 進む聖書の翻訳①  ヘボン


 ヘボン式ローマ字の考案者であるヘボンは、一八一五(文化一二)年、米国ペンシルベニア州に生まれた。ヘボンとはヘップバーンが訛った呼び方で、本名はジェームズ・カーチス・ヘップバーンといった。
 彼はプリンストン大学を出た後、ペンジルベニア大学で医学を専攻し、医学博士の学位を取得する。卒業後、米国長老教会の海外伝道医として働く道を選んだ。その選択には、学友たちの影響があったらしい。
 中国伝道を志した彼は、一八四一年、身重の妻クララとともにアメリカを離れる。約三カ月に及ぶ船旅は厳しく、妻が初子を流産してしまうという困難の中、彼らはシンガポールに上陸し、中国が開国されるのを待った。しかし、伝道地のマカオ、アモイでは、気候や水質上の問題、マラリヤなどに悩まされ、結局一八四五年、ヘボン夫妻は大きな犠牲を払いながらも、失意のうちに帰国することになった。その後、ニューヨークで開業医として大きな成功を収め、十三年間、彼は安定した生活を送っていた。

 一八五九(安政六)年、日本の鎖国が解かれると、それを知った彼は病院と家を売り払い、一人息子を残して、日本へ向かった。当時四十四歳。横浜に到着後、神奈川の成仏寺に居を定めた。半月後来日した宣教師S・R・ブラウン(一八一○~八○年)もこの寺にともに住むようになった。
 当時日本には病院がなかったため、ヘボンは宗興寺で医療活動を始める。天然痘、結核、眼病などの患者が大勢彼を訪れた。彼は診察費を取らずに献身的に働き、人々からの大きな信頼を得た。
 一方で彼は「ヘボン塾」を主宰し、英語や地理、歴史を教えた。禁教下だったが、授業の前に必ず聖書を読み、祈祷した。塾の出身者には、後の外務大臣・林薫、日本初の医学博士三宅茂、総理大臣となった高橋是清などがいる。日本の男女共学の初めであった同塾は、明治学院大学の源泉である。後にヘボン夫人が作った女子クラスは、キダー塾を経てフェリス女子学院へと発展。ヘボン塾は近代日本教育の基礎を作ったと言える。

 『和英語林集成』の編纂もヘボンの功績のひとつである。彼は、新しく聞いた言葉を記録していくという地道な作業を七年間も続け、収録数二万語の和英辞典を作り上げた。
 辞書を完成させると、ヘボンは聖書の翻訳に本腰を入れるようになる。来日時にギュツラフ訳を持って来たほど日本語訳に関心があり、一八六一(文九元)年ごろからマルコ福音書の翻訳を始めている。これは漢訳版からの翻訳だったらしい。
 ヘボンは米国聖書協会あての手紙で、禁教下での聖書印刷の困難に言及し、「生命の危険がある」仕事だと書き送っている。しかし、まったく動ぜずに、熱心に翻訳に取り組んだ。
 彼は、聖書の翻訳は個人ではなく共同で行うべきだと考え、S・R・ブラウンとともに作業を進めた。訳稿が焼失するなどの困難を経て、一八七二(明治五)年、『新約聖書馬可伝』、『新約聖書約翰伝』、翌年に『新約聖書馬太伝』を出版。キリスト教の発展に寄与した。

 ヘボン夫妻は、聖書の翻訳が一段落ついたこと、教育事業が軌道に乗ったこと、後継者が育ったことなどを理由に、一八九二(明治二五)年に帰国の途に着いた。
 日本政府は、ヘボンの功績を称えて、一九〇五(明治三八)年、勲三等旭日章を贈った。ヘボンの九十歳の誕生日だった。そして、一九一一(明治四四)年九月二十一日、奇しくも明治学院大学のヘボン館が焼失したその日、彼も九六年の人生を終えた。

            



 

 進む聖書の日本語訳②  奥野昌綱・井深梶之助


 ヘボンやS・R・ブラウンは、聖書翻訳は共同作業で行うことが望ましいという意見を持っていた。そこで一八七二(明治五)年九月、第一回宣教師会議がヘボン宅で開かれ、新約聖書の共同訳が計画された。まず、各宣教団体から委員を選び、長老教会からヘボン、改革派教会からS・R・ブラウン、組合教会からD・C・グリーンが参加。二年後、メソジスト教会、バプテスト教会、聖公会の宣教師が加わり、正式に「翻訳委員社中」が発足した。ここに、“協力者”として奥野昌綱、高橋五郎らの日本人が加わったことは記念すべき出来事だった。

 奥野昌綱(一八二三~一九一〇)は、旗本の子として江戸に生まれた。幼いころから仏学などを修め、秀才の誉れの高い青年だった。輪王子宮に仕え、主家再興を計っていた彼は、明治維新の混乱の中で、彰義隊に参加。戦いに破れ流浪の身となったが一八七一(明治四)年、ヘボンの日本語教師となる。聖書研究会にも参加したが、あくまでも邪宗・キリスト教の真相を知り、その撲滅を目指していたらしい。
 ヘボンは、奥野をブラウンに紹介し、福音書の訳文の推敲に当たらせた。『日本の聖書』(海老沢有道、講談社)には、「漢訳聖書に訓点をほどこすうち、昌綱は求道心に燃え立ち、バラの説教に感激、陰七月一日にブラウンから受洗。その国漢の才能をもって聖書和訳および讃美歌に多大の貢献をした」とある。彼が翻訳に参加したのは自然の成り行きだった。一八七七(明治十)年には、日本基督一致教会の最初の教師となり、麹町教会の牧師として活躍した。

 日本人の翻訳者としては、口語体の『馬可伝俗話』を出版した井深梶之助(一八五四~一九四〇)の存在も忘れられない。井深は会津藩士の家に生まれた。維新の時には旧体制側につき、鶴ケ城に籠城するが敗退。一八七○(明治三)年、十七歳のとき東京に遊学し、翌年、横浜修文館でブラウンと出会う。二年後、ブラウンから受洗し、「ブラウン塾」の開塾にかかわった。東京一致神学校が築地に開校されると入学し牧師となる。後に明治学院大神学部長を務め、ヘボンに代わり第二代総長となった。

 井深は、翻訳委員会の“協力者”ではなかったが、ブラウン塾の生徒だったので、翻訳作業に加わることもあった。ブラウン担当の使徒行伝を手伝ったという。彼は「翻訳委員は、日曜日・土曜日の外は、毎日午前九時から十二時まで会合して、委員の一人が先に起草した所の翻訳に就て、評論採択した。ある時は半日かかって一節、二節を決定したことも、稀ではなかった」(『植村正久と其の時代・第四巻』教文館)と、当時の様子を伝えている。

 次第に“日本語の聖書は日本人の手で翻訳を”という機運が高まり、一八八三(明治十六)年、日本人も“協力者”ではなく翻訳委員として正規に参加することになる。彼もそのメンバーの一人となったが、資金不足のため、三年後に解散。しかしながら、日本人の聖書に対する意識もわずかの間にそこまで高まっていたことは注目に値する。その背景には前述のブラウン塾があった。英語を教えていた同塾は、一八七五(明治八)年、神学者アメルマンを迎えるに当たって、さながら神学校の様子を呈していたという。ここの出身者には奥野や井深をはじめ、植村正久、押川方義、本田庸一、熊野雄七、山本秀煌、安川亨などがいる。彼らは横浜バンドと呼ばれ、後の日本基督教会の発展に寄与した。その流れは現在も受け継がれている。

            


 哲学的信仰  中村正直

 中村正直(敬宇)は、一八三二(天保三)年、日蓮宗の家に生を受けた。父武兵衛は、貧しいながらも教育に力を注ぎ、その結果、正直は十五歳で幕府の昌平坂学問所に入学、佐藤一斎から漢学、書法を学んだ。同門には、勝海舟や榎本武揚などがいた。数え年三十一歳の若さで学問所の御儒者(教授)となったが、向学心にあふれた正直は、尊皇攘夷の嵐が吹き荒れる中、密かに桂川甫周から蘭学を、箕作奎吾から英語を学んだ。そのため、幕府が一八六六(慶応二)年、十二人の青年をイギリスに留学させる際には、自ら志願して「遣英留学生取締」として同行する。

 正直はイギリスで勉学に励みながら、イギリス人の日常生活を観察した。しかし彼は、初めて見る異文化の外観に目を向けたのではなく、「深く其の文明の因て来る原動力の何辺に在るやを察し」(『自叙千字文・中村正直伝』大空社)ようとした。そしてイギリス人が道徳的に優れていることの原因がキリスト教信仰にあると考えるようになった。正直はキリスト教に深く関心を寄せるようになり、すすんでその教えを学んでいたという。
 しかし、明治元年に幕府が倒れたため資金が途絶えてしまい、帰国することになる。帰りの船中で正直は、S・スマイルズの“セルフヘルプ”を暗記するほど精読していたらしい。


 帰国後は、静岡で私塾「同人社」を作り、英語と国際情勢を教えた。そのかたわら“セルフヘルプ”を翻訳し、一八七一(明治四)年、『西国立志編』と題して出版した。“立志編を読まない者は共に語る資格はない”と言われたほど、知識人の間でもてはやされた。正直は、その収益を小石川に移転した同人社の運営費に当て、高給で外国人教師を雇ったり、施設を整備したりした。彼自身もイギリス人英語教師からキリスト教を学んでいた。
 また、一八七二(明治五)年には、自分を西洋人に擬して『擬泰西人上書』を著し、天皇にキリスト教の布教を助けることを進言しただけでなく、天皇自身にも洗礼を受けることを勧めた。これは当時の情勢を考えると驚くべき行為だったと言えるだろう。
 正直自身も、一八七四(明治七)年、カナダ人のメソジスト教会の宣教師コクランから授洗した。翌年には、アメリカの長老派宣教師W・マーティンが書いた漢語のキリスト教入門書『天道溯原』に訓点を付けて出版。当時の知識人は漢語が読めたので、ベストセラーになったという。

 しかし、正直自身は、キリスト教をさらに深く探求するという道を選んだのではなく、法華経を梵語原典と英訳と対照しながら研究したり、イスラム教の『クルアーン』に関心を抱いたりと、その好奇心は多岐に渡った。友人の重野安繹は「敬宇先生学問に多情なり」と彼を評している。
 儒学者であった正直は、儒教的な「天」とキリスト教の神概念を比較し、キリスト教の神こそ「真神」であるという認識に至ったのであった。つまり、主知主義的な立場からスコラ哲学的な分析によって唯一神の存在を語っているのであり、神学的思索を深めたわけではない。三位一体論については「余は未だ此(三一論)に達せざる。今日余が学識上の立場にては」と語り、キリストの復活も信じていなかった。
 このように彼の信仰はあくまでも哲学的信仰であり、日本人の内的生命を哲学的に救おうと試みたものだった。それは明治期の知識人にとっては魅力的なアプローチだったに違いない。参考文献:渡部清「明治期の哲学的信仰」) 

               


 キリスト教主義大学の祖  新島 襄

 同志社の創設者である新島襄は、一八四三(天保十四)年、安中藩の祐筆だった新島民治の長男として生まれた。新島の幼年時代には、すでに幕藩体制は末期的症状を示しており、世相は混乱していた。
 ペリーの来航によって米国に注目が集まる中で、彼は英学に関心を持つようになる。米国社会の実状を知るにつれ、民主主義、大統領制などに強く関心を抱くようになった。同じころ、漢訳聖書にもふれた。ある手紙の中で、彼は次のように書いている。
 「私は中国にいるアメリカ人宣教師が書いた聖書の歴史の中国語訳にたまたま出くわしました。その神についての意味深長な見方が私に神をさらに詳しく調べさせることになりました」

 外国に魅かれるようになった新島は密航を企てた。当時、密航は反体制の危険な行為であったためか、まず函館に向かった。ここで新島はギリシア正教のニコライに出会い、一カ月ほど彼の家に住み込んでいた。そして、ついに念願が叶い、ベルリン号で米国に向かうことになる。
 一年後の一八六五(慶応元)年、新島はボストンに着き、船主であるハーディー夫妻の家族の一員として迎えられることになった。彼が書いた「密航理由書」に夫妻がひどく感動したためだったといわれる。同年、二十二歳でフィリップス・アカデミーに入学し、翌年には洗礼を受けた。このころに新島はピューリタン的なキリスト教の影響を強く受けたと思われる。ピューリタンの持つある種の厳格さは、武士であった新島の気質に合っていたのかもしれない。

 一八六七(慶応三)年、アーモスト大学に進み、三年後にはアンドーヴァー神学校に入学、カルバン主義系の神学を学んだ。この間、訪米してきた木戸孝允、森有正、内村鑑三らと出会っている。
 卒業後は、アメリカン・ボードの宣教師補として帰国することになるが、ある集会で新島は講壇から「帰国後は、同胞のためにキリスト教主義大学を設立したい。その基金を得るまではここから降りない」と語り、感動した聴衆からあっという間に五千ドルが集まったという。後に新島は「あのときの五千ドルは同志社の核であった」と回想している。


 帰国してからは中央政府の仕官の誘いを断り、キリスト教主義学校の設立に全力を注ぐようになる。しかし五千ドルの使い道について、「宣教師養成学校」を設立すべきだという宣教師からの反対意見と闘わなければならなかった。新島はそれを否定してはいなかったが、日本のために今一番必要なのは水準の高い一般教養を教える大学の存在だと考えていた。一方、政府には未だキリシタンへの偏見が根強く、学校設立には困難が伴った。しかし、木戸孝允、京都府顧問山本覚馬らの協力によって、一八七五(明治八)年、同志社英語学校を発足させることとなった。しかし、聖書を教えることは禁じられ、新島の描いていたキリスト教主義学校の姿には遠かったが、熊本バンドの学生が多数入学してくることによって同校の質も上がっていった。

 その後も新島は、伝道と大学設立資金調達のため、東奔西走していた。一八八八(明治二十二)年には「同志社大学設立の旨意」を新聞を通して全国に公表。自由民権運動の板垣退助や中江兆民らの支援も受けた。休む間もなく、病身の身にむち打って募金活動のために働いたが、ついに一八九〇(明治二十三)年、保養先の大磯の旅館で四十六歳の短い生涯を閉じた。遺言の中で同志社のために語られた十箇条の精神は、今も同校の支柱となっている。