上から来られるキリスト
ヨハネによる福音書 3章 31節 ― 36節
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聖 書
31 「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。32 この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。33 その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。34 神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。35 御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。36 御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」
はじめに
本日のお話は、先週に引き続き、イエス様と洗礼ヨハネの関係についてです。前回お話しましたように、1世紀の時代には、イエス様と洗礼ヨハネの関係について、大きな誤解の危険性がありました。イエス様よりも、洗礼ヨハネの方が偉大な人物であると考える風潮が、ある人々にありました。しかし、それでは、救いと祝福と永遠の生命は得られません。そのままでは、最後には、洗礼ヨハネが救い主であるかのように主張されることになるでしょう。実際に、洗礼ヨハネを持ち上げる風潮は、その後も、ある人びとの間で続き、3世紀中頃には、洗礼ヨハネを約束の救い主と信じる異端の集団もあったほどです。
ヨハネによる福音書の著者の、イエス様の12弟子の1人であるヨハネは、約束の救い主は、イエス様御自身であること、洗礼ヨハネは、イエス様が、神の子にして救い主であることを証言する者にすぎないことを、はっきり教え、人々が信じるべきお方は、イエス様であることを、多くの分量を使って、詳しく教えようとしたのですが、本日の箇所は、イエス様と洗礼ヨハネの根本的な違いを最後的に教えるところです。わたしたちも、永遠の生命のために信じて、従うべきお方は、イエス様ただおひとりであることを、十分に確信したいと思います。
1. イエス様と洗礼ヨハネは出所が全く違います
イエス様と洗礼ヨハネは、出所が全く違います。31節がそうですが、わたしたちは、今日のところを見ていくと、すぐに、疑問が出るかもしれません。31節から36節のところは、一体だれが語っているのかと思うでしょう。その前とのつながりで、洗礼ヨハネが、続けて、語っているのか、それとも、イエス様御自身が語っているのか、それとも、ヨハネによる福音書の著者である12弟子の1人であるヨハネが語っているのかと思うのです。感じとしては、ヨハネによる福音書の著者のヨハネが解説的に語っているようにも思われますが、決めるのはなかなか難しいようです。わたしたちとしましては、決めるのが難しいということがわかっていればよいでしょう。
イエス様と洗礼ヨハネは、出所が全く違うという点に行きますが、具体的に言えば、イエス様は、「上から来られる方」です。すなわち、天からやって来た神の子です。ですから、地上にやってきても、「すべてのものの上におられる」、すなわち、万物を支配しておられる偉大な神の子です。他方、洗礼ヨハネは、本来、地上から出た者で、地上に所属し、地上に所属する者として、地上のことを語る者にすぎません。
逆の言い方をすれば、洗礼ヨハネは、本来、天上的な、霊的な救いの真理を語ることが全くできません。天上的なことを語る資格もないし、能力もありません。確かすばらしい救いの真理のある部分を1世紀のイスラエルの人々に語りましたが、それは、あくまでも、神からの啓示によって教えられたことを語ったにすぎないのです。自分の生まれつきのままの自力で、天上的な、霊的な、すばらしい救いの真理を、語ったのではありません。天にいたこともない、地上のことしか知らない洗礼ヨハネに、天上的な、霊的な、素晴らしい救いの真理を自力で語る力などまったくでありません。
「地から出るものは地に属し、地に属する者として語る」とありますが、この表現で何を言おうとしているかと言いますと、洗礼ヨハネは、本来、地上的存在であるので、地上のことしか語れないという意味です。すなわち、人間の救いに関するすばらしい真理は、神のご計画によることなので、本来、天上的なものであり、霊的なものです。それゆえ、地上的存在にすぎない洗礼ヨハネは、天上的な、霊的な、神による救いのすばらしい真理を全く知ることができないし、語ることができないという意味です。
しかし、聖書は、イエス様が、洗礼ヨハネとまったく違うことを、もう一度、強調しています。「天から来られる方は、すべてのものの上におられる」がそうです。31節の始めに「上から来られる方」とあり、次に「天から来られる方」と少し表現を変えましたが、意味は同じです。イエス様の出所は、天、天上であることを、強調しています。また、「すべてのものの上におられる」という表現は、万物を支配しておられることを表します。
こうして、イエス様と洗礼ヨハネは、出所、出身が全く違うのです。イエス様は、天から来られた神の子であり、洗礼ヨハネは、地上的存在にすぎないものです。それゆえ、天から来られた神の子であるイエス・キリストを信じるキリスト教は、絶対的真理で、安心して信頼することができます。
洗礼ヨハネだけでなく、人間は、どの人も、本来、地上的存在であって、天上における、神のご計画による人間の救いについてのすばらしい真理など何も知らないのです。ですから、この世の思想家・宗教家・道徳家が、人類の救済者と称して、人間の救いについて自説を語っても、それによって救われることはないのです。日本のキリスト教は、明治以来、140年ほどの歴史を持っていますが、もちろん、これで終わりではありません。終わりでは困るでしょう。日本のキリスト教は、これまでの140年の歩みを貴重な土台にし、生き方のわからなくなっている21世紀の今の日本に、神の子イエス・キリストを信じて、喜びで満たされる真の生き方があることを積極的に提示していく希望に満ちた大きな使命があるでしょう。
2. イエス様は救いについての真理を真実に語ることができました
イエス様は、天におられたゆえに、また、聖霊を限りなく与えられていたゆえに、救いについてのすばらしい真理を真実に、自由に、いくらでも語ることができました。32節から34節がそうです。イエス様は、もともと、天上で、父なる神と、永遠から、この上なく親しい豊かな愛の交わりをしていましたので、天の父なる神のご計画による天上的で、霊的な、人間の救いについてもすばらしい真理を何でもご存じです。それゆえ、地上に来られ、人々に、自由に、確実に、いくらでも真実に証し、証言し、話すことができます。
32節に、「この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが」とあります。この表現は、人間的な表現で、天の父なる神と神の子イエス様の、この上なく、深い、密接な、親しい、豊かな永遠の愛の交わりの中で、父なる神のご計画による人間のすばらしい救いの真理を、イエス様が何でもかんでも全部知っておられるのですから、地上で、人々に、自由に、確実に、真実に、いくらでも話すことができるということを教えています。「見たこと、聞いたこと」とありますが、これは人間的な表現です。地上で、私たち人間同士が、目で見ること、耳で聞くことを話すのと同じように、神の子のイエス様も、天上で父なる神を目で見ているかのように、また、父なる神が声を出して話すのを耳で聞いているかのように、神の子のイエス様は、父なる神のご計画したことは何でも知っておられることを言おうとしています。
しかし、1世紀のイスラエルにおいて、宗教の指導者の律法学者やファリサイ派をはじめ多くの人々は、神の子のイエス様が、父なる神のご計画による人間の救いについてのすばらしい、天上的な、霊的な真理を真実にいくら証言しても、受け入れようとしませんでした。そこで、32節で「だれもその証しを受け入れない」と、とても強い表現で表しています。
でも、受け入れる人が、もちろん、全くいなかったわけではありません。これまでにもお話しましたように、アンデレ、ペトロ、フィリポ、ナタナエル、ヨハネによる福音書の著者の12弟子の1人のヨハネその他が、イエス様の証しを信仰もって受け入れました。では、イエス様の語る救いの真理を受け入れるとどういうことが起こるのでしょう。イエス様の語る救いの真理を受け入れた人は、自分が救われたことを知り、神が救いに対して真実であることを十分認め、確認し、心から賛美するのです。
こうして、イエス様は、もともと、天上で、父なる神と共に永遠からこの上なく親しい交わりをしているので、父なる神のご計画による人間の救いについて何でも知っておられ、いくらでも真実に語ることができるのです。それとともに、神から遣わされて、地上に来られた神の子のイエス様は、救い主の働きをするのに、神から聖霊を無限に与えられていたので、父なる神のご計画による人間の救いについて、いくらでも真実に語ることができたのです。
34節に「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が″霊〟を限りなくお与えになるからである」とあります。霊というのは、聖霊、神の霊、御霊のことです。神の子のイエス様は、もともと、天上で父なる神と永遠からこの上なく親しい交わりをしていましたが、救い主として、この世に遣わされてやって来ました。そこで、神は、イエス様が救い主としての働きをするため、イエス様に聖霊を限りなく豊かに与えましたので、イエス様は、父なる神のご計画による人間の救いについての、天上的な、霊的な、すばらしい真理を、いくらでも真実に語ることができたのです。
もちろん、洗礼ヨハネも、神から、聖霊を与えられたからこそ、救いについてのある部分を語ることができたのですが、洗礼ヨハネの場合には、聖霊が無限に豊かに与えられていたわけではありません。限られていました。しかし、約束の救い主メシア御自身であるイエス様には、聖霊は無限に豊かに惜しみなく与えられたのです。ルカによる福音書4章14節でも、「イエスは、″霊〟の力に満ちてガリラヤに帰られた」と聖霊の力に満ち溢れて救いのみわざを開始したすばらしい姿を描いています。
以上のようにして、イエス様は、洗礼ヨハネと違って、神の言葉、具体的には、神のご計画による人間の救いについての素晴らしい、天上的な、霊的な真理をいくらでも自由に真実に語ることができたのです。わたしたちは、また、疑問を覚えるかもしれません。1世紀のイスラエルにおいては、神の子にして救い主のイエス様がおられ、人々に救いの真理を語ったので、多くはなくても、救われる人々がいたけれども、今日はどうなるのかと思うのです。イエス様は、もはや地上におりません。十字架の死と復活を経て、天にお帰りになりました。では、救いの真理はだれが語るのでしょう。
教会が語るのです。教会が、イエス様の御言葉を記した聖書を説教や奨励のかたちで語るのです。教会が、説教や奨励のかたちで、聖書の救いの真理を語ることは、実は、権威と効果においては、イエス様が救いの真理を語ることと同じなのです。もちろん、具体的には、教会においては、牧師や宣教師やその他の方々が、説教や奨励をするわけですが、権威は、イエス様が語っているのと同じです。
そして、効果、効力、効き目も同じなのです。教会で説教や奨励を聞いて、救いが起こるでしょう。また、信仰が強められるでしょう。喜び、励まし、慰め、平安、忍耐、勇気、決断、希望、知恵など、そのときに必要なものが必ず豊かに与えられるでしょう。それはなぜでしょう。それは、イエス様においてと同じように、現在も、教会の説教や奨励には、聖霊が限りなく、無限に豊かに、本当に働いているからです。
このことは、ヨハネによる福音書そのものもが教えていることなのです。32節から34節を見ますと、わざわざ、現在形で書いてあります。32節は「この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが」とあります。なぜ、「証しされるが」と現在形になっているのでしょう。それは、神の子にして救い主のイエス様は、現在も、教会の説教や奨励を通して、証しされているからです。しかし、現在でも、多くの人は受け入れないので、「だれもその証しを受け入れない」と、これまた現在形で書かれています。
でも、まったく受け入れないのでなく、受け入れる人もいます。そこで、33節、「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる」と、現在形で書かれています。これも、現在生じるからです。神が真実であることは、クリスチャンによって、現在、十分に確認されています。
34節は、「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が″霊〟を限りなくお与えになるからである」と、現在形で書かれています。このことも、現在の教会の説教や奨励に、聖霊が限りなく豊かに与えられていることを教えているのです。教会の説教や奨励は、権威と効果において、イエス様御自身が語っていることと同じなのです。ですから、人は救われ、信仰は強められるのです。
神の子にして救い主のイエス様は、1世紀のイスラエルにおいて、人々に、神の言葉を語りましたが、現在も、神の子にして救い主のイエス様は、21世紀の日本において、聖書にもとづく説教や奨励を通し、人々に、神の言葉を語り続けているのです。ですから、すばらしい救いが本当に起こり、信仰がその都度強められ豊かにされるのです。
どの人も必要とするすばらしい救いは、神の言葉を聞くことによってしか生じませんが、神の言葉は、現在、教会の説教や奨励で、いくらでも自由に聞くことができますので、救いはいくらでも生じます。わたしたちは、ひとりでも多くの人が、救いのため、神の言葉を聞くことができるように、これからも、祈り、誘い、工夫し、努力したいと思います。
3.イエス様を信じる者はすばらしい永遠の生命に今生かされます
イエス様を信じる者は、この世で、日々、すばらしい永遠の生命に生かされます。1世紀のイスラエルの人々は、永遠の生命をどのように考えていたでしょう。すると、約束のメシアが出現したときに、メシアによって最後の審判が行われ、メシアを信じた人は、永遠の生命が与えられ、神とともに永遠に生きていく。しかし、メシアを信じない人は、最後の審判で、神の怒りによって、裁かれ、滅ぼされると考えていました。
このようにしまして、イスラエルの民は、永遠の生命は、救い主メシアによる最後の審判が行われてから、与えられるものと考えていました。しかし、救い主メシアのイエス様が出現したときには、まだ最後の審判が行われないのに、信じる者には、永遠の生命が恵みとして惜しみなく与えられ、今、この世で、永遠の生命によって、日々生かされ、喜んで生きていけるという、大きな祝福が始まったのです。これは、本当に、驚くべき大きな祝福でした。
35節と36節がそうです。天の父なる神は、神の子イエス様を愛し、信頼し、救いに関することをすべて、イエス様に委ね、任せておられますが、永遠の生命についてもそうです。イエス様は、御自分を神の子にして救い主と信ずる人には、世の終わりの最後の審判の後で、将来、永遠の生命を与えるのではなく、信じたときに、今、直ちに、恵みとして与え、信じた人が、この世で、永遠の生命に日々喜んで生きていくようにしてくださるのです。これは、驚くべき大きな祝福です。
36節で「御子を信じる人は永遠の命を得ているが」とありまして、「永遠の命を得ている」と現在形でわざわざ言われていることが、驚くべきことなのです。ここのすばらしさは何かと言いますと、「御子を信じる人は永遠の命を将来得るでしょう」と、永遠の生命に生かされることが、最後の審判が行われてから、将来のこととして語られているのではなく、イエス様を信じたそのときから、もう既に始まっていることとして表明されていることにあります。これは、のイスラエルの人々にとって、本当に驚くべき画期的な教えであったでしょう。手に入るのは将来と思っていたものが、予想に反し、今、即刻、自分のものになって、自分を益するものになるということは、どの人にとってもうれしいことでしょう。わたしも、そういうものがいくつかありました。その1つは、パソコンです。
あるときから、若い牧師の間に、まず、ワープロが使われ始めました。50代の牧師で、ワープロができないのは、わたしだけになってしまいました。わたしは、あるとき、一大決心をし、ワープロを始めることにしました。3日間必死で練習しました。すると、ワープロが打てるようになり、とても喜びました。ところが、ワープロを数年間にやっている間に、世はいつの間にか、パソコン時代になりました。わたしは、パソコンを入手しようと考えました。しかし、パソコンは、高いのですね。すぐには入手できません。パソコンが入手できるのは、何年先になるかと思いました。それから、何度も電気屋さんに行って、買おうと決めていたパソコンを見に行きました。早く、このパソコン欲しいなあと見ていましたが、予想よりも早くパソコンを買うことができました。今でも覚えていますが、書斎にパソコンが入ったとき、わたしは、うれしくてうれしくて、子供のように跳び上がらんばかりでした。将来は自分のものになるであろうと思われるよいものが、早く、入手できて役に立つことは、大きな喜びです。パソコンがそうなら、永遠の生命はなおさらそうでしょう。永遠の生命が与えられるのは、将来、世の終わりの最後の審判の後と思っていたのに、イエス様を信じたその日から恵みとして与えられ、この世にありながら、日々永遠の生命に喜び生かされることができるということは、なんという大きな驚くべき祝福でしょう。本当にありがたいことです。心から感謝できます。
結び
以上のようにして、本日のところを見ます。今日のわたしたちも、一人ひとりが、天から来られた偉大な神の御子イエス様を、自分のただ1人の救い主と信じ、永遠の生命によって、日々喜んで生きていきたいと思います。聖霊なる神が、永遠の生命によって生きることのすばらしさと計り知れない価値を、ますます、悟らせてくださるように祈りたいと思います。また、永遠の生命によって、日々喜んで生きる生き方を、聖霊なる神の力により、人々に伝えたいと思います。