仏教徒の方々の質問にお答えして

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神は宇宙の創造主である。


  仏教徒や、仏教系新興宗教の方々との対話の中で、クリスチャンによく投げかけられる疑問や質問に、次のようなものがあります。
 これらの疑問や質問に、一つ一つ答えていきましょう。


神はどこから来たのか

 聖書にはこう書かれています。
 「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰する」(ロマ11:36)
 聖書によれば、万物は神から出たのであって、万物の根源は神です。
 神は、万物の創造主であって、私たち人間のような被造物(ひぞうぶつ)(造られたもの)ではありません。
 何かによって造られた者でも、何かによって存在させられている者でもありません。
 神はまた、人間のように空間の中に動く、特定の形や大きさを持った存在者ではありません。
 神は"すべて"であり、無限のおかたです。"神の外側"というものはありません。聖書に、
 「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である」(黙示21:6)(アルファ、オメガとは、それぞれギリシャ語アルファベットの最初と最後の文字)
 と記されています。神は最初であり、最後であり、すべてです。神は、いわゆる「第一原因(一番最初の原因)であり、最終目的です。神はどこから来たわけでもありません。
 神は、みずから存在しておられるのです。神は自存のおかたです。
 聖書の中で、神はこうも言われています。
 「わたしは、有(あ)って在(あ)る者」――I AM THAT I AM. (出エ3:14)
 これはなんと力強い言葉でしょうか。
 私たち人間は、いわば"有って無い者"です。人の生涯はふつう70~80年、長くても120年程度です。それ以外の時は、世に存在していません。人間はいわば"有って無い者"です。
 しかし神は、「有って在る者」です。神は永遠から永遠まで存在し、何によっても造られたり、生まれたりすることのない、真の実在者なのです。


神はどこで宇宙を造ったのか。宇宙の内側で造ったのか、それとも外側でか

 私たちは宇宙の「内側」とか「外側」ということをつい考えてしまいますが、宇宙論を研究している科学者が言っているように、宇宙の外側に何かの空間があるわけではありません。
 さらに、神は空間に束縛されるかたではありません。イエス・キリストが言われたように、
 「神は霊です」 (ヨハ4:24)
 神は、私たち人間のように空間に束縛されたりはしません。空間も、時間も、物質も超越したかたなのです。
 その神が、物質世界を無から創造されました。そしていま物質世界は、神の内に、抱かれるようにして存在しているのです。聖書にこう書かれています。
 「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」 (使徒17:28)


神はなぜ信じる人々だけを救うのか。

 救いはある意味で、結婚のようなものなのです。
 男性が女性に求婚しても、女性がウンと言わないかぎり、結婚はできないでしょう。
 救いも同じです。救いは、神との愛と生命の交わりの中に入れられることです。神との愛と生命の「交わり」の中に入れられることが、私たちの救いなのです。
 ですから、「交わり」がなされるためには、双方で、自由意思による合意がなされねばなりません。
 神は、至高の権威を持っておられるかたです。しかしこの「交わり」のために、神は権威を人間の上にふりかざしたりすることは、なさいません。
 神は人の心を強制することはせず、自由な意思を尊重されるのです。
 神のほうでは、結婚したい、人と交わりを持ちたいと願っておられます。ところが人が、神と交わるのはイヤだ、と言っていてはいつまでも結婚できません。救いに入れないのです。
 人の側で、
 「私は、神様と愛と生命の交わりを持ちたい。神様を心に受け入れます。神様を信じます。神様に、お従いします」
 という"信仰告白"が、なされなければならなりません。こうした信仰がない限り、人が神との交わりに入って神の永遠の生命を受けることは、不可能です。
 この信仰は、人自身の自由意思によらなければなりません。その自由意思の中には、神さえも踏みこめないのです。
 クリスチャンが伝道をするのは、まだクリスチャンになっていない人々に神の愛を伝え、そうした人々も神を愛し、信じるようになってもらいたいからです。
 花婿の求婚にこたえる花嫁のように、神の愛に私たちが応じない限り、私たちは神との交わりに入ることはできません。

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人は、神を信じ、神を愛することによって、
神との交わりに入り、救いを得る。



信じない人は、なぜ地獄に行くのか。

 聖書には、
 「人は種を蒔(ま)けば、その刈り取りもしなければならない」(ガラ6:7)
 と書かれています。人はだれでも、必ず自分のなした行為に対する報いを受けなければなりません。
 「自分の肉 (悪い性質をさす) のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊(みたま) (神をさす) のために働く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取る」 (同6:8)
 と聖書に書かれています。罪悪を行なえば、地獄における滅びを刈り取らなければなりません。これは因果の法則です。まさに善因善果、悪因悪果です。
 ですから、いわゆる「地獄の苦しみ」の、もともとの原因は、自分が生前に行なった罪や悪にあります。生前の罪や悪が、地獄において炎のように人を苦しめるのです。
 神が人を苦しめるというより、その苦しみは自分の行為がもたらしたものなのです。裁きというものは、決して神が一方的にお与えになるものではありません。むしろ人が自分に招くものなのです。

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人は(行為の)種をまけば、その(報いという)
     刈り取りもしなければならない      創元社『聖書物語』より



神が愛であるというのに、なぜ地獄というような苦しみの場所があるのか。

 キリスト教の神は、愛の神です。とはいえ、義の神でもあられます。
 神はしばしば、「親」にたとえられます。しかし、単に「親」というだけでは、神の本当のお姿をよくたとえていません。
 親ならば、愛情におぼれ、子どもを甘やかすこともあるでしょう。しかし神は単なる「親」ではなく、「裁判官」でもあられるのです。
 正しい裁判官でもある神は、人の罪に対しては、いつかは罰を下さなければなりません。
 たとえば、ここにひとりの立派な裁判官がいたとしましょう。彼は法廷で、ある犯罪人に、法にのっとって刑を言い渡します。
 しかし、刑を言い渡すからといって、その裁判官が冷酷な人物であると言えるでしょうか。そうは言えないでしょう。むしろ正義を守る人物は、たいてい深い人間愛をも持っているものです。
 神は義なるかたであって、正しいかたです。神は人の罪を、最終的には罰しなければなりません。そうでなければ、神はもはや「義」ではありません。
 もし警察官が、人の犯罪を見ていながら、犯罪人をつかまえようとしないならば、彼はもはや正しい警察官ではありません。同様に神が人の罪を見ていながら、人を罰しようとしないなら、神はもはや正しいかたではありません。
 神は「義」であるゆえに、人に罰を下さなければならないのです。しかし人の罪を罰するとしても、神が冷酷なかたであるとは言えません。聖書に、
 「主(神)は、あわれみ深く、情け深い。怒るにおそく、恵み豊かである」(詩篇103:8)
 と記されています。神は愛であり、慈悲であり、また「怒るにおそい」かたです。
 神は「怒るにおそい」とはいえ、もし人間がいつまでも背き続け、罪の道から離れないならば、いつかは怒りを下さなければなりません。それが神の義です。
 神が義である以上、刑罰と、その場所である地獄は存在しなければならないのです。


キリスト教では愛を説きながら、なぜ中世の十字軍に見られるような残虐な行為ができたのか。

 中世のヨーロッパの暗黒時代は、人々によく知られています。この時代のローマ教皇の座は、一部の腐敗した人々の手に握られていました。
 教皇の座をも含め、あらゆる聖職が、金で売買され、賄賂(わいろ)や、売淫(ばいいん)、殺戮(さつりく)など、あらゆる悪が横行していました。
 キリストの敵が、公然と教皇の座を獲得し、人々を惑わしていたのです。
 この時代はまさに、恥辱の時代です。これほど反キリスト教的な事柄が行なわれた時代は、ほかにはないでしょう。
 人々は、中世のヨーロッパの多くの国々は「キリスト教国」であった、と思っています。
 ところが、これらの国々の99%の人々は、聖書を自分で読むことすらありませんでした。一般の民衆は、文字が読めなかった上、聖書も手に入らず、ただ上から教えられたことだけを受け入れていました。
 しかもこの時代は、聖職売買が横行し、腐敗した人間が聖職を奪い、権力をふるっていました。
 悪の巣窟と化してしまったこの時代のローマ・カトリック教会の歴史は、現在もすべてのクリスチャンにとって、大きな悲しみです。
 しかし中世の腐敗した時代は、決して聖書の教えの"結果"ではありません。それはすべて、聖書の教えに反するものとして起こったのです。
 残念なことに多くの人々は、キリスト教を攻撃しようとすると、必ずこの中世の暗黒時代を持ち出します。しかし、暗黒時代は持ち出すのに、キリスト教徒がこれまでなしてきた多くの功績には全くふれないのは、一体なぜでしょうか。
 たとえば、あのマザー・テレサのなしている事業、またアフリカの黒人に尽くしたシュヴァイツァー、赤十字をつくったアンリ・デュナン、家なし子たちのために一生を捧げたジョージ・ミュラー、貧しい人々に尽くした賀川豊彦などの功績にふれないのは、なぜでしょうか。
 かつての国際連盟も、今の国際連合も、女性の地位向上運動、労働者の地位向上運動、刑務所改良運動や、病院、孤児院の設立、ホスピス(末期治療)なども、多くはキリスト教徒の手によって推進されてきました。
 キリスト教徒は、慈善、福祉、医療、教育、産業、科学、芸術、その他多くの分野で目ざましい活動をしてきました。
 こうしたものこそ、聖書の教えの反映なのです。もしキリスト教を知ろうという気があるのなら、こうしたものも見てほしいものです。


キリスト教が真理であるというなら、なぜ多くの教派に分かれているのか。

 キリスト教はたしかに、多くの教派に分かれています。しかし世間で誤解されているほど、教派間で争っているわけではありません。
 キリスト教会が教派に分かれているのは、ちょうど国が分かれているのに似ています。
 世界には多くの国があります。なかには仲の悪い国もありますが、今日多くの国々は、互いに国交を結び、大体仲良くやっています。
 国がなぜ分かれているのかというと、それは国によって国家体制が違うのが、一つの原因です。世界各国は、それぞれの国家体制の中で、繁栄を追求しているわけです。
 同様にキリスト教会の各教派も、それぞれの教会政治をもって、福音宣教に励んでいます。
 たとえばある教派は、教会政治の形態として、監督制をとっています。教団の長は監督と呼ばれ、その人の強いリーダーシップのもとに教団が運営されているのです。
 ある教派はまた、長老制をとっています。教団の中に、選ばれた何人かの長老と呼ばれるリーダーがいて、それらの人の合議で教団が運営されていくのです。
 また会衆制といって、信徒の多数決によって教団が運営されているところもあります。このように教会政治の違いが、教派の違いを形成している一要因となっています。
 そのほか、ある教派は伝道に力を入れ、ある教派は海外宣教に力を入れ、ある教派は慈善事業に力を入れるというように、教派によって特色を打ち出しているところもあります。
 しかし大部分の教派間には、伝道者同士、また信徒同士の交流があります。超教派の集会も、各地で盛んに行なわれています。
 キリスト教会はみな、聖書を信奉しています。ですから細かい所で多少解釈の相違があったとしても、根本的なところでは、ほぼ一致しているのです。
 仏教の場合ですと、念仏宗のかたは、自宗の信奉する経典により「極楽浄土はある」と言い、一方、日蓮宗のかたは、やはり自宗の信奉する経典により「極楽浄土は架空のたとえ話にすぎない」と言います。
 しかしキリスト教では、ある教派が天国を信じ、ある教派は天国を信じない、ということはありません。根本教理では一致しているのです。
 それはキリスト教では、どの教派も、(異端でない限り)ただ一冊の書物『聖書』を信奉しているからです。教派によって別の経典を信奉する、ということはありません。
 プロテスタントも、カトリックも、ロシア正教も、いずれも聖書を信じています。
 メソジストも、長老派も、アッセンブリーも、ペンテコステも、バプテストも、アライアンスも、ナザレンも、日本キリスト教団も、またそのほかどの教派も、同じ聖書を土台としているのです。
 キリスト教では、どの教派に属しているかよりも、聖書にどれだけ精通し、聖書をどれだけ実践しているかが、尊ばれます。聖書を実践している人は、どの教派に属していても、尊ばれるのです。

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聖書を実践している人は、
どの教派に属していても、尊ばれる。

 

日本のキリスト教の町・長崎に、なぜ真先に原爆が落とされたのか(創価学会・『折伏(しゃくぶく)教典』より)

 原爆は、1945年8月6日に広島、8月9日に長崎に落とされました。長崎が最初ではなく、広島が最初でした。ですから、もし、
 "なぜキリスト教の町・長崎に原爆が落とされたのか"
 というご質問に私たちがお答えすべきなら、それとともに、
 "なぜ仏教国である日本が、最初の被爆(ひばく)国となったのか"
 という問題も、検討しなければならないことになるでしょう。しかしこうした問題は本来、「キリスト教の町だから・・」とか「仏教国だから・・」というものではありません。
 じつは、広島に落とされた原爆と、そのわずか3日後に長崎に落とされた原爆とは、違った型のものでした。広島原爆がウラン型原爆だったのに対し、長崎原爆はプルトニウム型原爆でした。
 アメリカはどうも、これら異なる種類の原爆を、両方試したかったようです。そうだとすれば、これは明らかに当時のアメリカの驕(おご)りであり、行き過ぎだったと言わざるを得ません。
 戦争を開始したほうの行為も、戦争を終結させたほうの行為も、しょせん人間のしわざであり、正義とはかけ離れたものだったと言えるのではないでしょうか。
 では、なぜクリスチャンの多い長崎の町にも、原爆が落とされたのでしょうか。
 長崎は"天罰"を受けたのでしょうか。そうではありません。長崎は、日本の歴史のために尊い役割を果たしたのです。
 長崎には、数多くの敬虔なクリスチャンたちが住んでいました。約1万人いたクリスチャン信徒のうち、8500人以上が原爆によって死にました。
 しかし長崎の原爆の後、日本は一挙に終戦へと動きだしました。つまり彼らの死は、日本に終戦の決断を迫るための"犠牲の死"となったのです。
 原爆で妻を失い、自らも原爆症に悩みながら死に至るまで原爆症患者の治療に努めた長崎のクリスチャン医師・永井隆(ながいたかし)は、こう述べました。
 「われわれの家族、最も心根が美しく、正しい生活をしていた多くの人々が死し、またご聖体の中にましますキリスト御自(おんみずか)ら焼かれたもうた。このような美しい犠牲をよみされて、神は戦争の終結を許したもうた。・・
 いま神の御手(みて)にいだかれたあなたがた(原爆で世を去り天国に入ったクリスチャンたち)こそ幸福です」。

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映画「この子を残して」の1シーン。
加藤剛が永井隆役をつとめている。
後ろに見えるのが長崎・浦上天主堂。

 いま天国にいるクリスチャンたちは、自分たちが日本の戦争終結のために犠牲となれたことを、神に感謝しているに違いありません。
 いずれにしても、二度とあのような悲惨なことが起こらないよう、祈るものです。


信じる者しか救われないというのに、迷える者を救う義務があると言っているのは、矛盾ではないか(同じく『折伏教典』より)

 聖書にはこう記されています。
 「神は、すべての人が救われて、真理を知るのを望んでおられます。・・キリストはすべての人の贖(あがな)いの代価として、ご自身をお与えになりました」(Ⅱテモ2:4-6)
 キリストの十字架の贖い(救い)は、「すべての人」のためでした。神はこの真理を、「すべての人」が知るようにと望んでおられます。
 しかしこの救いを「知る」には、まず人がそれを「聞かなければ」なりません。私たちは聞いたことのないものを、信じることはできません。
 「聞いたことのないかたを、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。・・
 信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについての御言葉によるのです」(ロマ10:14-17)
 と聖書にも記されています。クリスチャンが伝道するのは、このためです。
 人が救われるかどうかは、伝道以前に確定しているものではありません。伝道してその人が信じた時、初めて確定するものです。
 神は誰が信じるかを予知しておられると思われますが、人の自由意志を強制なさることはありません。救いは、本人の決断によって確立するものです。ですからクリスチャンは、伝道しなければなりません。
 「『キリスト・イエスは、罪人(つみびと)を救うためにこの世に来られた』という言葉は、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです」 Ⅰテモ1:15)
 この救い主キリストを、クリスチャンは宣べ伝えようとします。
 神は、一人として滅びることを願ってはおられません。クリスチャンも、滅びに向かっている隣人を神の救いに導くために、決して無関心ではおれません。
 信じる者が救われるという聖書の教えと、クリスチャンの伝道とは、互いに矛盾(むじゅん)するものではありません。むしろ、クリスチャンが伝道することによって、聖書の教えが全うされるわけです。


旧約聖書の中に見られる神の裁きの厳しさを思うと、神は愛だとは到底思えないが・・。

 キリスト教の「神」はどういうかたかを、よく理解していただきたい、と思います。キリスト教の「神」は、仏教の「仏」概念(がいねん)とは違った面を持っているのです。
 キリスト教の神は、しばしば「親」にたとえられますが、「親」というだけでは、神をとらえることはできません。人間の親なら、愛情におぼれて、子どもを甘やかすこともあるでしょう。
 しかし神は、私たちの親であると共に、裁判官です。愛であると共に、義なるかたです。
 たとえばここに、一人の立派な裁判官がいたとしましょう。彼は、ある犯罪人に法にのっとって刑を言い渡します。
 しかし刑を言い渡すからといって、その裁判官が冷酷な人物であると言えるでしょうか。正義を守るからといって、その人物が冷酷であるとは言えないでしょう。
 むしろ正義を本当に守る人物は、たいてい深い人間愛をも持っているものです。
 神もそうです。神がときに厳しく罪を罰せられるからといって、冷酷なおかたであるとはいえません。私たち人間の基準で見て、「厳しすぎる」と思っても、それは私たちの罪認識が浅すぎるからなのです。
 旧約聖書には、神が人々の罪を罰せられた場面が、よく出てきます。とくに、イスラエル民族に対してはそうでした。
 イスラエル民族とは、メシヤ(救い主)を全世界のために来たらせるパイプ役として、神が創始し、育成された民族です。ですから、彼らの罪に対しては、他民族以上に厳しくのぞまれたのです。
 しかし結局、それによって、メシヤによって与えられる「罪の赦(ゆる)し」というものがどんなものかを、人々が理解する下地ができました。もし神の裁きというものがなかったら、私たちは「罪からの救い」ということも理解できなかったでしょう。
 旧約聖書には、人々の罪に対する神の厳しい裁きが、多く記されています。しかし旧約聖書をよく読んでみると、人々に対する神の深い慈しみも、同様に多く記されていることがわかります。
 たとえば『ヨナ書』などを見ると、神がアッシリア帝国の罪をご覧になって、その首都ニネベを滅ぼそうとされた、という話が出てきます。しかし預言者ヨナを遣わすと、ニネベの人は、悔い改めて、その罪の生活を捨てました。
 すると神は、ニネベへの裁きを思い直され、審判をなさいませんでした。そのとき預言者ヨナは、
 "なぜ思い直したりなさったのですか"
 と神につめよりました。神は彼にこう言われました。
 「わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない12万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか」 (ヨナ4:11)
 神は厳しい裁きをなさる反面、悔い改める人々には深い憐(あわ)れみを示されることが、この記事によってもわかります。神の義と愛は、決して矛盾するものではないのです。

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ニネベの人々に神の審判を説くヨナ。

 また聖書には、次のような記事も載っています。イスラエル民族が神の力によってエジプトの奴隷生活なから解放された後、荒野(あらの)で40年にわたって流浪(るろう)生活を行ったときき、指導者モーセはイスラエルの民に向かってこう言うことがでました。
 「あなたがたは荒野で、あなたの神、主が、人のその子を抱くように、あなたを抱かれるのを見た。・・・あなたの神、主がこの40年の間、あなたと共におられたので、あなたには何も乏しいことがなかった」(申命1:31,2:7)
 神は「人のその子を抱くように」、民を育(はぐく)まれました。神はイスラエルに対して、ときに厳しく臨むこともありましたが、全体的には深い慈しみを示されたのです。
 別の箇所では、神は罪を犯した背信のイスラエルに関して、こう言われています。
 「わたしのはらわたは、彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにいられない」 (エレ31:20)
 神は人々を愛しておられるがゆえに、罪を見れば、「はらわた痛む」悲しみをおぼえられます。神はこのように、義であると共に愛であり、愛であると共に義です。
 愛と義は、ときに神のみこころの中で、対立し合うこともあるでしょう。それが、こうした「はらわた痛む」神の痛みとなってあらわれるのです。
 本当の神は、こうした神に違いありません。単に慈悲だけの存在者や、単に厳格なだけの存在者は、本当の神とは言えません。愛と義が一つになっておられる神こそ、実在の神と言えるでしょう。


日蓮は竜の口で命におよぶ難に勝たれたが、キリストの死は、悲惨な横死だったではないか(創価学会『折伏教典』より)

 「横死(おうし)」とは、殺害や災禍による"不慮(ふりょ)の死"をさす言葉でしょう。しかしキリストの死は、決して"不慮の死"ではありませんでした。
 聖書によるとキリストは、十字架の死を遂(と)げられるずっと以前から、ご自分がそのような死に方をされることを、あらかじめ弟子たちに予告しておられました。聖書にこう記されています。
 「イエスは12弟子を呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。『さあ、これから私たちはエルサレムに向かって行きます。人の子(イエスご自身のこと)は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。
 彼らは人の子を死刑に定め、そして異邦人 (ローマ兵)に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし人の子は、3日後によみがえります」(マコ10:32-34)
 このようにキリストは、ご自分の死に方を、弟子たちに予告しておられました。
 しかも、ご自分の死がたいへん苦しいものとなることを知りながら、自ら進んでそれに向かって行かれたのです。つまりキリストの死は、決して"不慮の死"ではありませんでした。
 キリストは十字架刑という恐ろしい死に方を、避(さ)けようと思えば避けることができました。
 もし十字架刑がいやなら、エルサレムに行かなければよかったのです。行きたくなければ、行く必要は全くありませんでした。
 祭司長や律法学者たちが、キリストを逮捕しにやって来たときも、彼は逃げようと思えば逃げることができました。

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ゲッセマネの園で祈る主イエス。
   主は、ご自分が十字架の死を遂げることを知りながら、

みずからそれに向かって行かれた。

 

 しかし、決して逃げたりはなさいませんでした。弟子のペテロがキリストを逮捕させまいと、自分の持ってきた剣(つるぎ)を抜いたときも、キリストはこう言われました。
 「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、私が父 (神) にお願いして、12軍団 (1軍団は約6千人)よりも多くの御使いを、今私の配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。
 だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある(旧約聖書が、どうして実現されましょう」(マタ26:52-54)
 キリストは、旧約聖書の予言の言葉の成就のために、みずから十字架への道を歩んで行かれたのです。旧約聖書にはこう記されていました。
 「私たちはみな羊のようにさまよい、おのおの自分かってな道に向かって行った。しかし主 (神)は、私たちすべての咎(とが)を彼(キリスト) に負わせた」 (イザ53:6)
 また、こう記されていました。
 「彼 (キリスト) は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎(とが)のために砕かれた。彼への懲(こ)らしめが、私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」 (イザ53:5)
 このように、罪のない清いキリストが、私たち罪(つみびと)の身代わりとなって十字架にかかり、私たち人間の罪に対する罰を一身に受けられました。それが十字架の死です。
 このような死を、どうして「横死(おうし)」と呼ぶことができましょう。 この身代わりの受難をされた神の御子キリストへの信仰によって、私たちは救われる、というのが聖書の教えです。
 キリストの死は「悲惨な横死」であるどころか、最も高貴な死であったのです。


キリストは十字架上で最後に、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と言い、神を恨んだではないか。

 多くの人々は、「わが神、わが神、どうして・・」の御言葉を、キリストの十字架上の最後の言葉だと思っていますが、これは一番最後の言葉ではありません。
 「父よ、わが霊を御手にゆだねます」 (ルカ23:46)が最後の言葉です。キリストは、神への深い信頼に立って死に就かれたのです。
 さて、
 「キリストは十字架上で神を恨(うら)んだではないか」
 とのご質問ですが、キリストは神を恨んだのではありません。「わが神、わが神、どうして・・」の御言葉には、じつは以下のような深い意味が込められています。
 聖書の福音書には、キリストが十字架上で言われた言葉が、7つ記されています。「わが神、わが神・・」は、十字架上の第4番目の言葉です。
 この第4番目から第7番目の言葉は、いずれも、旧約聖書中の預言詩(詩篇)からの引用です。「わが神、わが神、どうして・・」の御言葉も、やはり旧約聖書の言葉なのです。
 それは旧約聖書・詩篇22篇の冒頭の句そのままです。 キリストがこの句を十字架上で叫ばれたことには、次の2つの意味が込められています。
 1つは、キリストはこの言葉を叫ぶことによって、旧約聖書・詩篇22篇という預言詩に記された「神の救い」が、いまや成就しようとしていることを、示そうとされたのです。
 詩篇22篇をまだお読みになったことがなければ、ぜひ読んでいただきたいのですが、これは明らかに、キリストの十字架刑に関する「預言詩」です。
 そこには激しい苦難のしもべを通して現される神の救いが、みごとに歌いあげられています。
 キリストは、この預言詩にあらわされた神の救いが、ご自分の十字架によって成就しようとしていることを、示されたのです。
 もう1つは、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という苦難の御言葉にこそ、キリストの"身代わりの受(じゅなん)難"の事実があらわされている、ということです。
 苦しみがあまりに大きいとき、人は「どうして・・」と、叫ばざるを得ないものです。たとえば愛する者に先立たれた人は、激しく泣きながら、遺体の前で、
 「どうして、死んでしまったんだーっ」
 と、叫ばないでしょうか。
 「どうして」――たとえ理由がわかっていたとしても、苦しみや悲しみがあまりに大きいとき、人は「どうして・・」と叫ばざるを得ないのです。
 詩篇22篇の1節にこう書かれています。
 「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。遠く離れて、私をお救いにならないのですか・・」。
 キリストは、旧約聖書のこの御言葉の前半を引用し、十字架上で叫ばれたわけです。
 この御言葉は、キリストの御苦しみをよくあらわしています。キリストが「どうして」と叫ばれたのは、この句にあるように、神が「遠く離れ」られたからでした。
 キリストは、聖書によれば"神と一体"のおかたです。神の最も身近におられたかたです。神とつねに共におられたのです。そのかたが十字架において、神からの"無限の遠き"に追いやられました。 
 その悲しみ、苦しみが一体どんなものか、人間には到底理解できないでしょう。キリストは私たちの罪を負い、十字架において神から捨てられたのです。
 キリストは私たちの身代わりに、捨てられました。しかしそれは、キリストご自身にとって、耐えがたい苦しみとなったのです。
 このことは、一般の殉教者の死と、キリストの死とを比べてみれば、よくわかります。
 クリスチャンの殉教者はみな、その死の際、天国の栄光をかいま見ながら、嬉々として死に就きました。殉教者にとって死は、神のみもと近くに行くことだったからです。
 しかしキリストの死は、一般の殉教者の場合とは違っていました。キリストは神からの無限の遠きに、追いやられたのです。その苦しみが、いわば苦しみのままでほとばしり出たのが、
 「わが神、わが神、どうして・・」
 という御言葉です。生木が裂かれるような、キリストのこの身代わりの苦しみによって、私たちは救われたのです。聖書は言っています。
 「キリストは、自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは私たちが罪を離れ、義に生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです」(Ⅰペテ2:24)

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十字架前夜の「最後の晩餐」。

        主イエスはご自分の死を目前にして、
ご自分の肉の象徴としてパンを、
ご自分の血の象徴としてブドウ酒を弟子たちに配られた。