「幸せな人生の知恵」

 

箴言 1章1節、7節  16章9
        19章21節   31章10節―31節

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はじめに 

 本日
は、旧約聖書に親しむという趣旨で、旧約聖書からのお話しです。前回は、旧約聖書の詩編から、お話をしましたそれで、今回は、箴言についてお話しをしたいと思います。箴言の特色がよくわかるかたちでお話したいと願っています。

 4点に絞ってお話します。第1点は、箴言は、信仰のことわざで、ソロモンをはじめとする知恵のある人々によって作られたという点です。第2点け、箴言の主題は、人を生かす真の知恵である、主を畏れ敬いながら人生を歩んでいくことを教えているという点です。第3点は、箴言の具体的な教えは人生全体に広く及ぶという点です。第4点は、女性も、主を恐れ敬いながら人生を歩んでいくことが、求められているという点です。箴言から、これらのことを学んで、21世紀の目本の社会に生きるわたしたちも、主を畏れ敬うという人を生かす真の知恵を持って、契約の主に豊かに祝福されるよい生涯を歩んでいきたいと思います。できるだけ簡潔にお話ができればと願っています。

 

1.箴言は、信仰のことわざ、格言です

早速、第1点に入ります。第1点け、箴言は、何であるかといえば、信仰のことわざ、格言です。また、だれによって作られたのかといえば、ソロモンをはじめとする知恵のある人々によって作られたのです。まず、タイトルに「箴言」とありますが、箴言とはどういう意味でしょう。

 蔵言は、ヘブル語では、マーシャルと言いまして、ことわざとか、格言という意味です。もともとは、「~に似ている」、「~に類似している」、「~に比較できる」という意味です。すなわち、ことわざは、何々は何々に似ているとか、何々は何々に類似しているとか、何々は何々に比較できるなどという言い方で教えるので、「~に似ている」、「~に類似している」、「~に比較できる」という言葉が、ことわざ、格言という意味になりました。ですから、もともと、この書物の名前は、ことわざ、あるいは、格言という意味です。英語で言わせていただければ、プロバーブとなります。

 では、この書物は、日本語に翻訳されるとき、どうして、「ことわざ」、あるいは「格言」というふうにならなかったのでしょう。「箴言」という言葉はもともと漢字でどういう意味でしょう。箴言の「言」は、もちろん、言葉という意味です。では、箴言の「箴」とはどのような意味でしょう。あるとき、仲間の牧師から、こんなことを聞きました。箴言の箴という字は、お灸のときの針、針灸の針という意味である。肩が凝ったとき、針を打って、血の流れをよくして体調を整える。そこから、人の心を刺して、その人の生き方を整えるもの、それが流言であると、ある本に出ていたと教えてくれました。

 そこで、わたしは、これはいいことを聞いたと思い、帰ってきて、早速、自分で漢和辞典を引いてみました。確かにその通りでした。もともと、「箴」という漢字は、細いという意味で、そこから細い針を表し、さらに、針を刺して病をいやすことを表す。そこから、人の心を刺して、生き方をいやすものとして、「箴」という漢字は、戒めという意味を持つようになった。そこで、「箴」という言葉は、戒めの言葉という意味を持つようになったと書いてありました。

 ですから、もともとのヘブル語には、針のように刺すという意味はありませんけれども、しかし、日本語に翻訳するときには、針のように心を刺して、信仰生活を整える戒め、あるいは、ことわざという意味で、「箴言」と訳されたようです。わたしたちも、箴言を学んで、信仰が凝っているところに、箴言の教えを針のように刺し、信仰の血の流れをよくして、信仰生活を整えたいと思います。 

  では、箴言が、信仰のことわざ、格言であることがわかりましたけれども、これはだれがどういうふうに教えたのでしょうか。すると、旧約時代の神の民イスラエルにおける青少年の信仰教育の大切な手段でした。父親や年長者や宗教の教師が、「わが子よ」と呼びかけ、子供たち、若者たちに、ことわざで、信仰による賢い生き方を知恵として繰り返しいろいろな機会に教えたものです。

 青少年、若者、子供は、まだ若くて人生のことがよくわかりません。それゆえ、しばしば、いろいろなことで失敗し、道を踏み外す可能性があります。そこで、信仰による賢い生き方を知恵として、円熟した年配者からが若い人々に、談言、すなわち、ことわざ、格言として教えたのです。 しかし、もちろん、若者や子供に限らず、大人も学んで、益を受けるものです。

 こういうふうに見てきますと、今の目本にも、とても、必要なものと思います。今の日本は、大人も子供も生き方がわからない時代です。生き方がわからないのは大人だけではありませんで、若者も子供もそうです。若い人々や子供が大事な人生の道を踏みはずさないために、まさに若い人々や子供の教育用のためにある、信仰のことわざである箴言に耳を傾ければ、必ず大きな祝福を受けます。

 では、だれによって作られたのでしょう。すると、1章1節で「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの談言」と言われておりますように、ソロモンによって作られたものが多いのです。ソロモンとはどんな人でしょう。ソロモンは、キリストよりも、9百敷十年前のイスラエルの王でした。あの有名なダビデ王の息子でした。ソロモンは、知恵の豊かな王として知られていました。その知恵により、当時の多くの難問を解決しました。そこで、アラビア半島の南部にあったであろうシバという国の女王まで、ソロモンの知恵を聞くためにアラビア砂漠をはるばる旅をしてやってきたほどでした。そして、列王上5章12節で、ソロモンは、3千の箴言を語ったと言われています。その中から、後の時代に、あるものが選択され、箴言とされ、聖書に掲載されました。箴言には、ソロモン作の箴言が374個出てきます。すなわち、3千作ったといわれるソロモンの箴言の内、約8分の1が、聖書に掲載されて残ったということになります。

 それで、確かに、ソロモンの箴言が多いのですが、しかし、ソロモン以外の人の箴言も載っています。では、いつこの談言が作られたのかと言いますと、ソロモンの死後、数百年かかって、現在の形になったようです。旧約時代において神の民の次の時代を担うイスラエルの若い人たち、子供たちは、まだ若くて人生のことがよくわかりません。それゆえ、しばしば、いろいろなことで失敗し、道を踏み外す可能性があります。そこで、人を生かす真の知恵を教える必要性を痛感した人々が、ソロモンおよび他の人々の知恵の言葉を折りを持って、熱心に集め、選択し、編集し、教育用として組み立てた素晴らしいものです。わたしたちも、折りを持って接したいと思います。

 

2.箴言の主題は、人を生かす真の知恵である、主を畏れ敬うことを教えることです

第2点に入ります。第2点は、箴言の主題は、人を生かす真の知恵である、主を畏れ敬いながら人生を歩んでいくことを教えるという点です。1章7節を見ましょう。「主を畏れることは知恵の初め」。この7節こそ、箴言全体の中心主題です。箴言は、人が真の幸せな人生を歩むための、いろいろな知恵や知識を敬えていますが、しかし、あらゆる知恵と知識の中で、第一の知恵、第一の知識は、契約によって核いと祝福を確実に約束してくださっている神を恐れ敬いながら日々の歩みをしていくことで、1章7節こそ、蔵言全体の主題です。

 7節の「主」というのは、契約によって枚いと祝福を確実に約束してくださっている神を表します。アメリカの長老派のモートン・スミス先生の本を読みますと、細かなことまで言えば、旧約聖書における神の呼び名は、22あると言ってあげていますが、ずいぶんたくさんあるものです。しかし、旧約聖書における神の主な呼び方は2つです。それは神と主です。

 神は、ヘブル語で、エロヒームと言いますが、意味は、万物を無から創造した偉大な力ある神を特に表します。それに対し、主という呼び方は、ヘブル語 でヤハウエと言いますが、特に、契約の神を表します。契約によって、ご自分を信ずる者たちに、核いと祝福を確実に約束し、与えてくださる神をあらわします。一言でいえば、主というのは契約の神を表します。

 それで、この7節も「主を恐れることは知恵の初め」とありまして、「神」ではなく「主」という言葉をとっていますので、契約の神を表します。すなわち、旧約時代において、世界に民族は、無数にいたのに、その中から、契約によって、イスラエルの民だけをご自分の民として、救いと祝福を確実に約束してくださったことを表します。ですから、イスラエルの民は、契約によって、核いと主祝福を確実に約束されているのですから、イスラエルの民の一人一人がすべきことは、契約によって核いと祝福を確実に約束してくださっている主なる神を、畏れ敬いながら歩んでいくことです。これが、イスラエルの民一人一人が、はじめに身につけるべき根源的知恵、いの一番にわきまえるべき基本 的教えです。

 そして、「畏れる」とありますが、「畏れる」というのは、畏れ敬うという意味です。箸にも棒にもかからない惨めな罪人にすぎない者であるにもかかわらず、契約によって、枚いと祝福を惜しみなく与えてくがさる契約の神を、畏れ敬いながら、人生の歩みをしていくことを意味しています。

 そして、「知恵の初め」とありますが、「知恵」でもよいし、「知識」と訳してもよいのです。これまでの目語約聖書は、「主を恐れることは知識の初めである」となっていました。また、新改訳聖書も、「主を恐れることは知識の初めである」となっていますが、「知識」と訳しても十分よいのです。むしろ、 「知識」と訳した方がよいように思われます。

 それで、知恵でも知識でもよいのですが、蔵言において知恵と知識という言葉は、繰り返し数多く出てきます。わたしが数えたところでは、知恵という言葉は106回ほど、知識という言葉は38回ほど出てきます。意味は、知恵は、真に幸せな人生を歩むための賢さ、賢明さ、利口さ、賢い教えという意味です。知識の方は、真に幸せな人生を歩むために知るべき教え、知るべき知識という意味です。

 では、「知恵の初め」の「初め」とはどういう意味でしょう。「初め」というのは、もともと、頭という意味です。人間の頭、人間のかしらを意味します。そこから、人間の頭は、人間の一番高いところにありますので、頂点とかとトップという意味を持ちます。さらに、頭は、ひとりの人間全体に命令を与えて勤かす重要部分なので、第士のもの、すなわち、「初め」、あるいは、「最初と」いう意味を持ちます。

 実は、この「初め」という言葉は、旧約聖書、創世記1章1節の「初めに神は天地を創造された」の「初め」と同じ言葉です。神が、初めにしたことは、すべてのものの創造でした。すべてのものを創造しないことには、それ以後何も始まらないのです。そういう意味では、この「初め」というのは、いろいろなことの第のことになります。また、これがなければ、その後のすべてが始まらないという意味では、この「初め」というのは、それ以後のことがすべてこの上に乗る土台あるいは基礎という意味を持ちます。

 そこで、また、箴言に戻りますが、「主を恐れることは知恵の初め」というのは、契約によって枚いと祝福を確実に約束してくださっている契約の主を、一人一人が畏れ敬って生きることこそ、すべての知恵の中で第一の知恵、他のすべての知恵がそのうえで成り立つ土台となる知恵という素晴らしい意味になります。契約の主を畏れ敬いながら生きていくという知恵、あるいは、知識こそ、他のすべての知恵と他のすべての知識を成り立たせる土台の知恵なのです。

 今日の日本に、まさにぴったり当てはまると思います。若い人たち、また、子供たちは小さいときから、知識の習得に励みます。 しかし、あらゆる知識の中で第一となる知識となる「主を恐れること」の知識を知りません。他のあらゆる知識を成り立たせる土台となる「主を恐れること」の知識を知りません。そして、これこそ2士世紀の教会とクリスチャンの使命になります。 日本の子供たち、日本の若者に、知識の中の知識、あらゆる知識の冠、知識の王である、主を恐れ敬いながら生きるという知識を伝えたいと思います。これまでもそうでしたが、これからも、みんなで、青年伝道と子供伝道のために祈り、考え、実践していきましょう。

 

3.箴言の具体的な教えは人生全体に広く及びます

第3点に入ります。第3点け、箴言の具体的な教えは人生全体に広く及ぶという点です。箴言を読んでいきますと、「主を恐れることは知恵の初め」という教えを土台としていろいろなことが教えられております。具体的にどんな教えでしょう。順不同で思い出すままに列挙してみましょう。神に逆らうなという教えがたくさんあります。言葉で失敗しないように、よい言葉を語るようにという教えも多く出てきます。新約聖書のヤコブの手紙につながる教えです。おごり高ぶらず、へりくだれという教えも何回も出てきます。貧しい人々や弱い人々を軽んじるな、顧みなさいという教えもよく出てきます。悪事や不法をするな、善事、善いことをなせという教えもよく出てきます。富に信頼するのでなく、神に信頼せよという言い方もよく出てきます。

老人に対する敬いも出てきます。敬老のときに読む御言葉「白髪は老人の尊厳」という御言葉も出てきます。遊女のところに行くなということで、性の正しい使い方を教えています。イスラエルを治める王についての心構えを教える部分も多く出てきます。女性の品性についての教えも出てきます。そのほかにもまだいろいろありますが、人生について広く教えています。

 それで、今、それらすべてを取り上げてお話しすることはできませんので、箴言といえば、この御言葉があったと思い出すひとつの印象深い御言葉についてお話します。それは、19章21節です。読みます。旧約聖書の1016頁です。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」がそうです。では、この教えは何かと言いますと、信者には、契約の主のご計圃によって、将来の祝福も確実に約束されているので、平安な思いを持って人生の歩みを喜んでしていくようにとの教えです。主が、信者に対し、将来何もしてくがさらないかのように、不安な思いを持って歩む必要はないという意味です。これまでも契約に基づいて、真実に枚いと祝福を豊かに与えてくださった主は、将来も必ず契約に基づいて枚いと祝福を豊かに与えてくがさると信頼し、平安な思いを持って喜んで日々の歩みをしなさいという素晴らしい意味です。

 「人の心には多くの計らいがある」とありますが、「計らい」というのは、もともと、考え、目的、意図、企てという意味です。すなわち、人は、自分の将来のことを心配し、案じて、あれこれ考えるものです。そして、いろいろな計画を立てたりするものです。 しかし、将来のことを何もわからない人間が、自分勝手に考えたこと、計画したこと、意図したことが、その通りに実現するとは限りません。

 しかし、自分の将来に、神が何もしてくれないかのように、心配する必要はないのです。なぜなら、主は、契約に基づく、信者一人ひとりに対する御旨、すなわち、確実な計画を持っておられ、これからも、信者を必ず救いの中に置き、豊かに祝福してくがさるからです。それゆえ、信者は、主が、自分の将来に対して何もしてくれないかのように、嘆いたり、不安になったり、落ち込んだりする必要はないのです。むしろ、信者は、自分に対する契約の主の御旨、すなわち、確実な計画のゆえに、安心し、平安な心で将来に向かって歩めるのです。

「主の御旨のみが実現する」とありますが、「御旨」というのは、もともと、計画、目的という意味です。すなわち、わたしたち信者一人ひとりに対する神の計画、神の目的を表します。神は、わたしたち信者一人ひとりに対して、御旨、すなわち、計画、目的を持っていてくださいます。これは確実なものです。

 それでここで素晴らしいのは何かというと、「人の心には多くの計らいがある」とありまして、人は、将来のことを案じ、心配して、将来こうしよう、ああしようと心に多くの計画を立てると言われておりまして、多くと言われています。ヘブル語も、もちろん複数形になっています。ところが、それに対し、信者一人ひとりに対する主の御旨は、ひとつと言われていることです。「主の御旨のみが実現する」とありますが、「主の御旨」というのは単数形ですのでひとつを表します。

 すなわち人は、将来のことを心配し、案じ、不安に思い、心の中で、将来ああしよう、こうしようと多くのことを考え、意図し、計画し、企てますが、神はどうするかと言いますと、信者一人ひとりを愛して、信者一人ひとりに対して、ひとつの確実な御旨、ひとつの確実な計画を持っておられ、将来も、契約に基づく、その確実な御旨、確実な計画によって、信者一人ひとりを愛して、将来も変わらず救いの中に置き、祝福を豊かに与え、ご自分との交わりの中で生かしてくがさることをお決めになっているのです。ですから安心です。こうして、人間の側が将来を心配して考える多くの計らいと、主の側のひとつの確実なみ旨、計画が、比較対照、コントラストになっているところが本当に素晴らしいと思います。

 そして、もう一つ素晴らしいことがあります。それは、ここでも、「神」という呼び名ではなく、「主の御旨」と言われていて、「主」という呼び名が使われていることです。先はども触れましたが、「神」という呼び名は、特に、万物創造の偉大な力を特った神を表す呼び名です。それに対し、「主」という呼び名は、特に、契約によって、枚いと祝福を惜しみなく与える神を表します。ですから、「主の御旨」というのは、契約に基づいて、枚いと祝福を惜しみなく与えてくがさる主が、確実なみ旨、計画によって、これからも信者一人ひとりを愛し、救いの中に置き、豊かな祝福を与えてくださることを約束しているのです。わたしたちも、自分の将来に対する神の豊かな祝福を確信し、平安な思いを特って喜んで信仰の道を案心して歩みましょう。他のところに(詩編37編5節)、「あなたの道を主に任せよ」とありますが、それとほとんど同じ意味です。

 

4.女性も、主を恐れ敬いながら人生を歩んでいくことが、求められています

第4点に入ります。第4点は、女性も、主を恐れ敬いながら人生を歩んでいくことが、求められているという点です。 31章10節から31節のところです。ここは短くてよいと思います。ここは、何か教えられているかと言いますと、理想の妻の姿が教えられています。旧約時代のイスラエルの娘たち、女の子供たちに対し、あなたたちはこのような妻を目指すのです上と言って教えたものです。10節に「有能な妻を見いだすのは誰か。真珠よりはるかに貴い妻を」とあります。「有能な妻」とありますが、「有能な」という言葉は、もともと、「有能な」、「賢い」、「しっかりとした」、「すぐれた」、「立派な」という意味があります。これまでの口語約聖書は、「賢い妻」となっていました。新改訳聖書では「しっかりした妻」と訳されています。そして、そのような有能な妻、賢い妻、しっかりとした妻、すぐれた妻、立派な妻は、「真珠よりけるかに貴い妻」と称賛されることによって、当時のイスラエル社会の妻の理想像であることを表しています。

 では、|口約時代の神の民イスラエルにおける、有能な、賢い、しっかりとした、すぐれた、立派な妻は、どんな妻なのでしょう。すると、たくさんのことが列挙されています。わたしの言葉でわかりやすく言っておきましょう。夫が安心して信頼できます。よく働いて収益を上げるので夫は困ることかありません。生涯夫の益になるようなよいことをします。羊の毛と白い亜麻を買ってきて自分で服を作ります。暗いうちに起きて、家族のためにパンや食事の準備をします。また、家で働く召し使いの女性たちにてきぱきと指図をします。ここに出てくる妻は、召し使いの女性たちもいる裕福な家の妻の姿で描かれています。自分が蓄えてきたお金でぶどう園を買って財産を増やします。自分で腰に帯してせっせと働きます。何の商売かわかりませんが、自分がやっている商売がうまくいって、夜、灯をともして仕事をします。自分で糸車を回して糸を紡いで布を織ります。近所の貧しい人々に施しをします。自分の家の敷物を自分で織ります。また、高価なよい衣服を身につけています。服や帯を作り、商人に売り利益を上げます。家族全体によく目配りをします。いつも勤勉で、怠けることをしません。そこで夫や子供たちからもほめられます。さらに、このような妻には、ご褒美をあげましょう。また、人々が集まる町の門で、素晴らしいと言ってみんなでほめましょうと称賛されます。

 

 以上のようにして、賢い妻のすることがたくさんあげられていますが、今から2千年前以上の家父長制の大昔の時代、男中心の社会、技術や産業の未発達の自給自足的な時代の中で語られている教えです。ですからこの通りのことを、今日の男女同権の時代、男女雇用均等法の時代、技術や産業が高度に発達し、専門化した時代、何でも大量生産されて買う時代の中で、これと同じことはとても行えませんし、また、行う必要がありません。

 ては、31章の賢い妻についての教えは、今日には適用できないのかと言えば、そんなことはありません。一番大事なことがチャンと十分適応できるようになっています。では、31章の賢い妻についての教えで、一番大事な教えは何でしょう。土台となる教えは何でしょう。すると、それが、30節後半の「主を畏れる女こそ、たたえられる」という教えです。すなわち、妻にとっても、女性にとっても、一番大事な教え、土台となる教えは何かというと、それは、蔵言の主題であり、↓章7節で述べられていた「主を畏れることは知恵の初め」と同じ教えで、それは、契約によって、核いと祝福を妻、女性にも約束している主を畏れ敬いながら日々喜んで歩んでいくという教えです。

 妻も、女性も、自分を生かし、自分の人生を幸せにする真の知恵は、契約によって枚いと祝福を約束している主なる神を信頼し、畏れ敬いながら喜んで人生を歩むことです。こうして、蔵言は、帳尻が合います。談言は、「わが子よ」、厳密には、「わが息子よ」と呼びかけ、家父長制の時代の、男中心の社会であった神の民イスラエルの次の世代を担う息子から、男の子供たちに呼びかけるかたちで知恵を敬えてきましたが、しかしその知恵は、息子たち、男の子供たちだけが身につけるべき知恵ではなく、娘たち、女の子供たちも、幸せになるために、身につけるべき知恵であったことを教えて終わるのです。帳尻が合っています。人の幸せは、男であれ女であれ、契約によって枚いと祝福を確実に約束してくださっている主なる神を信頼し、畏れ敬いながら喜んで日々歩むことです。今日的に言えば、人は男であれ女であれ、週の最初の日の日曜日に教会に来て、主なる神を礼拝し、契約に基づく救いと祝福と永遠の生命を恵みとして与えられ、喜んで歩んでいくことにあります。

 

 以上のようにして、箴言を見ます。そして、箴言は、ソロモンの知恵が多く収められているのですが、後にキリストは、ご自分のことを「ソロモンにまさるもの」と語って、人生の真の知恵が、ソロモン以上にあることを教え、人々がご自分から人生の知恵を得るように求めました。また、使徒パウロは、コロサイの信徒への手紙の中で「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」と語って、人生の真の知恵をキリストに求めるように教えました。また、パウロは、コリントの信徒への手紙一1章24節で、わたしたちは、「神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」と語って、幸せな人生に導く神からの知恵は、キリストを信じて生きていくことであることを教えました。ですから簡単に言えば、キリストが出現してからは、キリストを信じて日々喜んで生きているクリスチャンが、真の知恵によって生かされているのです。旧約聖書の箴言で教えられていた知恵ある生き方は、今日クリスチャンにおいて見事に実現しました。

 わたしたちは、今年2005年も、主の最初の目ごとに、契約の主なる神とキリストを聖霊の豊かな導きにより礼拝し、知恵のある賢い、賢明な、価値ある生涯をともに喜んで歩んでいきましょう。