「救い主の先祖となった女性―女性の信仰と祝福―」
ルツ記1章1節から6節、2章1節から3節、
3章1節から4節、4章18節から22節
佐々木稔牧師
序
9月に入っても残暑が続いていますが、わたしたちは、本日も、聖書が教える生ける真の神を心から礼拝したいと思います。
また、わたしたちの教会では、今年の年間標語聖句として、ヤコブの手紙4章8節、「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」という御言葉を採りましたが、今の時代の日本の人々が、聖霊の働きにより、神に近づき、素晴らしい救いを受けることができるように、また、わたしたち自身も、聖霊のはたらきにより、神に近づき、豊かな祝福を受けることができるように、祈りつつ歩みたいと思います。
さて、わたしたちは、通常の礼拝においては、新約聖書のヨハネによる福音書から学んでいますが、2ヶ月に一度は旧約聖書に親しむという趣旨で、旧約聖書のお話しを順番にしていくことになっております。それで、今回はルツ記のお話しをいたします。
今日、クリスチャンの女性の名前にルツさんとかルツ子さんという名前がありますが、それらの名前は、旧約聖書のこのルツ記に出てくるルツという女性の名前からとったものです。ルツ記に出てくるルツは、1人の異邦人の女性でしたが、イスラエルの真の神を信仰して歩んだ故に救われ、祝福を受け、救い主メシアの先祖になりました。21世紀の日本に生きるわたしたち一人ひとりも、今の時代のルツとして、神への信仰により素晴らしい救いと豊かな祝福を受け、喜んで日々の歩みをしていきたいと思います。
1.
早速、具体的な内容に入りましょう。拾い読みしながらお話をします。まず、人が救われ、祝福を受けるのは、常に信仰であることを見ましょう。ルツ記の中心人物は、ルツという1人の女性ですが、ルツは、神の民イスラエルの一員ではなく、異邦人の女性でした。
この話は、イエス・キリスト出現以前の1150年ごろと思われます。当時、イスラエルにおいては、雨が降らず、飢きんのため、食べ物がなくなり、人々が苦しみました。そこで、エリメレクとナオミという1組の夫婦は、それまで住んでいたイスラエルのベツレヘムを離れ、食べ物のある死海の向こう側のモアブ人の住んでいる土地へ移りました。
モアブ人は、異教の民で、アシタロテとかケモシといわれる神々を拝んでいました。特にケモシという宗教は、子供を火に焼いてささげる恐ろしい宗教として知られていました。そこで、旧約聖書・申命記は、「モアブ人は主の会衆に加わってはならない」と命じているほどでした。
しかし、エリメレクとナオミという1組の夫婦は、イスラエルの飢きんのためやむなくモアブ人の土地に、2人の息子を連れて移り住みました。ところが、あるとき、一家の主人のエリメレクが亡くなりました、やがて、2人の息子は成人し、土地のモアブ人の女性と結婚しましたが、その2人の息子も亡くなりました。そのため、ナオミと息子の2人の嫁のオルパとルツが残されました。
そこで、ナオミは、今後のことを考えねばなりませんでした。イスラエルでは、飢きんも終わり、食べ物があるということを聞いたので、イスラエルに帰ることにしましたが、息子の2人の嫁もついてくるといって、ナオミとともにイスラエルを目指しました。
しかし、しゅうとめのナオミは、歩きながら、2人の若い嫁がモアブの土地にとどまって同じモアブ人と再婚し、新しい人生を踏み出すように勧めました。しかし2人の嫁は、しゅうとめのナオミを慕っていましたので、ナオミについていきたいと涙ながらに訴えました。当時のイスラエルのしきたりによれば、そういう場合は、通常はどうしたのでしょう。夫が子供を残さないで死んだときには、嫁は夫の兄弟の妻となって子供を産みます。そして、その子供が家を継いでいきます。ですから、もしナオミに他の息子がいれば、その息子に嫁いで子供を産み、その子供が家を継いでいくことになるわけですが、しゅうとめナオミには他の息子はいませんでした。ですから息子の2人の嫁がナオミの息子に嫁ぐ希望はないのです。
すると、2人の嫁のうちの1人のオルパは、しゅうとめナオミの勧めに従って、地元のモアブに残ることを決意し、しゅうとめナオミと別れるのです。そして、ナオミと別れ、地元のモアブに残るということは、モアブ人の異教の神々信仰に戻ることを意味します。しゅうとめのナオミとともに暮らしてきたこれまでにおいては、しゅうとめナオミの信じていた真の神ヤハウェをともに礼拝してきたと思われますが、これからは、以前の異教のモアブ人の神々礼拝に戻ることを意味します。こうして、2人の嫁のうちオルパは、真の神による救いと祝福から離れていきました。
では、もう1人の嫁のルツはどうしたでしょう。すると、ルツは、しゅうとめのルツから決して離れないことを表明するのです。1章16節、17節のルツの言葉を読んでみましょう。「ルツは言った。『あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民 あなたの神はわたしの神。 あなたの亡くなる所でわたしも死に そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。』」と語っていますが、これは異邦人ルツの見事な信仰告白です。特に、「あなたの神はわたしの神」というのは、見事な信仰告白です。
確かに、しゅうとめのナオミは、とてもよい人柄であったので、ルツはしゅうとめのナオミを慕っていましたが、しかし、ルツがナオミについてイスラエルに行く理由は、それだけではありませんで、しゅうとめのナオミから教えてもらったイスラエルの神ヤハウェこそ真の神であることを、聖霊の働きを受け確信していたからです。「あなたの神はわたしの神」とは、まさに真実な信仰告白です。
そして、また、ルツは自分をイスラエルの真の神ヤハウェ信仰に導いてくれた人柄の良いしゅうとめナオミが、本当に好きでしたので、別れたくありませんでした。しゅうとめのナオミのそばにいて、いろいろなことをしてあげたいと心から思っていました。それゆえ、「あなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください」と言って、イスラエルの神、主の名を引き合いに出してまで、自分の決意を表明することができました。そこで、しゅうとめナオミは、嫁のルツの決心は神への信仰に基づく固い決心であることが分かり、ルツを連れ出身地のイスラエルのベツレヘムに帰ってくるのです。
こうして、ルツは異邦人の女性でしたが、しかし、真の神への信仰を大切にして生きようとしていたことが、とてもよく伝わってきます。それゆえに、ルツは信仰によりもうすでに救いを受けていましたが、さらに、この後、信仰により豊かな祝福を受けることになります。
神への信仰なしで、人は真の幸せを得ることはできないのです。もし人が、神への信仰なしで、真の幸せを得ることができると思えば、それは大きな勘違いと言わなければならないでしょう。先月、わたしは、こんな勘違いをしてしまいました。委員会がありまして、神戸に行きましたが、帰り、出るのが遅れてしまいました。そのため、飛行機に間に合うかどうか心配でした。そこで、奮発してタクシーで飛ばしましたので余裕をもって、飛行場に着きました。これで安心とばかり、予約カードの確認をするため、機械に入れましたが、全く作動しません。おかしいなあと思いまして何回かやってみましたけれども、作動しません。見かねて、係りの人がやってくれたのですが、その人が、「お客様、この予約カードは日本航空のカードです。ここは全日空のカンターです。」と言いましたので、わたしびっくりして見回しますと、確かにそこは、全日空のカウンターでした。わたしは勘違いしていました。日本航空のカウンターは、正反対の1番遠い建物です。そこで、わたしは青くなって必死に走りました。やっと、日本航空のカウンターにたどり着き、急いで手続きをし、搭乗口に向かいました。出発の15分前で、滑り込みセーフでした。
人は人生においていろいろな勘違いをするでしょうが、1番大きな勘違いは何でしょう。それは、神への信仰なしで、真の幸せを得ることができると思うことでしょう。ルツ記全体の根底に流れる教えは、人が神によって救われ、豊かな祝福を受けるのは、常に、信仰であるという教えです。これは、人が、神によって創造されたときから、永遠に変わらぬ大きな真理です。
2.
さて、しゅうとめナオミは、嫁のルツを連れて、10年ぶりで故郷の、イスラエルのベツレヘムに帰ってきました。故郷のベツレヘムの人々は、ナオミが嫁のモアブ人ルツを連れ、しかも、着のみ着のままの貧しい状況で戻ってきたことにとても驚きました。ナオミは、ベツレヘムを離れるときには、夫と2人の息子とともに離れていきましたが、戻ってきたときには、頼るべき夫もまた2人の息子もなくなり、嫁の異邦人のルツと戻ってきました。そこで、ナオミは、それまでの10年間は、神から与えられた試練の連続であったことを自分からも話しました。ナオミは、自分の名前ナオミは、ヘブル語で「快い」とか「快適な」という意味であるけれども、しかし、10年間の試練ゆえに、ナオミ、すなわち、「快い」とか「快適な」という名前でなく、むしろ、ヘブル語で「苦い」、すなわち、苦しみを表す「マラ」と呼んでほしいほどであると、人々に自分の気持ちを話しました。わたしたちも、自分の長い人生を振り返り、あの10年間は、試練の10年間であったなあと言うこともあるでしょう。
さて、その時は、大麦の刈り入れの時期で、今日のカレンダーにすれば3月か4月でした。ルツは、パンの材料を手に入れるため、落穂拾いに麦畑に出かけました。イスラエルにおきましては、貧しい人々への愛と配慮のしるしとして、麦の刈り入れの時、地面に落ちた麦の穂は、そのままにしておくことが、モーセの律法で命じられていました。
そこで、ルツは、たまたまボアズという人の畑で落穂拾いを始めました。2章1節に、「ナオミの夫エリメレクの一族には1人の有力な親戚がいて、その名をボアズと言った」とありますが、「有力な」というのは、たくさんの田畑を持っている裕福な人で、土地の人々からも社会的に信頼されていることを表します。どのぐらいの年齢の人かと思いますが、若い人ではなく、壮年ぐらいの感じでしょう。信仰のとても豊かな人でもありました。このボアズは、姑ナオミの亡くなった夫エリメレクの親類の1人でした。
それで、ルツは、そのことを知らず、たまたま、このボアズの畑に行って落穂を拾いました。するとボアズは、ルツに親切を示しました。どんな親切を示したでしょう。ルツが、よその畑に行かないで、続けてボアズの畑で落穂拾いをするように勧めてくれました。また、ルツがボアズの畑で落穂拾いをするときには、畑で働く若者たちがルツの邪魔をしないように命じてくれると言いました。また、ルツが、喉が乾いた時には、ボアズの畑で働く若者たちが汲んできた水瓶から自由に飲んでよいと言ってくれました。これらすべてはルツにとってとてもありがたいことでした。では、ボアズはどうして、ルツにそんなに親切にしたのでしょう。
11節と12節を読んでみましょう。「ボアズは答えた。『主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。 どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。』」とボアズは言いましたが、「主があなたの行いに豊かに報いてくださるように」という表現で、ルツがモアブ人の宗教と決別し、しゅうとめナオミから教えられたイスラエルの真の神ヤハウェへの信仰を選びとったことを表しています。こうして、ボアズがルツに親切を示したのは、ルツの信仰を尊んだからです。
さらに、これがきっかけとなって、ルツに対するボアズの親切が種々続きました。食事の時には、ボアズはルツを自分のそばに呼び、「酢」にパンを浸してルツに与えました。「酢」というのは、スッパクなったぶどう酒に少量のオリーブ油を混ぜたものですが、これをパンに浸して食べると、のどの渇きがいやされ、食欲を増進させるものとして、当時のイスラエルにおいて重宝されました。
また、ボアズは、麦を火であぶった「炒り麦」といわれるものをルツに与えて食べさせました。さらに、畑で働く若者には、麦を意識的にわざとたくさん畑に落としておくように命じ、ルツが落穂をたくさん拾えるように配慮しました。そのためルツは、1日で1エファ、すなわち、約23リットルの麦を拾うことができました。これは、通常の落穂拾いで集める量をはるかに超えていました。
こうして、神は、頼る者がいないルツと姑ナオミの2人の女性の暮らしを、ボアズを通して守ってくださいました。神は、ルツとしゅうとめナオミへの祝福のためボアズという人を備えてくださったのです。神は、いつの時代でも、しばしば、他の人を通して豊かな祝福を与えるのです。今日も同じでしょう。他の人々を通して、神から豊かな大きな祝福を受けることがいくらでもあるでしょう。わたしもいくらでもあります。他の人々からよくしてもらったとき、その人に感謝するとともに、「神がその人を通してわたしを祝福してくださった」と率直に信仰で受け止め、天の神に感謝するでしょう。また、わたしの祝福のため、神は、誰々さんを備えていてくださったのだとさえ思えることだってあるでしょう。また、人生において大変だなあと思うとき、不思議に助けてくれる人が備えられるということもあるでしょう。わたしも何回もあります。
また、この流れで大切なことは、神は、偶然、たまたまを用いて、人を祝福してくださるということです。2章3節後半に、「そこはたまたまエリメレク一族のボアズが所有する畑地であった」とありまして、ルツがボアズの畑に落穂拾いに行ったのは、偶然、たまたまでしたが、しかし、神はその偶然、たまたまを摂理の中で用いて、ルツとボアズを出合わせ、豊かな祝福に導いてくださるのです。
そしてこのことは今日も同じです。神は、今日も、偶然、たまたま、を用いて、わたしたちを豊かで大きな祝福に導くお方です。例えば、たまたま散歩していて教会を見つけ、教会に来るようになり救いという大きな祝福を受けることもあるでしょう。配られた1枚のチラシを、たまたま、見て、教会に来るようになり、永遠の生命という大きな祝福に導かれるということもあるでしょう。さらに、教会でたまたま出会った人と結婚し、ともに生涯を感謝して歩むという大きな祝福もあるでしょう。たまたま、ある仕事に出会って、それが生涯の大切な仕事になるという大きな祝福もあるでしょう。神は、摂理の中で、偶然、たまたまを用いて、わたしたちを豊かで大きな祝福に導くことができる偉大なお方です。
3.
さて、それからどうなったでしょう。しゅうとめナオミは、落穂拾いの出来事を通して、嫁のルツが、親戚のボアズと結ばれ、子供を産み、エリメレの家を継いでいくのが神の御心であると確信できたと思われます。そこで、しゅうとめナオミは、嫁のルツの気持ちをボアズに伝えるために、ひとつのことをするように勧めました。
具体的には、ルツが、きれいにお化粧し、美しく装って、ボアズのところへ行くのです。その夕方、ボアズは、大麦のふるい分けをすることになっていました。大麦のふるい分けというのは、しばしば夕方の風が吹いているときに行われました。大麦を空中にぱーっと撒くのです。すると、実が入っている麦は重いので手前に落ちますが、実が入っていない麦は軽いので遠くの方へ飛んでいきます。そこで、手前に落ちた実の入っている麦を集めるのです。こうして、身が入っている麦と入っていない麦をふるい分けしますが、ボアズは風の吹いているその夕方は、1人でこの作業することになっていました。そこで、その作業が終わり、食事をして横になって眠ったときに、ルツがボアズの足元に行き、ボアズの服のすそで身を覆うように教えました。
3章4節で、「あの人が休むとき、その場所を見届けておいて、後でそばへ行き、あの人の衣のすそで身を覆って横になりなさい。その後すべきことは、あの人が教えてくれるでしょう」とありまして、「衣のすそで身を覆って横になる」ということが言われておりますが、これは、妻が夫の庇護のもとに置かれることの象徴です。したがって、ルツがボアズの衣のすそで身を覆って横になることは、ルツがボアズの妻となることを願っていることのしるしになります。今日のプロポーズになります。
そこで、ルツは、しゅうとめナオミに言われた通りに、ボアズの足元で、ボアズの衣で身を覆いました。ボアズは、夜中に、足元に人がいることに気がつきました。尋ねると、それはルツでした。そこで、ルツは、ボアズの妻となり、子供を産み、家系を絶やさぬようにしたいと望んでいる旨を率直に話しましたところ、ボアズはルツの言うことを快く受け入れてくれました。
さて、しゅうとめナオミとルツは、麦の刈り入れ期間中は、落穂拾いによった麦をパンにして食べていましたが、麦の刈り入れ期間が終われば、もう落穂拾いはできません。そこでしゅうとめナオミは、今後の生活のため、亡くなった夫エリメレク名義の田畑を手放すことにしましたが、そういう場合には、夫の1番近い親戚が田畑を買い取ることになっていました。そして、その田畑を買い取るということは、同時に、その田畑に付随するナオミとルツの2人の女性を引き取り、若い嫁であるルツには子供を産ませ、その子供に、買い取った田畑を継がせ、ナオミが属していたエリメレクの家系を絶やさないようにしていくことが、当時のイスラエルのしきたりでした。
しかし、ボアズは、しゅうとめナオミが属していたエリメレクの家の2番目に近い親戚で、1番近い親戚は別にいました。そのため、1番近い親戚が、しゅうとめナオミが手放す田畑を買い取ると言えば、ナオミとルツの2人の女性も、その親戚に引き取られることになり、ルツとボアズはお互いに信仰に基づく愛情を持っていても結婚できません。これは2人にとって大きな心配でした。
さて、次の日、ボアズが、その件について、1番近い親戚の人と話し合うために、ベツレヘムの町へ行ったとき、何と、町の囲いの門のところで、その1番近い親せきにたまたま「折りよく」出会いました。ボアズは、これこそ神の導きと信じることができたでしょう。そこで、ボアズは、ベツレヘムを治る長老の中から10人を証人として選び、その10人の前で、1番近い親戚の人と話し合いを始めました。
1番近い親戚の人は、ナオミの亡くなった夫エリメレク名義の田畑を責任を持って買い取ることを表明しました。そこで、2番目に近いボアズは、エリメレク名義の田畑を買い取ることの意味を説明しました。すなわち、エリメレク名義の田畑を買い取ることは、その田畑に付随しているナオミとモアブ人であるルツを引き取り、モアブ人ルツには子供を産ませ、その子供に、エリメレク名義の田畑を継がせ、エリメレクの家系を絶やさないようにする覚悟があるかどうかを尋ねました。
4章5節がそうです。読んでみましょう。「ボアズは続けた。『あなたがナオミの手から畑地を買い取るときには、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き取らなければなりません。故人の名をその嗣業の土地に再興するためです。』」。すると、1番近い親戚の人は、田畑だけなら買ってもいいが、異邦人のモアブの嫁のルツまで引き取って、子供を産ませ、買い取った田畑をその子供に継がせることなどとてもできないと辞退しました。1番近い親戚の人は、モアブ人であってもルツのすばらしい信仰を評価することができませんでした。そして、その人は、田畑を買い取る責任を放棄する当時のしるしとして、自分の履物、サンダルの片方を脱いでボアズに渡しました。そこで、2番目に近い親戚のボアズが、エリメレク名義の田畑を買い取ることを10人の証人の前で宣言しました。これで、ボアズはルツを天下晴れて自分の妻に迎えることができます。
そして、この流れで大切なことは何でしょう。すると、それは、イスラエルにおいては、ひとつの家族が落ちぶれ、没落し、田畑を手放す時には、1番近い親戚がかわいそうに思って、自分が代価を払って買い取り、その家の子供に継がせてあげるという習慣があったことです。実は、この買戻しの習慣こそ、あがないと言われ、将来、救い主が、罪の奴隷として落ちぶれている人類を、ご自分の命という代価を十字架上で払って、罪から買い戻して救ってくださることの型、タイプとして表していたのです。
新共同訳聖書では、あがないという言葉は1回も出てきませんが、もともとヘブル語聖書には何回も出てきます。これまでの口語約聖書にも、あがないという用語がルツ記4章には9回も出てきています。4章4節だけ、わたしが口語約聖書を読みますので聞いていてくだされば結構です。「それでわたしはそのことをあなたに知らせて、ここにすわっている人々と、民の長老たちの前で、それを買いなさいと、あなたに言おうと思いました。もし、あなたが、それをあがなおうと思われるならば、あがなってください。しかし、あなたがそれをあがなわないならば、わたしにそう言って知らせてください。それをあがなう人は、あなたのほかにはなく、わたしはあなたの次ですから」。彼は言った、『わたしがあがないましょう』」。
こうして、ルツ記の素晴らしさのひとつは、メシアによるあがないが型として教えられていることですが、ルツは自分が思いを寄せるボアズに、田畑とともにあがなわれ、すなわち、買い戻され、ボアズの妻として迎えられ、ボアズとの愛の交わりの中にひび置かれ本当に嬉しかったでしょう。モアブの宗教と決別し、イスラエルの真の神を信仰し、イスラエルにやってきて自分は本当によかったと思えたでしょう。それと同じように、わたしたち罪人は、罪に落ちぶれた、没落した状態から、イエス・キリストが、十字架上でご自分の聖い命を代価として払ってくださることにより、罪からあがなわれ、キリストのものとされ、キリストとの愛の交わりの中に日々生かされていることを本当にうれしく思えるでしょう。そして、心から感謝できるでしょう。
これは、神からの祝福でした。異邦人のモアブ人であっても、信仰の決意をし、イスラエルにやってきた1人の女性を、神は軽んじることをされませんでした。難しい状況を乗り越えて、思いを寄せるボアズの妻になる道を開いてくださいました。そして、さらに、跡継ぎとなる男の子を与えてくださいました。4章13節を見てください。神の豊かな祝福が感じられる生き生きとした表現でしょう。「ボアズはこうしてルツをめとったので、ルツはボアズの妻となり、ボアズは彼女のところに入った。主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ。」
そしてさらに16節を見てください。「ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。」とありまして、しゅうとめナオミが、顔を喜びで輝かせて、ルツから生まれた男の子、すなわち、自分の孫をだっこして、あやしている姿が目に浮かぶでしょう。豊かな祝福を受けたのはルツだけではありません。10年間の苦労と苦しみを信仰によって耐えたしゅうとめナオミも豊かな祝福を神から受けました。
そして、歳月が立ち、姑ナオミもルツも地上の生涯が終わりましたけれども、神の祝福は、さらに続き、ルツのやしゃ孫としてダビデが出てきます。すなわち、ルツは、ダビデのひいおばあさんになりました。そして、さらに、時代が下り、ルツの家系、ルツの子孫から、救い主・メシアのイエス・キリストが出てきました。新約聖書の第1ページ、マタイによる福音書1章の救い主イエス・キリストの系図に、異邦人でありながらも信仰に生きたモアブ人女性のルツの名前が出てきます。5節に、「ボアズはルツによってオベドを」とあるのがそうです。こうして、信仰で生きることには、思いにまさる神からの大きな豊かな祝福が必ずあることを読者に教えています。
結び
以上のようにして、ルツ記から、神への信仰は、必ず祝福をもたらすことを見ましたが、今日の21世紀の日本に生きるわたしたち一人ひとりが、今の時代のルツ、日本のルツとなり、神への信仰を持って、豊かな祝福のある人生を歩みたいと思います。
(日本キリスト改革派南浦和教会2003年9月14日の説教)