「信仰と人生」  病気における神の恵みの説教

 

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「キリスト教の祈り」

 

聖  書  マタイによる福音書 6章9節から13節

「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』

        ヨハネの手紙 一 5章14節

「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」

 

はじめに

 

本日は「キリスト教の祈り」についてお話をします。人というのは神に祈るものです。祈りは人類に普遍的な事柄です。祈りのない民族はありません。どの民族にも宗教があり、祈りがあります。それぞれの民族が神として信ずるものに祈るのです。祈りのない民族はいないのです。それで、なぜ人類は神といわれるものに祈るのかと言いますが、それは、人間が自分の弱さや限界を折り折りに感じ、人間以上の存在である神との関係を正しく保って、神の守りと祝福を祈るからです。

日本でもそうですね。日本人もいろいろなものに祈ります。通常は、「自分は無神論者である」などと言っている人も元旦になれば、初日の出と称して、太陽に向かって手を合わせ、自分の幸せを祈るのです。では、どうして祈りは人類に普遍的にあるのでしょう。すると、その答えは、人類は、創造主なるまことの神に祈りながら歩む者に造られたからです。それがゆがんだ形、異教化した形で表れているのです。どの民族にも祈りがあるということは、実は、まことの祈りの名残りです。そして、それらはまことの祈りであるキリスト教の祈りをさし示すものといえるでしょう。そこで、本日は、まことの祈りである「キリスト教の祈り」についてお話しをします。

 

1.キリスト教の祈りは創造主なる神から恵みを受けるすばらしい方法です

 

祈りというのは、実は、人間が自分勝手に考えでしたものではないのです。祈りは、創造主なるまことの神様が人間のために作ってくれた方法なのです。神様は人間に恵みを与えるとき祈りという方法で恵みを与えることを決めたのです。そして、実際、神様は祈りというすばらしい方法を通して、人に必要な恵みを与えるお方です。神様は、祈りという方法を通してその時に必要な、力、励まし、平安、喜び、勇気、希望、忍耐、知恵など何でも与えてくださいます。

旧約時代のイスラエルにおいてもそうでした。たとえば、かつてイスラエルの民は、荒れ野で40年間の旅を始めたときのアマレク人との戦いにおいてもそうでした。イスラエルの民は、指導者モーセの祈りを通して、神様から力を与えられ、勝利をすることができたのです。そこでわたしたちはアマレク人との戦いを見てみましょう。旧約聖書の出エジプト記17章8節から16節です。

 

この戦いは、イスラエルの民が、奴隷の地エジプトから解放されて、荒れ野の旅を初めて2カ月目のことです。アマレク人というのは、アラビア半島のシナイ山の北部に住んでいた遊牧民で非常に獰猛で攻撃的な民、そして、戦い上手な民として知られていましたが、シナイ山のそばのレフィデムにやって来たイスラエルの民を突如襲ってきました。指導者のモーセは、後継者のヨシュアが、イスラエルの民の成人男子を率いて、アマレク人と戦うことを命じました。一方、モーセ自身はアマレク人と戦っているヨシュアおよびイスラエルの民に、力が与えられるように、丘のうえで神様に祈ったのです。

 

戦いは始まりました。この戦いはとても重要な意味がありました。すなわち、出エジプトしたイスラエルの民が初めて行う大事な戦いです。もし、この戦いに負ければ影響はとても大きいのです。イスラエルの民は自信を失って、約束の地カナンを目指す旅は不可能になります。なぜなら、これからいろいろの敵が次々と襲って来て、戦いがいくらでも出てくるからです。従って、この最初の歴史的戦いにおいてイスラエルの民はどうしても勝利しなければなりません。

しかし、なにぶん、イスラエルの民はこれまでエジプトで数百年間奴隷であったので、戦い方を知らないのです。他方、アマレク人はしょっちゅう戦いをしている戦い上手な民族でした。そこで、モーセは、イスラエルの民に大事なことを教えるのです。すなわち、イスラエルの民は神の民ですから、人間の力に頼って戦うのではなく、神の力によって戦うこと、そうすれば必ず道が開けて勝利することを、この最初の戦いで教えようとしたのです。

 

モーセはヨシュアに率いられたイスラエルの民が、神の力を求めて祈っているモーセの姿が見えるように、わざわざ丘の頂きで祈ったのです。ここで注目すべきことは、モーセが神様の力を象徴する杖を手に取って高く上げ、祈っているとイスラエルの民が勝つのですが、しかし、モーセが疲れてきて、祈りの手を下ろすと、イスラエルが負けそうになったということです。そのため、どうしたかと言いますと、モーセの祈りの手が下りないように、アロンとフルという2人の人が両側からモーセの手を、多分交代でと思いますが、支えたというのです。そのため、モーセの祈りの手は日没まで上げられていたので、ヨシュアに率いられたイスラエルの民は、神様から力を与えられてアマレク人に勝利することができたのです。

この出来事はとてもわかりやすい出来事です。難しいことが何もありません。神の民は祈りを通して神様から力を与えられて勝利をしていく単純な真理、しかしすばらしい真理を明白に教えています。しばしば言われるように「祈りなくして勝利なし」ということを教えています。逆の言い方をすれば、「祈れば道が開けて勝利する」という真理です。この真理は、もちろん、いつの時代の信仰者にも当てはまります。今日の教会にも、また、クリスチャン一人ひとりにも当てはまることは言うまでもありません。今日のわたしたちも、神様が作ってくださった祈りというすばらしい方法で、恵みを受けながら人生を歩んでいくのです。

 

わたし自身もそうです。わたしは、クリスチャンになって約40年になりますが、この40年間、祈りという方法を通して神様からいろいろな恵みを与えられて歩んできました。祈りについてはいろいろな思い出があります。教会へ行き始めて、「神様にお祈りしなさい」と教えられ、すぐにお祈りを始めました。ただ、困ったことがありました。それは、わたしは学校の寮に入っていました。古い寮でしたが費用がとても安かったので助かりました。ただし12畳の畳の部屋で3人が机を並べて暮らしました。そのため、なかなか1人になって神様に祈ることができませんでした。いつもだれかがいるという状況でした。

そこで、押し入れに入ってお祈りをしたこともありました。また、夜など、近くの畑に行って1人になってお祈りをしました。畑の回りには木がたくさん植えてあって、道路側からは見えませんので落ち着いてお祈りができました。あるときお祈りが終わって道に出たとき、パトロール中のお巡りさんに出会って、「こんな時間に何をしていたのか」と聞かれたこともありました。「お祈りしていました」と言いましたらびっくりしていました。そんなこともありました。神様だけを強く意識して祈るために、祈りの場所を得るのに苦労したことを懐かしく思い出します。

 

また、わたしは折々にこの会堂でお祈りをします。難しい問題に出会ったときには、この会堂で神様と一対一になり、ひざまずき、床(ゆか)に額をつけて神様に一生懸命お祈りします。そして、お祈りが終わると、「神様にお祈りした。御心であれば神様が必ず道を開いてくださる」と信じて立ち上がります。そして、実際に、多くの場合はその都度道が開かれて歩んできました。また、聖霊によって、その都度、力、平安、喜び、励まし、慰め、勇気、忍耐、希望、知恵、工夫などが与えられて歩んできました。そして、これは何もわたしだけではなくクリスチャンは皆同じです。神の民、クリスチャンは、神様がわたしたちのために作ってくださったすばらしい方法である祈りを通して、恵みを与えられながら勝利の人生を歩んでいくのです。祈りのある人生は勝利の人生です。

 

2、キリスト教の祈りは創造主なる神様を自分の天の父として祈ります

 

創造主なるまことの偉大な神様を自分の天の父とするということには、豊かな意味があります。そこで、わたしたちはマタイによる福音書6章9節を開いてみましょう。この部分は、「主の祈り」として知られています。イエス様は、お祈りのお手本としてこの「主の祈り」を教えて下さいましたが、今、特にわたしたちは、9節の「天におられるわたしたちの父よ」という呼びかけに注目したいと思います。

 

今日のわたしたちは、神様を「天の父」として呼びかけることは当たり前のことと思っているかもしれませんけれども、神様を父と呼びかけることができるということは驚くべきことであり、豊かな意味があるのです。たとえば、神様を天の父とするということは、クリスチャンは、地上にいる神の子供たちということになります。父、すなわち、お父さんがいれば子供もいるわけです。従って、神様が天にいるお父さんであれば、地上にいるわたしたちクリスチャンは、神様の子供たちになります。その通りなのです。神様は、わたしたちクリスチャンを御自分の子供たちとして大事に扱ってくださるのです。そして、父、すなわち、お父さんが子供たちを扱う場合には根底に愛情があります。

 

聖書の時代のイスラエルにおいては、お父さんは家父長制時代のお父さんでしたから、今日のお父さんよりも権威があり、怖い感じがしたかもしれません。また、今日以上に厳しい訓練を与えたかもしれませんが、しかし、根底には子供たちに対する父親の愛情がありました。ルカ福音書の中に放蕩息子のたとえ話が出てきます。息子がお父さんの家を飛び出しました。

しかし、さんざん放蕩して一文無しになったとき、自分の惨めさに気が付き、反省し、悔い改めて家に帰ってきます。すると、お父さんは遠くから息子の姿を認め、自分の方から息子に駆け寄って暖かく迎え入れた姿からもわかるように、家父長制時代のお父さんにおいても子供に対しては大きな愛情を持っていたことがとてもよくわかります。そして、お父さんが男の子であれ女の子であれ、自分の子供たちを愛情を持って扱うことは、いつの時代でもどこの国でも同じでしょう。自分の子供たちが可愛くないお父さんはいないでしょう。今日では、「お父さん」と呼びかけよりも「パパ」とか呼びかける方が多いかもしれませんが、子供たちを可愛がるパパの姿はどこでも見かけることができます。運動会のときなど、ビデオカメラで自分の可愛い子供たちを写すパパの姿はどこでも見かけることができるでしょう。

 

このように、父、すなわち、お父さんは自分の子供たちを愛情を持って扱うのです。天の父である神様も同じです。神様も、天にいますお父さんとして、地上で歩みをするわたしたちクリスチャンを御自分の可愛い子供たちとして大きな愛を持って扱ってくれるのです。神様が天の父として語られているということは驚くべきことなのです。

旧約時代においては、神様はどのようなお方として語られているかと言いますと、神様は万物の創造主なる偉大なお方としてしばしば語られています。旧約聖書において「神」というときがそうです。旧約聖書において「神」というとき、その言い方は万物の創造主なる偉大な神という意味です。また、旧約時代においては、神様はイスラエルの民に契約によって救いと恵みを与えるお方として語られています。旧約聖書において「主」という言い方がそうです。旧約聖書において「主」というとき、その言い方は契約の神を特に表します。

 

では、旧約聖書において神様が「父」、すなわち、信仰者を愛を持って扱う「父」として語られているのはどのぐらいでしょうか。私は調べてみました。こういうことを調べるのが、結構時間がかかって大変なのですが調べてみました。すると、旧約聖書においては、神様が信仰者を愛をもって扱う「父」として語られているのはわずか10回ぐらいです。

では、それに比べて、新約聖書においてはどうでしょうか。すると、新約聖書においては、神様が信仰者を愛をもって扱う「父」として語られているのは40回ぐらいあります。ですから、旧約聖書の4倍の豊かさがあります。こうして、救い主のイエス様が出現してからは、神様は父、すなわち、イエス様を信ずる人たちを御自分の可愛い子供たちとして大きな愛を持って扱ってくださる「天のお父さん」という言い方が非常に多くなったのです。現に、この「主の祈り」が含まれている、マタイ福音書の5章から7章の終わりまでの「山上の垂訓」といわれる部分だけを見ても、神様が「天におられるあなたたちの父」として12回も次々とイエス様御自身の御口から意識的に繰り返されて、目立つように組み立てられています。

 

それは本当にすばらしいことです。神様は、地上のわたしたちクリスチャンを御自分の可愛い子供たちとして大きな愛を持って扱ってくださるので、わたしたちの祈りを喜んで聞いてくださるのです。そして、わたしたち一人ひとりに、力、励まし、慰め、平安、喜び、勇気、希望、忍耐、知恵、工夫、そのた、何でも必要なものを与えてくださるのです。それゆえ、わたしたちも、神様を天にいます愛情あふれる父として信頼してお祈りをしながら歩むのです。

 

3.キリスト教の祈りは必ず聞かれます

 

わたしたちが神様にお祈りするのは、もちろん、聞かれるからです。聞かれるということがなければお祈りしないでしょう。聞かれないがお祈りをするという人はいないでしょう。聞かれるという確かな約束があるからお祈りをするのです。しかし、だからと言って、お祈りすれば、あらゆることが聞かれるというわけではありません。キリスト教の祈りは魔法ではありません。お祈りで神様を自由自在に操って何でも自分の思い通りにさせるという自己中心のもの、人間中心のものではありません。それを言うならむしろ逆です。キリスト教の祈りは、神中心です。神様の御心にかなうものが聞かれて実現したり、与えられたりするのです。

 

そこでわたしたちは、神様の御心にかなう祈りが聞かれるということを教える聖書の箇所を見ましょう。ヨハネの手紙一 5章14節の御言葉です。この箇所はわたしたちの教会の今年の年間標語聖句でした。年の最初の礼拝において、この御言葉の意味を学びました。そして、毎週の礼拝のたびごとに、この御言葉を皆で覚えて歩みました。この御言葉には注目すべきところが2つあります。1つは、「これが神に対するわたしたちの確信です」の「確信」という言葉には、もともと、大胆という意味があるので、わたしたちはいろいろなことを大胆に神様にお祈りしながら大胆に歩みましょうとお話をしました。

そして注目すべきもう1つのことは、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる」とありまして、確かに、神様は天の父として地上のわたしたちクリスチャンを御自分の可愛い子供たちとして愛して、わたしたちの祈りを喜んで聞いてくださるのです。しかし、それにはもちろん原則があるのです。その原則は、そのことが神様の御心に適うという原則です。

 

そんなことを言うと、「では、キリスト教の祈りは本音と建前が違うではないか。建前では祈りが聞かれると言いながらも、実際は聞かれないのではないか。」と思うかもしれませんけれども、本音と建前という問題ではありません。それは、キリスト教の祈りは、まことの祈りであって、自己中心ではなく、神中心というすばらしい原則を持っていることを表しているのです。

このことは人間の父親を考えてみてもすぐわかります。父親は確かに自分の子供が可愛くて愛していますが、しかし、だからといって子供の望むものを何でもかんでもすべて与えるとは限らないでしょう。また、子供の望むことを何でもかんでもしてやるとは限らないでしょう。子供が望んでも与えないことはあるでしょう。子供が望んでも、それをしてやらないことがあるでしょう。なぜでしょう。それは、父親の目から見て、それを与えないことが子供のためによい場合もあるからです。また、父親の目から見て、それをしてやらないことが子供のために良い場合もあるからです。 

 

それと似ています。キリスト教の祈りはまことの祈りです。神様の御心に適うものが聞かれるということを覚えましょう。ですから、自分はこれが神様の御心と信じてお祈りしたけれども、御心でなかった。だから道が開けなかったということもあります。また、選択肢が複数にあってどれが神様の御心か分からないということもあります。そのような場合の祈りは、「わたしにはどれが神様の御心かわかりません。神様の御心がなりますように。」というふうにお祈りすることもあるでしょう。

教会の今年の年間標語聖句である、祈りは聞かれることを教えるヨハネの手紙一 5章14節の御言葉を見ますが、この御言葉を見ますときに、教会の皆さんが、この御言葉を覚えてわたしのためにもお祈りしてくださったことを心から感謝しています。わたしの食道破裂による手術と入院に際しまして、多くの方々がお祈りしてくださり心から感謝しています。わたしは多くの方々のお祈りに支えられて、ほんとうに励まされました。

こんなことがありました。わたしが食道破裂で手術を受け入院していたときのことです。あるとき体調が悪く、とても気持ちが落ち込んでいました。こんな状態では、とても牧師の仕事に復帰できないのではないかと思いました。そんなとき、わたしの病室の戸をコンコンとノックして入ってきた人がいました。2人です。1人は担当医です。もう1人はわたしが全然知らない人です。男性です。

 

そして、担当医は、こんなことを言ったのです。皆さん、どんなことを言ったと思いますか。「佐々木さん、紹介します。この方が○○さんです。実は、この方は今日1年検診で来ましたが、実はこの方も食道破裂で救急車で運ばれ、手術、入院をした人です。そして、食道破裂の程度は佐々木さんよりもひどかったんです。佐々木さんは、助かるかどうかも五分五分でしたが、この方は、助かる確率は1割しかなかったのです。でも助かりました。そして、仕事に復帰してやっています。だから、佐々木さんも復帰できます。佐々木さんを励まそうと思ってお願いして一緒に来ました」と言ったのです。

 

さらに、今度は、その人がわたしに向かって言いました。「初めてお目にかかります。わたし、○○です。今、先生がおっしゃった通り、わたしは、ちょうど1年前の9月に食道が破裂して、救急車で運ばれてきて、手術を受け入院しました。本当に大変でした。わたしは助かる確率が10%でした。でも助かりました。あるときから仕事に復帰しています。わたしは、ある出版会社で営業の仕事をしております。ですから、佐々木さんも必ず復帰できます。今しっかり療養してください。」と言って、わたしに手を差し伸べて握手をしてくれました。そして、2人は病室を出て行きました。わたしはとても励まされましたね。通常そういうことはあまりないのだろうと思います。担当医が同じ病気であったけれども回復した人をだれかのところに連れてきて励ますというようなことは、わたしはあまり聞いたことがありませんでしたが、その担当医の善意と親切に感謝しました。

 

実はその担当医は、わたしがキリスト教の牧師をしているということを知ったときから、わたしに対してとても親切でした。「何とかして、牧師の佐々木さんを助けてあげたい」という気持ちが、いろいろなときにとてもよくわたしに伝わってきました。わたしもそのことは感じていました。多分、キリスト教の牧師に接するのは初めてだったと思いますが、キリスト教の牧師は人の救いのために働いているということを知っていたのでしょう。

そこで、キリスト教の牧師である佐々木さんをなんとかして助けてあげたいと考えていたようです。それで何くれとなく善意と親切を示してくれました。そこでたまたま、1年検診でやってきた元食道破裂の人に「佐々木さんという人がいるから、一緒に行って励ましてくれないか」と頼んでわたしのところに連れて来てくれたと思われます。わたしはもちろん担当医とその方に心から感謝しました。わたしは、同時に、「これは神様がわたしを励ましてくれているのだ。牧師の仕事に必ず復帰できるから落ち込まないで、今はしっかり療養するようにという神様の励ましなのだ」と信仰で受け止め、「これは、南浦和教会の方々をはじめとする多くの方々の祈りを神様が聞いてくださるのだ」と思い心から感謝しました。

 

結び

 

以上のようにして、本日は、「キリスト教の祈り」についてお話しましたが、祈りについて最も大切なことは、一人ひとりが実際に毎日お祈りすることです。祈りは100の理論より実践が大切です。わたしたち一人ひとりが、喜んで、天の父である神様に、短い時間でもいいですから、毎日祈りましょう。そして、恵みを受け勝利の人生を歩んでいきましょう。