「信仰と人生」  病気における神の恵みの説教

 

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「天国を目指す旅人・クリスチャン」

 

聖  書  ヨハネによる福音書 14章1節―3節

14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

ルカによる福音書 23章39節―43節

23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 

はじめに

 

12月は、聖書のいろいろな箇所を自由に選ばせていただいてお話をしたいと思います。本日は、天国についてお話をします。クリスチャンは、もちろんこの世での人生の歩みをします。しかし、この世に終着駅があるわけではありません。クリスチャンの終着駅は天国です。そこで、クリスチャンは、天国を目指す旅人と言われるわけですが、今日は、わたしたちクリスチャンの終着駅である天国についてお話をします。



1.私は天国に召されるかもしれないという状況に置かれました

 

 クリスチャン作家の三浦綾子さんは、「自分にはまだ死ぬという仕事が残っている」と言いまして、死に直面しましたが、人はだれでもいつか死に直面するのです。死は、旧約聖書の創世記2章15節から17節で言われていますように、人間の不従順とに対する神からの刑罰です。そして、死は、祝福の神から分離されること、魂とからだが分離されることなので、わたしたち人間にとっては本能的に不安と恐れをもたらすものです。しかし、わたしたち人間はいつか一人ひとり死に直面しなければなりません。

わたしも死に直面しました。わたしの場合は次のようでした。わたしは8月27日午後4時ごろ、突然、食道が破裂し激痛と呼吸困難に陥り、助かるかどうか分かりませんでしたが、救急車で救命救急センターに運ばれました。まず検査が行われました。CTスキャンにかけられました。すると肺に何かがたまって異常な状態になっていることがわかりました。続いて、レントゲン検査が行われ、胃から3センチか4センチ上の食道部分が破れていることがわかりました。

肺にたまっていたのは、食道の破れた部分から飛び出した胃に入っていた食べ物でした。そこで、突発性の食道破裂であることが確認されました。わたしは、検査の間、心臓部分の激痛と呼吸困難で意識がなくなったり、意識が戻ったりしていましたけれども、検査後、担当の医者が私に向かって「佐々木さん、重篤ですよ。食道が破裂していますよ。」と言ったのを覚えています。

「重篤」というのは、「重態」の「重」に「危篤」の「篤」と書きますが、「危篤」につながる危険な状態を表す言葉です。それで急いで手術に入るということになりました。そしてわたしはそれ以後何も覚えていません。それ以後、手術室に運ばれ、全身麻酔を打たれ、30分後には手術が始まり、5時間かかりまして、終わったのは夜中の12時過ぎでした。それからのことは何も覚えていません。意識が少し戻ったのは4日目でした。そして、本格的に意識が戻ったのは5日目でした。4日目に意識が少し戻ったとき、わたしが家族に最初に聞いたことは、「今、何時」ということでした。すなわち、わたしは、自分が救急車で運ばれて手術を受けたその同じ日とまだ思っていました。でも、家族の者たちはわたしが日を誤解していることがすぐ分かりまして、それから4日目であることを教えてくれましたので、わたしはびっくりしました。

わたしが一番最初に気付いたことは、苦しくて痛いということでした。そのときは人工呼吸器をつけていまして、呼吸もまだ苦しい状態でした。また、40針から50針縫っていましたので傷跡がズキズキ痛み、体全体にも激痛を感じていました。「こんなに痛いことがあるのか」という感じでした。こうして病院での生活が始まりましたが、わたしは毎日2つのこと祈りました 

1つは、神様の御心であればもっと生かしてほしいという祈りでした。わたしは牧師として30年ほど歩んできましたが、牧師としての働きはまだ途中です。南浦和教会の方々とともに21世紀の日本において教会を立てていく仕事もまだ途中です。そして、南浦和教会の皆さんとともに教会を立てていく仕事が中心ですが、他にもまだ途中の仕事があります。

東部中会の前進と発展のためにわたしがなすべき仕事も途中です。東部中会と東北中会が協力して行っていく東日本伝道協議会の前進と発展のためにわたしがなすべき仕事も途中です。大会、すなわち、教派の前進と発展のためにわたしがなすべき仕事も途中です。改革派神学研修所のためにわたしがなすべき仕事も途中です。日本における改革派神学の前進と発展のためにわたしがなすべき仕事も途中です。特に、ウェストミンスター信仰基準の研究も途中です。大会60周年の「終末の希望についての信仰の宣言」の作成も途中です。こうして、すべてのことが途中ですので、わたしは、神様の御心であれば、さらに命を与えられて、これらのことを行いたいと祈りました。

そして、祈りはもう1つありました。神さまの御心は、わたしの地上生涯が終わって天国に行くことかもしれません。そこで、地上の生涯が終わって天国に行くことが神さまの御心であれば、それに従順に従えるようにしてくださいという祈りをしました。では、「地上の生涯が終わって天国へ行くことが神さまの御心であればそれには従順に従います」という祈りを、いつしたかというと夜寝るときです。

入院していますと昼間は結構いろいろな用事があるあるのです。担当医による回診があります。朝昼晩と看護婦さんが来て体温や血圧を測ります。採血をすることもあります。点滴を何本もします。1本3時間ぐらいかかります。3回の食事があります。最初は作ったバイパスから、流動食を直接胃に流します。その後、縫い合わせた食道が使えるようになってからは、おかゆを食べるようになります。家族の者たちとの面会があります。自分の症状を家族の者に話します。家族の者たちから教会の様子などを聞きます。

こうして、昼間は結構いろいろな用事があります。しかし、暗い夜がきます。夜にすることは寝ることだけです。寝ると言っても痛みと苦しみでぐっすり眠るということはありませんでしたが、でも寝ます。そしてこのときこそ、「自分はこれから目を閉じて眠るけれども、気がついたら天国にいるかもしれない。」ととても強く毎日のように思いました。そこで、天国への備えのお祈りをしたわけですけれども、同時に、天国について考えました。特に2つのことについて考えました 1つは、天国が本当にあるということです。もう1つは、自分は今痛くて苦しいけれども、天国には、痛くて苦しいということがないということです。天国には、平安と喜びと楽しみとだけがあるということです。

 

2.天国は本当にあります

 

 わたしは、天国は本当にあるということをどのようにして確認したかと言いますと、自問自答して確認しました。自分のうちの1人が「天国は本当にあるのか」と問いを出します。それに対し、もう1人の自分が答えます。「天国は本当にある」「なぜ天国がほんとうにあると分かるか」「聖書に書いてあるから」「聖書のどこに書いてあるか」「聖書のいろいろな箇所に書いてある」。

例えば、ルカによる福音書の16章19節以下のいわれる「金持ちとラザロ」のたとえ話において、イエス様は天国を「アブラハムのふところ」(口語訳)という言い方で教えた。それゆえに、天国は本当にある。また、ヨハネによる福音書14章で、イエス様が弟子たちに別れの説教をしていますが、その中で、イエス様は「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と語って、天国を父なる神のもとにある住まいとして教えた。それゆえに天国は本当にある。また、ヘブライ人への手紙の11章16節では、天国が「天の故郷」また天にある都として教えられている。だから、天国は本当にあるというふうに自問自答して確認しました。

そこで、天国のあることを教える最もよく知られた箇所と言えるヨハネによる福音書14章1節から3節を見ましょう。この流れはどんな流れかと言いますと、別れの説教、送別説教といわれるところです。イエス様は十字架にかかる前の日の夜、弟子たちと最後の晩餐をしました。

そのときに、別れの説教をしました。イエス様は弟子たちと別れて人々に捕らえられ、不正な裁判を経て十字架にかけられることになります。そこでイエス様は、御自分は弟子たちと別れることになることを語りました。すると、弟子たちは心が騒ぎ、とても不安を感じました。イエス様は、弟子たちが生けるまことの神を信頼し、同時に、その生けるまことの神から遣わされた神の子にして救い主である御自分をも信頼して、不安に陥らないように求めました。 

そして、御自分が弟子たちから別れるのは、弟子たちが地上の生涯を終わったときに、弟子たちを迎え入れる天国を備えるためであることを教えたのです。すなわち、イエス様は、弟子たちと別れて人々に捕らえられ、不正な裁判を経て、十字架にかけられて死に、3日目によみがえり、40日間弟子たちと過ごした後に天の父なる神の右にお帰りになりますが、それは、救いの道を開いて、イエス様を信じた弟子たちが地上の生涯を終わったときに、弟子たちを迎え入れる天国を準備するためでした。こうして、地上の生涯を終った弟子たちは、天国においてイエス様と再びともにいることができるようになるのです。

3節の後半を見ますと「戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」あります。これは何を教えているかと思うのです。十字架の死と復活を経て天にお帰りになったイエス様が再び地上の弟子たちのところに戻って来るというのがどういうことかと思うのです。この表現で、聖霊降臨、ペンテコステの後、聖霊の働きによって、イエス様がいつも地上の弟子たちとともにいてくださることを表していると考えられます。

この箇所を見ますと、わたしたちは天国についてとても重要な真理をいくつも確認することができます。たとえば、まず天国というものが本当にあるということが確認できます。「わたしの父の家には住む所がたくさんある」という表現で天国のあることが語られています。

ですから、天国は本当にあるのです。ついで、天国は、「父の家」と語られることによって、天国は、父なる神がいます天上にあることが確認できます。すなわち、天国は地上にはありません。目に見えない天上にあります。また、天国は、「たくさんある」と言われていまして、イエス様を信じる弟子がどんなにたくさんいても全員が行ける場所であることを教えています。

人数に制限がないことが確認できます。また、3節後半で「わたしのいる所にあなたがたもいることになる」とありまして、天国にはイエス様御自身がともにいてくださることがわかります。天国はわたしたちを愛して救いのご計画を立ててくださった父なる神様のいますところであり、同時にその救いのご計画にもとづいて、わたしたちを愛して十字架で罪をあがなってくださったイエス様のいますところです。そこへ、弟子たちは迎え入れられ、また、イエス様を信じるわたしたちも迎え入れられるのです。

こうして、天国というものが本当にあることが確認できます。この御言葉は、天国が本当にあることを教える大切な御言葉です。そこで、わたし自身も、入院しておりまして、この御言葉で天国が本当にあることを確認しました。もちろんわたしはクリスチャンとして以前から天国があることを固く信じて疑いませんでしたけれども、入院して、自分は、今晩眠っている間に地上の生涯が終わるかもしれないという状況の中で、この御言葉によって改めて、天国が本当にあることを確認したのです。天国は本当にあります。わたしたちは、天国があることを教えるこの御言葉を幼子のような素直な心をもって受け入れましょう。天国があることを教えることができるのは聖書だけです。聖書の言葉を信頼しましょう。

 

3.天国は平安と喜びと楽しみだけが満ち溢れるところです

 

わたしは、もちろん、クリスチャンですから、天国には苦しみや痛みはなく、あるのは平安と喜びと楽しみであるということを前々からよく知っていましたけれども、しかし、入院していて、大きな苦しみと激痛にありましたので、このまま苦しみと激痛を天国に引きずることはないということを確認したかったのです。

そこで、わたしはまた自問自答しました。「天国には苦しみや痛みはないのか」と自分に問いかけました。するともう1人の自分が答えました。「天国には苦しみに痛みはない」。「では、どうして天国には苦しみや痛みがないことは分かるのか」。「それは、聖書に書いてあるからである」「聖書のどこに書いてあるか」「いろいろなところに書いてある」たとえば、イエス様の弟子のパウロは、フィリピの信徒への手紙の1章23節で、「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」と言っているけれども、この表現は、天国には、苦しいことや痛いことや悲しいことが全くなく、また罪のない状態においてキリストと親密に交わることによって完璧に満たされることが教えられている、それゆえに、天国には苦しいことや痛いことがないことがわかる。

また、ヨハネの黙示録14章13節で「彼らは労苦を解かれて安らぎを得る」と言われていて、苦労や悲しみやつらいことがあるのは地上においてだけであり、天国に入るときにはそれらからすべて解放されて、平安の中に置かれることが教えられている、それゆえに天国には苦しみや痛みがないことがわかる。そして、さらに、天国に苦しみや痛みがないことは、なんと言っても、十字架上で悔い改めた強盗に対してイエス様が「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と語って、天国のこと楽園、すなわち、楽しみの園と教えたことにおいて十分にわかるというふうに自問自答して、天国には苦しみや痛みがないことを確認しました。

そこで、ルカによる福音書23章39節から43節を見ましょう。この流れはどんな流れかと言いますと、イエス様と一緒に十字架にかかった2人の強盗のうちの1人が悔い改めてイエス様を信じたときに、恵みによって天国に入れられることが約束された場面を描いています。その日、エルサレム郊外の処刑場であったゴルゴタの丘の上に3本の十字架がたちました。真中にイエス様がつけられ、両わきに強盗がつけられましたが、1人の強盗は最後までイエス様をののしり続けました。しかし、もう1人の強盗は、十字架上におけるイエス様の言葉や態度を見ていて、イエス様が約束のメシア救い主であることを聖霊の働きを心に受けて悟り、悔い改め、イエス様を信じました。そこで、約束のメシアは、世の終わりに再び出現して「御国」、すなわち神の国をたてて信じる人々を入れるときに、自分も神の国に入れてくれるように願いました。  

すると、イエス様は、確かに、世の終わりに再び出現して栄光の神の国を建て、信じる人々を入れるのですが、その神の国が建てられるまでは、信じた人々は、死んで地上生涯が終わったときには楽園、すなわち、天国に入って待つことを教えたのです。今、特にわたしたちは43節後半の「楽園」という言葉に注目しましょう。「楽園」というのはもともと「パラダイス」という言葉です。

これまでの口語訳聖書も「パラダイス」となっていました。「パラダイス」というのは、もともとは「楽しみの園」とか「喜びの園」という意味です。すなわち、楽しみに満ち溢れているところ、喜びに満ち溢れているところという意味です。もちろん、苦しみや痛みなどありません。苦しみや痛みがあれば、「楽園」、「パラダイス」にはなりません。こうして、キリストを信じた人が死んで地上の生涯を終わって入る天国は、楽しみや喜びで満ち溢れているところであることがわかります。ではなぜ、天国が楽しみや喜びで満ち溢れているところなのかというと、それは、イエス様が一緒にいてくださるからです。そして、イエス様との完全な愛の交わりに置かれるからです。

そこでイエス様も、「わたしと一緒に楽園にいる」と言われたのです。天国が楽しみと喜びと平安で満ち溢れているのは、わたしたちを愛して罪のあがないをして下さるイエス様とのこの上ない親密な交わりに置かれて満たされるからです。そして、ここで忘れてならないすばらしいことがあります。それは、イエス様の配慮です。イエス様は、この強盗に天国を約束するのに、「楽園」と言いました。

なぜ「楽園」という言葉を使ったのでしょう。「楽園」という言葉を使わなくても、今日の話の最初で見ましたように、天国を表す「アブラハムのふところ」や「父の家にある住まい」や「天の都」や「天の故郷」と言ってもよかったのではないでしょうか。「あなたは今日わたしと一緒にアブラムのふところにいる」「あなたは今日わたしと一緒に父の家にある住まいにいる」、「あなたは今日わたしと一緒に天の都にいる」、「あなたは今日わたしと一緒に天の故郷にいる」と言ってもよかったのではないでしょうか。そのように天国を表す言葉はたくさんあるのになぜ、十字架上の強盗に対しては「楽園」といったのでしょうか。

その理由は、「楽園」という言葉が、十字架上で苦しむ強盗に対して一番慰めと励ましになったからです。イエス様御自身もそうでしたが十字架上の強盗も、十字架につけられて苦しみと激痛のただ中にありました。十字架につけられる前には、背中を鞭で打たれました。その鞭は、皮ひもの先に小さな鉛の玉がたくさん付いていたり、あるいは魚の骨がたくさん付いていました。そのため、その鞭で背中を打たれれば背中の皮は破れ、肉は裂け、血が流れ出ています。また十字架につけられるときには、両手両足に太い釘を打ち込まれます。そしてそこからは、血が流れ出ます。これらすべては計り知れない苦しみと計り知れない激痛をもたらします。

こうして、その強盗は、計り知れない苦しみと計り知れない激痛にありました。そこで、イエス様は、その計り知れない苦しみと計り知れない激痛が天国まで続くものではないこと教えて、慰め、励まし、勇気と希望を与えるために、天国を「楽園」、「パラダイス」、「楽しみに満ちあふれた園」、「喜びに満ちあふれた園」と語ったのです。

これはイエス様の配慮です。苦しみと激痛に置かれていた強盗にとってこれから自分が入れられる天国が、苦しみや激痛がない、楽しみと喜びに満ち溢れたところとして教えられたことは、本当に慰め、励まし、希望になったでしょう。この強盗は、自分がまもなく死んで入れられる天国には苦しみや痛みがないこと、自分を愛してくれるイエス様とともにいて、イエス様との交わりの中で、平安と楽しみと喜びに満たされることを確信して息を引き取ることができたでしょう。こうして、苦しみと激痛に置かれていた強盗に対して、天国を「楽園」、「パラダイス」、「楽しみの園」、「喜びの園」として語ったことは、地上の生涯を終わりゆく者に対して最も適切な配慮をしてくださる救い主イエス様のすばらしい姿です。

わたしも入院しておりまして、十字架上の強盗ほどではありませんが、苦しみと激痛の中にあったときに、この箇所を思いめぐらしました。そして、天国が「楽園」、「パラダイス」と言われていることのすばらしさと配慮に気がつきまして、とても励まされ慰められました。そして、自分がクリスチャンであってよかったなあと思いました。キリスト教信仰を持って人生を歩んでよかったなと思いました。

 

結び

 

こうして、わたしは、今回の出来事を通して、天国について大事なことを聖書から教えられ感謝しました。そして、天国に関することは、もちろん、わたしだけでなくすべてのクリスチャンにかかわることです。クリスチャンであってもいつかは地上の生涯が終わって、天国に入るときが必ず来ます。いつ来るかわかりません。それは、主権者なる神様だけがお決めになることです。わたしたちとしては、いつ地上の生涯が終わっても、恵みによって確実に天国に入れることを確信して地上の旅路を歩んでいけばよいのです。クリスチャンは、天国を目指す旅人です。わたしたちは、天国を聖書と信仰によって確信しながら、地上の旅路を神を賛美しながら歩んでいきましょう。