「信仰と人生」  病気における神の恵みの説教

 

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「永遠の命」

聖  書  ヨハネによる福音書 3章16節

 

3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

ヨハネによる福音書 17章2―3節

17:2 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。

ヨハネの黙示録 22章1―2節

22:1 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。2 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。

 

はじめに

 

今日は永遠の命についてお話をします。キリスト教の大きな特色の1つは永遠の命の恵みが与えられることです。そこで、わたしたちも永遠の命に自分が生かされ日々喜んで歩んでいきたいと思います。永遠の命についてのわたしの経験と合わせてお話をします。

 

1.永遠の命は神に造られた人類が目指すすばらしい目標です

 

永遠の命とは、平たく言えば、いつまでも生きているということです。死ぬことなしに限りなく生き続けるということです。そして、人類にはこの願望がいろいろな形であらわれました。たとえば、エジプトのミイラがそうでしょう。死によって魂が抜けますが、でもまたいつか魂が体に戻ってきて生き返り、永遠に生きていくことを願って、体をミイラにしました。また宗教はいろいろな形で人が死んだ後も生き続けることを教えます。

日本の多くの人々の心に素朴に根付いている仏教の輪廻思想も関係があります。人は死んでも、また、別の人になって生まれてくる、これを繰り返すということを率直に信じている人はたくさんいるでしょう。また、人は死んでも魂となって生きていてお盆には自分の家に帰ってくることができると信じている人々もたくさんいます。そのように永遠の命という言い方をしなくても、人は死んでも存在し続けることを教えます。それは、永遠の命への願望の形、異教化した形といえるかもしれません。

以前に、テレビのアニメで「銀河鉄道999」というのがありました。主人公の哲郎という少年が、人間の今の体では必ず死ぬときがくるので、永遠に生きるため、永遠に生きられる機械の体を求めて宇宙を旅していくという筋でしたが、これも、永遠の命の願望の形といえるでしょう。

そのように、人類はいつまでも生きていくことを望むものです。聖書の言い方でいえば永遠の命を望むものです。では聖書は、永遠の命についてどのようなことを教えるのでしょう。すると、聖書は、永遠の命は、神に造られた人類が目指すべきすばらしい目標であることを教えるのです。そこで、わたしたちは創世記2章を見ましょう。ここはどんな流れかと言いますと、エデンの園において、わたしたち人類の代表であったアダムの従順に対して永遠の命が約束されました。エデンの園の中心には善悪を知る木と命の木、すなわち永遠の命の木があって、もし、アダムがある期間、善悪を知る木の実を食べなければアダムとその子孫であるわたしたち全人類に永遠の命を与えること約束しました。しかし、もし、神様の命令に背いて罪を犯せば、死が罰として課せられるという約束でした。

創造されたままの人類はまだ永遠の命がありませんでした。神様の御心とご計画は、人間が御自身への信仰と従順を表すことによって永遠の命を与えることでした。神様の御心は、人類が永遠の命を持って御自分との愛の交わりに喜んで永遠に生きていくことであったのです。従って神様によって創造された人類の目指すべきすばらしい目標が永遠の命でした。しかし、代表アダムとその妻エバが蛇を用いたサタン、悪魔にだまされ、善悪を知る木の美を食べ、神に背くことにより、すばらしい目標であった永遠の命を自分のものとすることができませんでした。否、永遠の命を自分のものにするどころか、罪人に転落し死ぬ者になりました。

創世記の3章22節を見ますと、神様は、人類が御自分に背いて罪人になったことを宣言しています。すなわち、人類は、食べてはいけないと命令されていた善悪を知る知識の木の実をとって食べたことが語られています。また、さらに、神に背いたゆえにその資格がないのに、エデンの園の中央に生えている命の木の実を強引に取って食べて、永遠に生きようとする罪を犯すかもしれない者として、神様の口から語られています。

これらの表現で、人類が創造主なる神様に背く罪人に転落したことを表しています。そして、次いで24節を見ますと、神様は罪を犯したアダムとエバをエデンの園から追放し、彼らが、エデンの園に勝手に入って命の木の実を食べて永遠に生きる者にならないようにしたことが語られていますが、この表現で、人類が自らの罪によってすばらしい目標である永遠の命を得ることができなかったことを明白にしています。ですから、永遠の命というのは神様に造られた人類本来のすばらしい目標であったのです。わたしたちが、死ぬことなしに永遠に生きたいと本能的に願うのは、それは、神様に創造されたわたしたち人類のすばらしい目標であるからです。その願望が本能的にあると言えるでしょう。

 

2.永遠の命はキリストを救い主と信じることによってのみ与えられます

 

 永遠の命は救い主キリストのいるキリスト教によってだけ得られるのです。これははっきりしています。キリスト教以外によっても永遠の命は得られるということは全くありません。キリスト教以外に永遠の命はありません。わたしの経験でもそうです。キリスト教に接するまで、永遠の命について話題にしたり、語り合ったり、教えられたりなどしたことはありませんでした。家庭でも、学校でも、友達同士の会話においても永遠の命についてどう思うかなどと話題にし合ったというようなことはありませんでした。

また本でも永遠の命があるなどということを読んだことがありませんでした。 わたしが永遠の命について聞いたのは、聖書に接し、教会に行くようになってから、すなわち、キリスト教に触れてからです。わたしは、青年時代にキリスト教に触れましたときに、キリスト教に対する反発というのはまったくありませんでした。永遠の命があるということを聞いたときに永遠の命なんてあるものかなどとは思いませんでした。むしろ、逆に、永遠の命というものがあるのだ。それなら、自分もぜひ欲しいと強く思いました。

わたしが青年時代にキリスト教を求めたのは、不安であったからです。経済的な裏付けがないのに、どうしても勉強したくて、高校卒業後1年間勤めていた会社を辞めて大学に入りました。そのため、わたしの人生はどこでどうひっくり返るか分かりませんでした。わたしは不安で不安でたまりませんでした。ビクビクしていました。先が全く見えません。そこで、わたしは自分の人生を生涯にわたって根底からしっかり支えてくれるものを必死で求めていました。そして、なぜそう思ったのかわかりませんが、聖書にわたしの人生を支えるものがあるのではないかと思いました。今思えば、そう思ったことが神様の導きであったと信じていますが、それでキリスト教を求めました。

私が求道しているときに、しばしば聞いた永遠の命について教える御言葉が、ヨハネによる福音書の3章16節でした。ここには、永遠の命という言葉が出ています。永遠の命という言葉は、ヨハネ福音書のひとつのキーワードとなっています。ヨハネ福音書は、ヨハネの手紙一、二、三、およびヨハネの黙示録とともに、イエス様の弟子のヨハネが書いた、あるいは、ヨハネから聞いて書いたと言われておりまして、しばしばひとまとめにしてヨハネ文書と言われますが、ヨハネ文書においては、永遠の命、またもっと簡単にし、命という言葉が、キーワードとしてよく出てきます。新約聖書全体において永遠の命、また、命という言葉は120回ほど出てきますが、その内、ヨハネ文書には、55回ほどできまして、半分弱を占めています。従って、ヨハネ文書がいかに、永遠の命を強く意識して書いているかがとてもよくわかります。

ヨハネ文書は、神に造られた人類のすばらしい目標である永遠の命がどのようにして与えられるかを意識的に教える書物であることがわかります。ヨハネ文書は永遠の命の文書です。では、ヨハネ文書は、神に造られた人類が目指すべきすばらしい目標である永遠の命はどのようにして与えられると教えているかと言いますと、その方法は、人がイエス・キリストを自分の救い主と信ずることによってであることを明白に教えるのです。そこで、3章16節でも「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と記して、神の独り子であるキリストを信じるように強く勧めています。ヨハネ文書に信じるという言葉は100回ほど出てきまして、とても多いのです。

わたしも若いとき、求道しているときに、教会で繰り返しこの御言葉を教えられ、永遠の命を自分のものにする方法はイエス・キリストを自分の救い主と信仰することであることを知り、実際に信じました。そして、本当に、真実に永遠の命がわたしにも恵みとして与えられました。そして、そのときから今日に至るまで、40年近く永遠の命の恵みに生かされて喜んで人生を歩んで来ました。永遠の命の恵みに生かされる人生は本当に豊かですばらしいものでした。

たとえ、わたしが突然の食道破裂で57年間の地上の人生が終わっていたとしても、悔いのない人生として、神様に心から感謝できるものでした。なぜなら、神に造られた人類が目指すべき本来のすばらしい目標である永遠の命を自分のものにして喜んで歩めたからです。このことは何もわたしだけではなく、クリスチャンだれでも同じです。クリスチャンは、神に造られた人類が目指すべき本来のすばらしい目標である永遠の命を恵みによって自分のものにしたゆえに、その人生に紆余曲折があっても、自分は生まれてきて本当によかったと言える悔いのない豊かな計り知れない価値のある人生を歩むことが必ずできるのです。永遠の命は本当にあります。キリストを自分の救い主と信じる人にはだれにでも恵みとして与えられるのです。

 

3.永遠の命の中心は神様を知ることです

 

今日のお話の最初の部分で、永遠の命は、平たく言えばいつまでも生きている、死ぬことなしに限りなく生き続けるということであると言いました。そして、その通りなのですが、しかし、実は、永遠の命には中心、内容というものがあります。それがなければ永遠の命は成り立たないというものがあるのです。わたしはあるときにオランダのキリスト教のバーフィンク先生のものに目を通していました。すると、永遠の命はただ漠然と永遠に生きるのではなくて、中心がある、内容がある、それは神様を知って神様との交わりを喜びながら永遠に生きることである、これがなければ永遠の命は成り立たないとバーフィンク先生は言うのです。

本当にその通りなのです。神様に造られた全人類が目指すべきすばらしい目標である永遠の命というのは、神様を知り、神様との交わりを喜び、満たされながら永遠にいつまでも生きていくという豊かさで成り立つのです。これがなければ永遠の命は空虚になってしまいます。わたしは永遠の命には、豊かな中心と豊かな内容があるということを知りましたときに、ひとつの聖句が頭に浮かんできました。ヨハネによる福音書17章2節と3節です。

特に3節です。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とありまして、まさに、永遠の命の中心と内容は、神様を知ってその交わりを喜ぶことであることがそのものずばりで言われています。ここは、永遠の命の中心、内容を教えています。これがなければ永遠の命は成立しないというものを教えています。

特にここで大事なことは、2つあります。1つは、神様を知らなければ永遠の命はないということです。わたしたちはここで疑問を持つかもしれません。永遠の命は、神を知ることであると単純に言わないで、永遠の命は、神様と神様が遣わしたキリストを知ること、というふうに、神様とキリストを並べたのかと思うのですが、これはユダヤ人の誤りを排除しているのです。

当時の律法学者やファリサイ派に指導されたユダヤ人たちは旧約聖書によってただ1人のまことの神を知っていました。ではそのユダヤ人たちは、永遠の命を持っていたかと言いますと持っていませんでした。なぜなら、永遠の命は、神様から遣わされて罪の赦しと永遠の命による救いを開いたイエス・キリストを信じなければ与えられないからです。従って、ユダヤ人たちがイエス・キリストを除いて、ただ1人のまことの神を知っていると言ってもそこには永遠の命はありません。 

永遠の命は、ただ1人のまことの神とそのただ1人のまことの神に遣わされたイエス・キリストを知っているクリスチャンだけに恵みとして与えられるのです。ただし今日わたしたちが、キリストも信じることを含めて神様を知るという場合には、もちろん、簡単な形で永遠の命はただ1人のまことの神様を知ることであると言って差し支えないのです。そして、もう1つここで大事なことは、「知る」ということの意味です。ここでの「知る」ということは、実はただ単に知的に知るということではなく、愛の交わりで知る、そして、その交わりを喜ぶという意味の知るです。

「ああ、神様と神様が遣わしてくださったキリストがいるのですか。そうですか」と単に知的に知っても永遠の命にはなりません。永遠の命がその人に生じるのは、その人が神様と神様が遣わしてくださったイエス・キリストを信じ、その愛の交わりを喜び、満たされることによってです。ですから、ここでの知るというのは、ただ単に知的に知るということではなく、愛の交わりで知って、その交わりを喜ぶことを表すのです。

こうして、永遠の命の中心、内容は、神様とキリストを愛の交わりの中で知って喜ぶことです。これは本当にすばらしいことです。神様を知ることは常に計り知れない喜びをもたらし、人を真に生かすのです。皆さんも永遠の命の恵みを与えられ、神様およびキリストとの愛の交わりの中で生かされ喜んで歩んでいるのです。それは本当にすばらしいことで、心満たされることです。

 

4.永遠の命は世の終わりのキリスト再臨の時に完成します

 

 永遠の命は、キリストを信じたときに与えられ、人を生かしはじめますけれども、完成するのは世の終わりです。永遠の命には段階があります。永遠の命の完成がいきなりあるわけではありません。その段階をお話しますとこうなります。神様は、人類を創造したときに、人類が永遠の命を持って、御自分との愛の交わりに永遠に喜んで生きていくことを願い、御自分の命令に従順に従えば永遠の命を人類に与えようとして、人類の代表アダムをテストしました。

しかし、代表アダムは妻のエバとともに神の命令に背いて罪人となり永遠の命を得ることができませんでした。逆に罪人に転落しました。そこで、神様は、人類の罪を赦したうえで永遠の命を恵みとして与えるために、救い主メシア・イエス・キリストを約束しました。そして、旧約時代においては、神様を信じ、約束のメシアを信じた人々が永遠の命の恵みを与えられました。アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデをはじめとする旧約の信仰者は永遠の命を恵みとして与えられました。

やがて神様の御心の時がきて、救い主メシア・イエス・キリストが出現し、十字架の死と復活によって、罪の赦しと永遠の命による救いの道を開きました。キリストを信じた人が、永遠の命を恵みとして与えられ、永遠の命に生かされて地上の人生を喜んで歩み始めます。しかし、永遠の命が完成するのは、キリストが再臨する世の終わりです。キリストが再臨する世の終わりが来る前に、地上の人生が終わるクリスチャンは、天国で永遠の命が完成する世の終わりを楽しみに待つのです。では、キリストが再臨する世の終わりには、永遠の命はどのように完成するのでしょうか。すると、クリスチャンは、栄光に輝く神の国において永遠の命は最高度の豊かさで完成するのです。

永遠の命はすでに始まっています。そして、今でさえ永遠の命に生かされ、神様との交わりで喜びに満ち溢れているのであれば、キリスト再臨の世の終わりに出現する栄光の神の国で、永遠の命が完成したときには、その豊かさは計り知れないものです。わたしたちは、永遠の命の完成を描く聖書の箇所を見ましょう。ヨハネの黙示録22章1節、2節です。

キリスト再臨の世の終わりの時とはどのようなものであるかと言いますと、救いが完成するときです。クリスチャンは、永遠に生きられる霊の体に復活します。そして、キリストとキリストを遣わして下さった父なる神様とともに、愛の交わりに永遠に喜んで生きていきます。では、クリスチャンが永遠に生きていく世界はどんな世界かと言いますと永遠の命が最高度に豊かで充満した新しい世界です

わたしたちが今住んでいるこの世界は、罪に染まっていますが、キリストが再臨する世の終わりには、罪のない新しい世界に生まれ変わります。それは、義の住む新天新地と呼ばれたり、栄光に輝く完成した神の国と呼ばれたり、神の臨在する新しいエルサレムの都と呼ばれるものですが、その新しい世界は、永遠の命が最高度に豊かで、永遠の命が充満しています。川の両側に永遠の命の木がずらりと生えていたというのは、永遠の命の豊かさと十分さを象徴します。  

 そしてさらに、永遠の命の木は、年に12回、すなわち毎月、永遠の命の実を結ぶという表現で、これまた永遠の命が最高度に豊かで充満していることを表しています。これは、かつて人類が創造されてそこに住むようにされたエデンの園以上の豊かさです。エデンの園には、中央に永遠の命の木が1本あるだけでした。しかし、世の終わりにクリスチャンが住む新しい世界は、永遠の命の木がたくさん生えています。エデンの園とは比べものにならないほどの永遠の命の豊かさと充満が感じられます。クリスチャンは、完成した永遠の命に生かされ、考えも及ばぬ喜びに満たされるのです。

永遠の命と言いますと、わたしには1つの感慨深い思いがあります。毎年9月23日に秩父栄光墓苑の記念会があります。秩父栄光墓苑というのは首都圏の10教会ほどで持っているお墓です。南浦和教会も参加しています。そして、召された方々が納められていきますが、9月23日には、その家族の方々や身内の方々や関係者が集まりまして、召された方々を覚えます。そのときには、参加している教会の牧師が順番で説教することになっており、今年はわたしがすることになっていました。

そこでわたしは、永遠の命についてお話しようと思って夏に準備をしていました。そして準備はできていましたけれども、8月末に突然の食道破裂で倒れ、助かるかどうか分かりませんでした。幸い助かりました。しかし、手術して入院しておりましたので、記念会で説教することはできませんで、代わりの牧師が説教しました。わたしは、自分が今生きていることの不思議さと厳かさを感じました。

命や人生については自分の思いを超える部分があるなあとしみじみ思いました。そして、生きているということは神様に生かされていることであると思いました。わたしは自分が恵みによって助かったのはなぜかと考えますが、それは極めて明白だと思っています。それは、永遠の命に生かされる人生がどんなにすばらしいかをわたしがさらに経験し、心から神様を賛美するためであり、また永遠の命の恵みに生かされる人生がどんなにすばらしいかを人々に伝えるためであると確信しています。

 

結び

 

このことは何もわたしだけではなく、クリスチャンはだれでも同じです。クリスチャンは、何のためにこの世の歩みをするのでしょうか。それは、永遠の命の恵みに生かされる人生がどんなにすばらしいかを経験して、心から神様を賛美するためであり、また、永遠の命の恵みに生かされる人生がどんなにすばらしいかを人々に伝えるためです。家族、身内、友人、仲間、近所の方々、職場の方々などに声をかけ教会にお誘いしましょう。そして、人々が永遠の命の恵みに喜んで生きられるように祈りましょう。