「我は身体(からだ)のよみがえりを信ず」     

震災からの復興と原発事故関係の1日も早い回復を続けてお祈りしています。
今年も5月になりました。5月は、「目には青葉山ほととぎす初がつお」と言われますが、確かに、「目には青葉」で、新緑が本当に目にきれいです。我が家のすぐそばの半田山という小さな山は、冬の間は、葉が落ちて樹木の茶色一色で死んだような感じでしたが、今は全山新緑で青々として目に本当にきれいで、心までも洗われるようです。また、近くの岡山大学正門前の銀杏並木も、若葉をつけ、目にとても新鮮です。
 さらに我が家の猫の額ほどの庭にも、いろいろな小さな植物の花がきれいに、また、可愛く咲いています。家内が、他の人からいただいて植えた名称がわからない小さな木も、釣鐘のような白い花をたくさん咲かせて可愛いです。また、自然に生えて出てきた植物たちも、それぞれに小さな可愛い花を咲かせて、きれいに着飾っています。「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどに着飾ってはいなかった」というイエスさまの言葉を思い起こさせます。
 また、近隣においては、白い花ミズキと赤い花ミズキが咲き揃い、これまた、とてもきれいです。神が創造された自然界は、春が来ると、ちゃんと春の装いをするのですね。
 ところで、4月は、受難週礼拝とイースター礼拝があり、どちらの説教奉仕もさせていただきましたが、イースターには、午前中のイースター礼拝説教奉仕の後、午後には岡山教会の墓地がある上道(じょうどう)墓園で、墓前礼拝の説教奉仕をさせていただきました。昨年の墓前礼拝に次いで2回目となりますが、昨年の墓前礼拝とともに今年の墓前礼拝も、わたし自身の復活信仰を強固にするのにとても益があり、神に感謝しました。
 もちろん、世の終わりに自分が復活することは、前々から固く信仰していました。そして、これまでにも、首都圏で現職の牧師をしていたとき、秩父栄光墓苑で墓前礼拝説教を数回しました。また、秩父栄光墓苑で、教会員のお葬式を何回もしてきまして、その都度、天国と復活の説教をしてきました。
 でも、今は立場が変わり、引退教師となり、また、年齢も、今年の3月1日で68歳にもなり、70歳近くになってきたこともあるのでしょう。また、今、わたしのホームページ「佐々木稔 キリスト教全集 説教と神学」において、ベルクーワの「キリストの再臨」という終末論の紹介と解説をしていて、個人終末と一般終末を考えている最中ということもあるでしょう。
 それらのこともあって、昨年と今年の墓前礼拝は、自分で復活の説教をしながら、復活の真理がわたしの心、魂、霊魂、精神に圧倒的力をもって迫って来て、わたし自身も確実に復活するのだという信仰がさらにとても強固にされるという経験をし、神に深く感謝しました。
 今年の墓前礼拝の説教個所は、コリント一15:39-41でした。短い説教です。少しだけ手を入れて、掲載したいと思います。

 

岡山教会上道(じょうどう)墓前礼拝説教

 

「すぐれた体への復活」

コリント一15:39-41

 

はじめに

 今日は、午前中は、会堂で、イースター礼拝を守りましたが、午後は、この上道(じょうどう)墓園で、墓前礼拝を行おうとしています。そこで、午前中のイースター礼拝においては、わたしたちの救い主、イエス・キリスト御自身が、十字架で死んでから3日目にお墓から復活したことをお話しましたので、この墓前礼拝においては、キリストを信じるわたしたちクリスチャンの体は、世の終わりに、終末に、よりすぐれた体に復活すること、よみがえることをお話したいと思います。
 宗教改革者カルヴァンは、人が、死の不安と死の恐怖を克服して生きる途は、人が死んだ後、天国に入れられることと、世の終わりに、永遠に生きられるすぐれた体に復活することを、信仰することによってであると言いましたが、本当にそうです。
 そこで、わたしたちも、死から復活した救い主のイエスさまを信仰し、天国と世の終わりの復活を固く信仰し、死に対する勝利の人生を、日々喜んで歩んでいきたいと思います。

 

1.コリトント教会には復活否定論者たちがいました

それで、墓前礼拝においては、コリントの信徒への手紙15章35節から41節までのお話をいたします。このコリントの信徒への手紙は、今日のギリシャ南部のコリント教会の諸問題を解決するために、使徒パウロが紀元55、6年ごろ、エーゲ海を挟んで、数百キロ離れたトルコ半島の西海岸のエフェソから書いた手紙と考えられています。
 では、ここの個所は、どんなことが語られているかと言いますと、クリスチャンの世の終わりの復活、よみがえりが語られています。クリスチャンには、世の終わりの復活が約束されています。しかし、コリント教会の中には、復活否定論者がいました。そこで、パウロは、自然界における神の偉大な力に目を向ければ、復活は十分確信できることを印象深く一度聞いたら忘れられない仕方で教えたのです。
 コリント教会の復活否定論者たちは、「死者は、どんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」と言いましたが、その意味は、死んで、お墓の中に埋葬されて朽ち果てた体は、形を失います。生前の体の形は最早ありません。骨だけになってしまいます。さらに、時間が経てば、骨さえも土に帰ります。そのように、死んで無くなる体を、再び、どのような方法で体を取り戻して、よみがえるのか、と疑問をぶっつけて、そんなこと考えられない。だから、復活などあり得ないと主張したのです。
 しかし、パウロは、復活否定論者に対して、彼らは、「愚かな人だ」、すなわち、霊的に無知で愚かであると言います。何故なら、復活は、人間の力でなく、万物を無から創造された神の全能の力でなされるので、いくらでも可能であるということを知らないからであると言っています。

 

2.今の体が死んで、その形を失ってから、よりすぐれた体に復活します

 さて、では、そのパウロは、体のよみがえりをどのように教えたでしょう。すると、神が創造した自然界から3点を引き出して、教えました。では、その3点の第1点は何でしょう。すると、植物の種は、土の中で死にます。しかし、よりすぐれたものとしてよみがえるのです。たとえば、麦の種を比喩として使えば、麦の種は、土の中で、種の体と言える種の形を失います。それは、種が死ぬことになります。しかし、後に、芽が出てきて、茎が伸び、葉が出て、よりすぐれた形の麦の穂としてよみがえるのです。
 このことは、何でもないことのようです。でも、よく考えてみれば、これは実は驚くべき素晴らしいことなのです。神が創造された自然界においては、種は死にます。すなわち、種の形を失います。しかし、よりよいものに生き返り、よみがえるのです。それなら、わたしたちの体も同じです。わたしたちの体も死んで、朽ち果て、骨だけになり、生きていたときの体の形を失います。でも、神の偉大な力により、永遠に生きられるよりすぐれた体によみがえることは、何らおかしくないのです。神によって創造された自然界でなされていることが、霊的にも生じるのです。
 「あなたが蒔くもの」とは、植物の種のことです。「死ななければ命を得ないではありませんか」というのは、種は土の中に蒔かれて、種の体と言える形を失います。そのことが「死ぬ」と言われています。「命を得ないではありませんか」というのは、種は土の中に蒔かれて、その形を失って死にます。しかし、それで終わりでなく、芽を出し、茎が伸び、葉が出て、よりすぐれた形の穂となってよみがえることが、「命を得る」と言われています。
 また、「あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は御心のままに。それに体をお与えになります。」とは、最初から、後でできるものを蒔く人はいないでしょうという意味です。すなわち、最初から、後で実る麦の穂を蒔く人はいないのです。最初は種を蒔いて、そして、後に、よりすぐれた麦の穂によみがえるのです。それと同じで、最初からよみがえりはないのです。
 復活もこれと同じで、クリスチャンと言えども、この世にオギャーと最初の生まれたときに、世の終わりに受ける、よりすぐれた復活の体を、誕生のときに受けるのではないのです。復活には、ちゃんと順序と秩序があって、生前の体が死んで土の中で朽ち果てて、その形を失ってから、後(あと)で、世の終わりに、永遠に生きられるよりすぐれた体に復活するというのが創造者である神の御心なのです。
  そこで、パウロは、自然界の創造者である神は、御心のままに、麦をはじめとする植物の種一粒一粒にそれぞれの体と言える形を与え、その体と言える形が土の中で死んで、体と言える種の形を失った後で、はじめて、種よりもすぐれた麦の穂に実れるように、自然界に日常的に生じていることが、世の終りに霊的にも生じると教えるのです。クリスチャンは、この世に生まれたそのときに、よりすぐれた復活の体を受けるのではなく、体が死んで、その形を失ってから、後(あど)で、世の終わりに、永遠に生きられるよりすぐれた体に復活するのです。

 

3.神の創造した世界には、いろいろな体があります

 こうして、パウロは、神が創造した自然界からの真理を引き出して、体のよみがえりを教えましたが、では、その第2点は何でしょう。すると、神の創造した世界には、体と言われるものが、実にいろいろあるゆえ、神が復活の体、よみがえりの体をお造りになっても、何もおかしくないと教えます。
 考えてみますと、創造主なる神は、体と言われるものをいろいろ造られました。人間の体、獣の体、鳥の体、魚の体などいろいろです。陸地で生きるように造られた体は、人間の体と獣の体ですが、鳥の体は、空を自由に飛べる体です。何でのないことのようですが、空を飛べる体があるということは、よく考えれば驚くべきことでしょう。また、魚の体は、水の中で一生きられる体です。わたしたち人間の体は、水の中では数分しか生きられません。しかし、魚の体は違います。数年、あるいは、数十年、一生水の中で生きられる体です。これは、考えてみれば、実に驚くべきことでしょう。
 本当にそうです。陸で生きる体もあれば、空を飛ぶ体もあるし、水の中で生きられる体もあるし、さらに、両生類と言われる動物の体は、陸でも、水の中でも、どちらでも生きられる体です。不思議でしょう。神秘でしょう。どうして、いろいろな体があるのでしょう。それは、創造主なる神の栄光と知恵と力を表しているのです。
 それゆえ、永遠に生きられる復活のすぐれた体、よみがえりのすぐれた霊の体、再臨のイエス・キリストと同じ栄光の体があっても、おかしくないのです。創造主なる神は、永遠に生きられ復活のすぐれた体を、わたしたちクリスチャンのためにちんと用意してくださっているのです。何と、栄光に満ちたことでしょう。これらのことを知れば、わたしたちは、ひれ伏して、神に感謝するでしょう。

 

4.体と言われるものは、何も地上だけにあるとは限らず、天にもあります

 こうして、パウロは、神が創造したこの自然界から真理を引き出して、体のよみがえりを教えましたが、では、その第3点は何でしょう。すると、神の創造した世界には、体と言われるものが、いろいろありますが、体と言われるものは、何も地上だけにあるとは限りませんで、天にもあります。すなわち、天上の体と言われるもの、天体で、太陽、月、星がそうです。それらは、天にある体(からだ)、天上にある体、天体と言われます。
 そして、太陽、月、星の天上の体と言われるものは、それぞれに輝きをもっています。太陽には太陽の輝き、月には月の輝き、星には星の輝きがあります。そして、太陽と月は、ひとつづつしかありませんが、星は無数にあって、その輝きは星によって違います。輝きの強い星もあり、輝きの弱い星もあります。そのように、創造主なる神は、天上のいろいろな体さえも自由にお造りになるのであれば、復活の体、よみがえりの体も自由にお造りになるのです。
 「天上の体と地上の体があります」と言われていますが、「天上の体」とは、天体のこと、太陽、月、星のことです。それらが、それぞれ形をもっていることが、体をもっていることとして語られています。そして、「地上の体」とは、人間の体、獣の体、鳥の体、魚などの体ことです。
 そして、さらに、「天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています」とありますが、「輝き」というのは、太陽、月、星がもっている各々の輝きのことですが、「地上の体の輝き」というのは、地上の人間の体、獣の体、鳥の体、魚の体の各々の尊さをこの言い方で表しています。地上の人間の体、獣の体、鳥の体、魚の体は、太陽、月、星のように光を発することはありませんが、しかし、各々に、神に創造された尊さをもっているので、その各々の尊さをこの言い方で表しています。
 それで、ここで、パウロが言おうとしていることは、そのように、天上にも、輝きの違ういろいろな体があり、地上にも尊さが違ういろいろな体があるなら、尊さをもつ復活の体、尊さをもつよみがえりの体があってもおかしくないという意味です。地上のいろいろな体、さらに、天上にいろいろな体を主権をもって自由に造ることがおできになる創造主なる全能の神は、永遠に生きられる復活の尊い体、よみがえりの尊い体も自由に造って、クリスチャンのためにちゃんと用意してくださっているという意味です。創造主なる恵み深い神は、わたしたち、クリチャンの、今既に始っている救いの素晴らしい完成として、永遠に生きられる復活のすぐれた体を、世の終りに用意していてくださるのです。

 

結び

 こうして、パウロは、1世紀のギリシャのコリント教会の復活否定論者の誤りを排除したのですが、復活否定論者と言うのであれば、日本にもたくさんいるでしょう。たくさんいるどころか、大部分の人々が、復活などあり得ないと、すぐに言うでしょう。日本人の多くは、人は死んでも、また、ある期間が過ぎれば、この世に再び生まれてくるという輪廻転生を素朴に信じているかもしれません。それゆえ、今度生まれるときには、男に生まれてきたいとか、女に生れてきたいなどと平気で言うでしょう。
 でも、自分が他の人に生まれ変わる輪廻転生などということは、まったくありません。あるのは、聖書が教える復活、よみがえりで、キリストを信じている自分が、神との愛のまじわりに、言葉で言い表せない喜びに満ちあふれて、永遠に生きられるすぐれた栄光の体によみがえることがあるのです。
 教会は最初から、世の終わりの体の復活を固く信仰し、告白してきました。わたしたちは、毎週主の日の礼拝で、使徒信条を告白していますが、使徒信条にも、「・・・我は・・・身体(からだ)のよみがり、永遠の生命(とこしえのいのち)を信ず、アーメン」とあります。体の復活は、世々の教会の大切な信仰箇条です。
 それゆえ、わたしたち一人一人も、永遠に生きられるすぐれた体への復活をしっかり信仰し、死に対する勝利の人生を、この日本の地で、これからも日々喜んで歩んでいきたいと思います(完)。

 

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