伝道者の良い模範
- ヨハネ福音書15:16 -
[インマヌエル 下巻.8-25]
(ヨハネ福音書15:16) 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」
*** 伝道は教会の中心的な使命である。主は弟子たちを選び、召し出して世に遣わし、福音を宣べ伝えさせた(マルコ福音書3:13-15、ヨハネ福音書15:16、20:21)。
ピリポは初代教会の七人の執事の一人である(使徒行伝6:3-6)。彼は私たちに伝道のよい模範を示した。
[使徒行伝8:26-31] 「26 ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)27 そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、28 いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。29 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。30 そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。31 すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。」
1. 伝道者がまず知るべきこと
(1) 神は伝道のために人との出会いを備えられる。(使徒行伝8:27-29、16:13-35)
(2) 伝道は神がなさることであり、私たちはただ遣わされる者である。(使徒行伝8:26、29、第一コリント3:6-7)
「6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。7 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」(第一コリント3:6-7)
(3) 伝道は才能ではなく、祝福された業である。(使徒行伝8:35-38、第二コリント11:2)
「というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。」(第二コリント11:2)
(4) 伝道は先入観を持たないこと。
2. 伝道者のよい模範 ― ピリポの伝道方法(使徒行伝8:26-40)
(1) 神が遣わされる場所には行く。(使徒行伝8:26、8:5-8)
(2) 聖霊の声を聞くことができる恵みを慕う。(使徒行伝8:29、6:3-6)
(3) 福音に渇きを感じる者を探し、機会を逃さない。(使徒行伝8:27-29、8:40)
(4) 聖書のすべての部分がイエスを指すことを知り、聖書を解釈する。(使徒行伝8:30-35、ヨハネ福音書5:39)
(5) 救いの確信について明確に教える。(使徒行伝8:35-38、第一ヨハネ5:12-13)
「12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」(第一ヨハネ5:12-13)
(6) イエス・キリストのみを現し、自らを現さない。(使徒行伝8:35、8:5-8、12-13)
(7) 一人でも福音の前に立てられるよう、絶えず祈る。(ルカ福音書22:31-32、エフェソ書3:16-21)
「31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 (ルカ福音書22:31-32)
(8) 聖書研究と礼拝ができる場へと導く。(使徒行伝8:30-35)
(9) 伝道を受けた人が伝道できる力を備えられるよう助ける。(第二テモテ2:2)
「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」(第二テモテ2:2)
*** 伝道(Preaching)とは、福音を伝えること、福音を宣言することを指す(マタイ福音書11:1、ルカ福音書4:44)。「イエスの証人となって伝える」という意味を含むギリシャ語「ユーアンゲリゾ」(ευαγγελίζω)は、もともと結婚の知らせを伝えたり、戦争の勝利の知らせを伝えたりする際に用いられていた言葉であった。それが新約聖書の著者たちによって、イエス・キリストのよい知らせを伝える自らの活動を表す言葉として用いられたのである。
