祈りの実在
- 第一ヨハネ5:15 -
[インマヌエル 下巻.7-06]
[第一ヨハネ5:15] 「私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」
*** 私たちの祈りは、神の御言葉によって門が開かれ、枠組みが形成され、その内容が規制されるため、徹底的な御言葉の黙想を要求する。御言葉を黙想する祈りは、神の約束を知るゆえに確信と希望を持たせる。また心に深い感動と大きな感激を植え付け、心から神を賛美させる。ゆえに祈りは御言葉の黙想と賛美と共に行われるものである。しかし私たちの賛美は御言葉に基づくべきであり、過度に感情的であったり衝動的であったりしてはならない。
1. 公的祈りの必要性と礼拝堂の重要性
(1) 個人の祈りと同じく、教会の公的祈りも絶えず捧げられるべきであるが、共同の合意によって行われ、定められた時間に行うことができる。
○ しかし心の奥底から湧き上がらず、内容のない言葉を繰り返す祈りは危険である。公的祈りの真の目的は、神を賛美すること、あるいは神の助けを求めることである。
(2) 教会の公的祈りが軽んじられないよう、主はかつて神殿を「祈りの家」と称された。
○ これにより、祈りの義務が礼拝の主要な部分であり、聖徒たちが心を一つにして祈りに参加できるよう、主が御自身の神殿を一種の旗印として彼らの前に立てられたことが分かる。
(3) 教会の建物である礼拝堂は、聖徒たちの間に信仰の統一性を促進するため、非常に重要である(キリスト教綱要、Ⅲ.ⅹⅹ. 29)。
○ しかし、神が礼拝堂に特別に臨在しておられると信じる、あるいは礼拝堂で捧げられる祈りをより効果的にする特別な聖さがそこだけに存在すると考えるような不健全な信仰を持たないようにすべきである。
○ なぜなら、私たち自身が神の真の神殿であるため、もし私たちがその聖なる神殿で神に祈ろうとするならば、心から誠実に祈らなければならないからである(キリスト教綱要、Ⅲ.ⅹⅹ. 30)。
2. 賛美と日常言語の使用に関する問題
(1) 私たちの心が目覚め、皆が一つの霊と一つの信仰をもって神に栄光を帰し、聖徒同士が互いに徳を築くために、賛美と日常言語が用いられることは良いことである(キリスト教綱要、Ⅲ.ⅹⅹ. 31)。
○使徒パウロは「私は霊によって賛美し、また心で賛美する」(第一コリント14:15)。「あらゆる知恵をもって互いに教え、戒め合い、詩と賛美と霊的な歌とを歌い、心で恵みをもって神を賛美しなさい」(コロサイ書3:16)と述べ、声と心で歌うことを命じている。
(2) 賛美は私たちの心を動かし、祈る時に真の情熱を抱かせる。
○しかし、単に耳を楽しませるための賛美は教会の威厳にふさわしくなく、神にとって最も忌み嫌われるものとなってしまう(キリスト教綱要、Ⅲ.ⅹⅹ. 32)。
3. 祈りの時間と忍耐
(1) 私たちは祈りの時間を定めて祈るだけでなく、忍耐をもって祈らなければならない。
○神の摂理の法則によって、私たち自身が喜んで支配を受けるようになるだろう。そして祈る時、容易に忍耐できるようになり、落胆せず主に待ち望むことができるようになる。
(2) 主は私たちの嘆願を決して聞かれない方ではない。ただ神はご自身が愛する者たちに憐れみを施して何かを拒まれるが、悪しき者たちには怒りを示し、何かをむしろ時には許されることがあるだけである(キリスト教綱要、Ⅲ.ⅹⅹ. 51)。
○神が私たちの祈りに応えるにあたり、私たちが求めるままに必ず応えるわけではなく、驚くべき方法で私たちの祈りが無駄ではなかったことを示される(第一ヨハネ5:15)。
(3) 私たちが常に忍耐し、継続的に真剣に祈るならば、答えられない祈りは事実上存在しない(キリスト教綱要、Ⅲ.ⅹⅹ. 52)。
◈ 祈れば祈るほど……
父なる神が祈りを聞き応えてくださり、御子が御名によって執り成し、聖霊が神の啓示された御心を示す神の記録された御言葉をもって私たちの祈りを活性化してくださるため、私たちは祈りを通して三位一体の神を知る知識が深まる。これによりジョン・カルヴァンが述べたように(キリスト教綱要、Ⅰ.i.1,2)、神を知るこの知識は私たちに真の知恵と敬虔、そして健全な信仰を与える。
バウンズ(E. M. Bounds)も言う。「聖徒を造るのは祈りの力である。祈れば祈るほど真の聖徒となっていく。祈りのために多くの時間、特に朝の時間を捧げれば、聖なる生活においてその効果が顕著に現れるようになる。」