完全にする苦しみ
- ヘブル書5:8~10 -
[インマヌエル 下巻.6-28]
[ヘブル書5:8~10] 「8 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、9 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、10 神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」
*** 神の子どもである私たちにも、苦しみはつきものだ。その苦しみには、私たちを完全になさろうとする神の御心と計画がある。私たちの父なる神は、善であり、義である。そして、その子どもである私たちを、まことに愛しておられる。
それゆえ、パウロは「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(ローマ書8:18)」と言った。
1. 神の子どもであっても、苦しみから除外されない。
(1) イエスは神の御子であるのに、苦しみから除外されなかった。
「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、」(ヘブル書5:8、本文)
(2) 神の子どもに与えられた特権が苦しみを免れさせたわけではない。
「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。」 (ピリピ書1:29)
2. 苦しみには義なる神の御心と計画がある。
(1) イエスが受けられた苦しみには神の御心と計画があった。
① イエスが受けられた苦しみは聖書に預言されていた。
「3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、」 (第一コリント15:3~4)
② イエスはご自身が受けられた苦しみによって、世を救われた。
「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ福音書3:17)<イザヤ書53:5~9>
③ イエスは預言者たちやご自身の苦しみが神の御心であることを証しされた。
「わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。」」(マタイ福音書17:12)
④ イエスの苦しみは、弟子たちにとって永遠の救いを成し遂げる模範となった。
「... 彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、...」 (ヘブル書5:8~9, 本文)
⑤ イエスはご自身が苦しみを受けられたゆえに、試練に遭う私たちを助けることがおできになる。
「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」 (ヘブル書2:18)
(2) 神の子どもである私たちが受ける苦しみには、神の御心と計画があった。
① 私たちの苦しみは、神の力を体験する機会となる。
「24 舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。... 33 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。」 (マタイ福音書14:24~33)
② 私たちの苦しみは救いを得させ、報いを受けさせる。
「わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」 (マタイ福音書10:22) <ヨハネ黙示録2:10>
③ 私たちの苦しみはキリストとそのからだである教会のためのものである。
「むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。」(第一ペテロ4:13)
④ 私たちの苦しみは、私たちがキリストの立派な兵士であることを証しする。
「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。」(第二テモテ2:3)
⑤ 私たちの苦しみは福音を宣べ伝えるためである。
「あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。」(第二テモテ1:8)
⑥ 私たちの苦しみは、他者の慰めと救いのためである。
「もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。」 (第二コリント1:6)
◈ 苦しみ(Suffering)とは、
苦しみや困難、あるいは精神的・肉体的な痛みを指す。神は苦しみを通して過ちを正し(詩篇119:67)、信仰と従順を試される(創世記22:1~2、第一ペテロ1:7)。また祈りを促し(士師記4:3、詩篇107:4~6、ホセア書5:14~15)、罪を悟らせ(ルカ福音書15:16~18)、神のもとへ立ち返らせるため(レビ記26:21~39、歴代誌下6:24~31、エレミヤ書31:18~19)、神の栄光を現すため(ヨハネ福音書9:1~3)に苦しみを与えられることもある。また、謙遜にさせ(歴代誌下7:13~14、第二コリント12:7)、忍耐強くさせ(ローマ書5:3、第一ペテロ2:20)、報いを与えるために(第二コリント4:8~15、第二テモテ2:12)、苦しみを許されることもある。
*** 私たちは神である父の御心と計画に従って苦しみを受けよう。そして信仰の先達たちのように、キリストの苦しみに喜びをもって参与しよう。預言者モーセは、神の民とともに苦しみを受けることを、一時的な罪の快楽を楽しむことよりも好んだ。<ヘブル書11:24~26>