幸せですか?
- 第一ヨハネ2:15~17 -
[インマヌエル 上巻.5-01]
[第一ヨハネ2:15~17] 「15 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。16 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。17 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」
*** 「幸せですか?」という質問に「はい、イエスを信じるからこそ幸せです」と告白できなければならない。人々が不思議に思うほど、幸せに浸って生きなければならない。人々は私たちに「酒やたばこを飲まずに、何の楽しみで生きているのか?」と尋ねる。その時、私たちは「イエスを信じないなら、何の楽しみで生きているのか?」と反問できなければならない。
1. 幸せを享受できない信者たちがいる。
(1) イエスを信じるから幸せなのではなく、むしろ大きな重荷として生きている人たちがいる。
① 信じないのは不安で、信じるのはつらく、葛藤を抱える人たちが少なくない。
(2) 信仰には特に問題がないように思えるのに、信仰生活の幸せを知らない人がいる。
① 救いの確信もあり、聖書的にも、生活においても全く問題がないように思える。しかし、信仰の真の幸せを享受できずに生きている。
2. なぜ幸せを享受できないのか?
- さまざまな奉仕や教育、訓練を受けていても、なぜ信仰生活の幸せを享受できないのか?
(1) 神の父の愛が自分のうちにないからである。(本文、第一ヨハネ2:15)
① 神から受ける愛を知らないからである。
② 自分が神を愛していないからである。
(2) 神の愛を実感できず、単に知識としてしか知らないからである。
① 愛を語ることはできても、愛を感じたり実践したりできないからである。
② 愛を通じて幸せになるのに、愛を受け取れず、与えることもできないからである。
3. どのようにすれば幸せになれるか?
(1) 唯一のまことの神と、神の遣わされたイエス・キリストを知り、信じ、愛さなければならない。
- 奴隷が二人の主人に仕えることができず、臣下が二人の王に仕えることができず、妻が二人の夫を愛することができないように、私たちは世と神を同時に仕えることはできない。(マタイ福音書22:37~38)
① 神は私たちを100%愛し、私たちに100%の愛を求めておられる。
② 家族よりも、子供よりも、主をもっと愛さなければならない。(マタイ福音書10:37)
(2) この世のさまざまな誘惑に打ち勝たなければならない。
① 肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などによって誘惑してくる。(本文、第一ヨハネ2:16)
a. 肉の欲とは、何でも欲しがる欲望を指す。
- すべてを所有したソロモンは「空しい」と告白した。(伝道書5:10)
- その欲望を満たすために働きますが、それは影のようなものである。(詩篇39:6)
b. 目の欲とは、快楽への欲望を指す。
- 快楽はより深い快楽の世へ誘惑する。結局、快楽の終着点は「破滅」である。一度の満足も喜びも平安もない。(伝道書1:8)
c. 暮らし向きの自慢とは、自分を誇示しようとする欲望を指す。
- 多くの人々は、他人の誇りを聞くよりも、自分の自慢を語ることを好む。しかし、聖書はむなしい誇りを悪いことであると語る。(ヤコブ書4:16)
- 聖書が認める誇りは、キリストの十字架だけである。(ガラテヤ書6:14)
② この世は、私たちが考えるよりもはるかに強力な力で誘惑する。
- モーセは荒野の生活を終え、乳と蜜の流れるカナンに入るとき、良い生活の条件を得れば神を忘れるかもしれないと、より緊張した。(申命記8:12~17)
- 苦痛のために信仰を離れるよりも、豊かな生活の条件が与えられるとき、信仰を離れる人が多くいる。ロトの妻、サムスン、ガリラヤのユダ、デマ、フメネオ、アレクサンダー、ニコラがそうであった。
③ この世の誘惑は余りにも強力で、誰も自らの力で打ち勝つことはできない。
- 「18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ福音書28:18~20)
*** 私たちは世を愛して世の誘惑を追うのではなく、イエスが愛された神と隣人を愛そう。その愛の中で享受する幸福と喜びと満足を子どもたちに示そう。子どもたちも、親の幸せな信仰の生活を真似て、幸せな人生の道を歩むことができるように。