新約聖書における方言 (1/2)
- 使徒行伝2:4-6 -
[インマヌエル 上巻. 4-23]
[使徒行伝2:4-6] 「4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。」
[第一コリント12:28] 「神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」
1. 福音書
(1) 福音書の中で方言に関する直接的な言及が見られるのは、マルコ福音書16:17だけである。(一部の写本にはマルコ福音書16:9-20がない)そこには、信じる者につくしるしとして「新しいことばを語り」と記されている。
[マルコ福音書16:17] 「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、」
2. 使徒行伝
(1) 使徒行伝2章の聖霊降臨の記述には、弟子たちが皆、聖霊の満たしを受け、聖霊が語らせるままに外国語を話し始めたと解釈できる記述がある。(使徒行伝2:4、6)
① 「甘いぶどう酒に酔って」(使徒行伝2:13)と理解される記述と矛盾するため、コリント教会の場合と同じ方言現象と見なす見解もある。
② ペンテコステの聖霊降臨は聖霊の公的な付与であり(ヨハネ福音書20:22)、新しい聖霊時代の始まりを示す。
③ バベルの塔の物語で人類の言語が混乱したのとは対照的に、律法が世界のすべての言語で与えられたという伝承と対応するように記述されている(使徒行伝2:8)と指摘されている。
④ 重要な点は世界宣教との関係である。使徒行伝2:9~11に記録された諸国の一覧表にも示されているように、五旬節の聖霊降臨は、キリスト者と教会に委ねられた世界宣教の使命(使徒行伝1:8)とは決して切り離せない関係にある。
(2) その他の記述について
① カイザリヤの場合(使徒行伝10:46)は異邦人への聖霊降臨であり、サマリヤ(使徒行伝8:17)やエペソ(使徒行伝19:6)での聖霊降臨も、それぞれの地域やグループにおける聖霊の最初の到来を示す特別な証拠として意味があると主張する者もいる。
② 方言は、聖霊降臨により聖霊の満たしを受け、洗礼を受けた者にとって最初の経験として不可欠なものであると主張する意見もある。
③ 使徒行伝の記述の中でも、方言が聖霊の洗礼を受けた者にとって必ず現れる最初の経験ではないケースが少なくないとの指摘もある。(使徒行伝4:31、8:17、9:17、18)
④ 使徒行伝に登場する上記の人物以外にも、聖霊を受ける際に方言で話したかどうかは直接明記されていないため、断定できないのは当然である。
⑤ 方言は使徒的なメッセージの確認を意図するしるしのたまものであり、このたまものは使徒時代の終結とともに終わったという論証についても、直接使徒行伝だけでそう確定するのは困難である。
* 現代教会の異言に関する言及
(1) 現代教会の異言運動には、多くの誤った異言も現れている。このような異言は当然禁止すべきものである。
(2) 一方、聖書の教訓(第一コリント14章)を守りながら、真の異言を行う運動がある場合、それに反対することは慎重を要する。その理由は、異言が教会に与えられる神のたまものであると聖書が述べているからである(第一コリント12:28、本文)。
(3) さらに、聖霊によって異言を話す者は、そのたまものによって自分自身の信仰に益を受けると述べられているからである(第一コリント14:4)。
「異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます」(第一コリント14:4)。