「信仰の人、ダビデの生涯」

サムエル記 上16章5節―13節、17章41節―4 下7章12節―14節


はじめに

 

 さて、わたしたちは、通常の礼拝においては、新約聖書のョハネによる福音書から学んでいますが、2ケ月に一度は旧約聖書に親しむという趣旨で、旧約聖書のお話しを順番にしていくことになっております。それで、今回はサムエル記のお話しをいたします。サムエル記は、上下と2つありますが、どちらも中心は、ダビデ物語です。ダビデという人が、羊飼いの少年から身を起こし、イスラエルの王となる祝福を受けたことが、生き生きと記されています。そして、ダビデが祝福を受けたのは、いろいろなことがあっても、生涯にわたって神を信頼し続けたからであることを教えています。そして、信仰のゆえに、最後は、ダビデの子孫から約束の救い主メシアが出ることまで約束されました。

 そこで、木目は、ダビデの生涯から、3点を学びたいと思います。第1点は、神は人の心を見るという点です。第2点は、信仰は、神に喜ばれ祝福されるという点です。第3点は、神への信仰は、思いにまさる祝福をもたらすという点です。ひとつひとつの言葉、一節一節を丁寧にお話しすることはできませんので、必要に応じて、拾い読みをし、あとは、わたしの言葉でお話しをつなげていく仕方にしたいと思います。


1.神は人の心を見ます

 早速、第1点に入りましょう。第1点は、神は人の心を見るという点です。サムエル記上16章5節から13節がそうです。時代状況からお話しをしますと、その時は、イエス・キリストからちょうど千年ほど前で、イスラエルの王様はサウルという、最初の王様でした。しかし、サウル王様は、次第に神に不従順になりましたので、神はサウル王様を退けることをもうすでに決めていました。

 そのため、神様は、預言者サムエルに、サウルに代わる王様を立てるように命じ、サウルに代わる新しい王様が、イスラエル南部のベツレヘム在住のエッサイという人の息子たちの中にいるから、その人物に、オリーブ油を注いで、王様としての即位式をひそかに行うように命じました。

 そこで、預言者サムエルは、ベツレヘムにやって来まして、神様へのいけにえを献げ、その後会食をするから、水をかぶって宗数的な身の清めをして集まるように、エッサイとその息子たちを招きました。まず、長男のエリアブを見ました。容姿端麗で背も高く、王様になったらとても見栄えがするという感じで、預言者サムエルはこの人が王様になる人物であると直感しました。

 ところが、意外にも、預言者サムエルの直感は外れてしまいました。16章7節で、「しかし、主はサムエルに言われた。容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見が、主は心によって見る。」とあります。

 わたしは、ここを読んでいてとてもびっくりしました。もう何十年も預言者をしていた老預言者の直感は鋭いものと思われますが、しかし、完全に外れたというのですから驚きです。まことに、神様の見るところは、何と、老預言者サムエルが見るところとも違っていたのです。神様は、今日も、わたしたち一人一人が心でどんなことを考えているか見ているでしょう。

 ついで、エッサイは二男のアビナダブを呼び、預言者サムエルの前を通らせましたが、神様は預言者サムエルに何も語りませんでした。さらに、三男のシヤンマ、4番目の息子、5番目の息子、6番目の息子、7番目の息子と次々と通らせましたが、神様は何も語りませんでした。そこで、預言者サムエルは、これで全部かどうかを尋ねました。すると、エッサイは、1番末っ子がいるが、7人の息子たちと比べると、年が若く、まだ少年なので、この場に来ることは必要ないと思い、羊の番をさせていると答えました。

 預言者サムエルは、それを聞いて、ピーンとくるものがあったのでしょう。そこで、その息子をぜひ呼ぶように求めました。間もなく、8人息子の1番末っ子の、年が若く、まだ少年であった息子がやってきました。その息子は、12節で言われておりますように、「血色がよく」、すなわち、頬が赤くとても元気はつらつとして健康的で快活な少年でした。「血色がよく」というのは、もともと、ヘブル語では、「赤らんだ」という意味です。すなわち、顔が赤い、頬が赤くて、とても健康的で快活という意味です。

 また、「目は美しく」といわれていますが、「目は美しい」というのは、目がどんよりしていないということです。目がキラキラ輝いて澄んでいることを表します。すなわち、目は心を表しますので、心が信仰でスッキリしている、心が信仰で澄んでいてきれいなことを表します。新約聖書の中で、キリストも、 「体のともしびは目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。」と言われたとおりです。 日本語のことわざでも、目は心の窓であるというのと似ているでしょう。

 また、「姿も立派であった」と言われておりますが、長男のエリアブほど背は高くなかったのですが、しかし、均整のとれた、スタイルが良い体をして、見るからに敏しょうに動ける体でした。「姿も立派」というのは、スタイルがよいことを表します。

 すると、神様が預言者サムエルに「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ」と語りましたので、預言者サムエルは、その少年をひざまずかせ、中をくり抜いた羊の角あるいは牛の角に入れてきたオリーブの油を、その少年の順に注いで、王様としての即位式を行いました。オリーブの油を順に注ぐことは、イスラエルの王になるときの儀式で、オリーブの油は、聖霊の象徴でした。聖霊の力によって、王様の職務を遂行していくことを意味していました。

 そして、実際に、その日以来、ダビデに神様の霊の力がとても強く働くようになったのです。 13節に「その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった」とありますが、「主の霊」というのは、聖霊のことです。そして、「激しく降る」というのは、旧約時代における御霊の賜物である力がダビデにとても強く働くようになったという意味です。今日は、キリスト出現以後で聖霊の賜物は、ガラテヤ書5章22節で、「・・・霊すなわち、聖霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と愛を中心にして言われています。でも、しょっちゅう周囲の敵との戦いを余儀なくされていた旧約時代においては、聖霊の結ぶ実は、力や強さ勇気や大胆さなどであったのですが、ダビデは、聖霊によって、それらのものを与えられることになたのです。

 こうして、本日のサムエル記の最初の個所を見ますが、ここで大切なのは、神様は、ダビデの信仰の心を見て、イスラエルの新しい王様に選んだことです。それで、わたしは、今回、サムエル記からダビデについての説教をするということで、ダビデのことが出てくる「母と子の聖書」を読みました。南浦和教会の契子会でも、お母さんたちが子供のお話のために使っている本です。キャサリン・ヴオスというアメリカの婦人が書いたものです。

 どんなふうに書いてあるでしょう。子供に話しかける仕方です。あの丘に行ってみましょう。白い羊たちが草を食べていますね。羊飼いの少年もいますね。羊飼いの少年は、木の下で、竪琴を手に持って、天の神を見上げて歌っていますね。とても上手に歌っていますね。どんな歌を歌っているでしょう。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」と詩篇23篇を歌っているでしょう。この羊飼いの少年は誰でしょう。この羊飼いの少年は、後で神様によってイスラエルの王様になるのです、というふうに子供に教えているのです。

 わたしは、感動しました。神様に対する少年ダビデの信仰がとてもよくわかった気がしました。なるほどなあと思いました。もちろん、詩篇23篇をその時そのまま歌っていたかどうかまでは、わかりませんけれども、しかし、後に、詩篇23篇をはじめとする多くのダビデの詩篇といわれるもののもとになる歌を竪琴に合わせて歌いつつ、神を賛美しながら、神との親しい交わりに、明るく、快活に歩んでいたことは間違いないでしょう。神は、人の心を見て祝福するお方です。今日も、神様がわたしたち一人ひとりの心にある信仰を見て、豊かに祝福してくださるように祈りたいと思います。

 

 

2.信仰は、神に祝福されます

 第2点に入ります。第2点は、信仰は必ず神に喜ばれ、必ず豊かな祝福を与えられるという点です。たとえ、少年の信仰であっても喜ばれ豊かな祝福を受けるのです。ダビデが油を注がれてから、2、3年ほど経ちました。ダビデは、まだ少年でしたが、さらに、成長していました。そして、いよいよ、ダビデの

では、の戦いはどうしてなされたのでしょう。すると、その時、とペリシテ人との戦いがあったからです。ペリシテ人というのは、の西隣の地中海沿岸に住んでいた民族です。

 どこで戦いがなされたのでしょう。サムエル記上17章1節、2節を見ますと、地名がいくつか出てきます。ソコ、ソコとアゼカの間にあるエフェス・ダミム、エラの谷というのは、すべて、イスラエル南部のユダ地方で、エルサレムから西の方へ30キロほど行ったところです。そこのエラの谷と言われる小さな谷をはさんで両軍がにらみ合っていたのです。

そんな時に、大男が出てきました。ガトという町の出身のゴリアトでした。プロの戦土です。身長は、6アンマ半、すなわち、1アンマが約44センチですから、6アンマ半は、2メートル66センチになります。今何かと話題の格闘家ボブ・サップよりも2回りも、3回りも大きいでしょう。また、頭には、青銅でできた、普通の人がかぶる2倍くらいも大きいような兜をかぶっていました。身には、うろことじ、すなわち、だんびらになったよろいを着けていました。しかも、その重さたるや約70キロもあったというのです。 5千シェケルとありますが、1シェケルは11.4グラムですので、5千シェケルは、約70キロになります。わたしはの体重が64キロですから、わたしの体重より重いよろいを身につけていたことになります。

 また、ゴリアトの足は、丸太のような太い足で、そのすねにも、青銅でできたバカでかいすねあてをつけていました。さらに、青銅の投げやりを肩に担いでいましたが、その投げやりの先の部分は、鉄6百シェケノレ、すなわち、7キロも重さがあったというのです。今日の野球のバットが、1キロ未満ですから、野球のバットの7本分以上の重さの鉄がついていました。そんなやりをブルンブルン振り回せば、当たったら終わりでしょう。そして、そのやりの本の部分は、織物をするときの巻棒のように太かったというのです。また、ゴリアトの前には、大きな盾を持つ人が専門でついていました。これでは見ただけで縮みあがるでしょう。お一怖え-、超怖え-と言うでしょう。また、ゴリアトは叫びました。声も、顔と同じように恐ろしかったでしょう。ゴリアトは、一対一でケリをつけよう。俺がペリシテ人の代表となって戦うから、お前らイスラエルも代表1人出せ、そして、決着をつけよう。俺が勝ったら、ペリシテの勝ち、お主えらの代表が勝ったらイスラエルの勝ちというものでした。

 では、イスラエルはどうしたでしょう。ゴリアトを恐れ、意気消沈して何もできませんでした。わたしたちの長い人生においても、自分の前に立ちはだかる大きな問題のゆえに、恐れ、意気消沈してしまうことがあるかもしれませんね。ゴリアトの挑発は、何と40日間も続きました。

 さて、そこへ、たまたま、少年ダビデが戦場にやってくるのです。父親が、戦場にいる兄たちの様子を知るために、一番下の末っ子ダビデを遣わしたのです。そして、ゴリアトを見たのです。しかし、その時も、王のサウルもイスラエルの民も、相変わらず、ゴリアトを恐れて何もしなかったのです。今働く神の力を求めて、まずみんなで祈ることもしませんでした。神の民が祈らずしてどこから助けと力が来るでしょう。わたしたちは祈りましょう。

 さて、ダビデは、敵のペリシテ人ゴリアトに、嘲られ続けている状態を知り、自分が戦うと立ち上がるのです。ダビデは、王サウルの許可を受け、ゴリアトと戦うことになりますが、ダビデの言葉を見ますと、信仰と勇気と力に満ち溢れています。今生ける全能の神を信頼している気持ちが、生き生きとはっきりと出ています。神が力を与えてくださることを信じ、疑わないことが伝わってきます。常日頃から、神との豊かな交わりの中で、今生きて働く神の力と恵みを、自分は十分経験しているという生きた信仰が脈打っています。これは並みの信仰ではありませんね。ホントにたくましく、困難な状況であればあるほど、光を放つ大きな信仰です。こういう強くたくましい信仰にわたしたちもなりたいですね。

 34から37節のダビデの言葉は素晴らしいですね。特に37節がいいですね。ダビデは更に言った。「獅子の手、熊の手からわかしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」。すなわち、自分がこれまでに与えられてきた神の恵みと守りの中で、1番大きな出来事を語っています。すなわち、自分は、これまで、神との交わりでたくさんの恵みを受けてきた。その中には、猛獣のライオンやクマと戦っても神からの力で勝つことができた。だから、今回も大丈夫だと確信しているのです。ダビデは、ダメもとで、いちかばちか、出たとこ勝負でやってみるという賭けをしているのではないのです。勝利を最初から確信しているのです。

 これに似たことは教会としても個人としても、今日でもあるでしょう。人間的には、とても無理でも、不思議に、最初から、神の恵みによって必ずできると確信できて、実際にできてしまうということがあるでしょう。例えば、人間的には不可能と思える会堂建築が、不思議にうまくいくと確信でき、実際にうまくいってしまったとか、個人のことでも、人間的にはとても難しいことに直面したけど、しかし、不思議に、最初から心が平安で、必ずうまく解決すると思えた。そして実際にうまく解決したというようなことかおるでしょう。わたしもありますよ。皆さんにもあるでしょう。これは、神の恵みによるのです。

 ダビデとゴリアトの戦いが始まります。41節から54節がそうです。ゴリアドは相変わらず、さんざん嘲ります。 しかし、ダビデは、今生きて、神を信じる者のために、御業をなす神への信頼に立って戦います。45節では「わたしは・・・万軍の主の名によってお前に立ち向かう。」、46節では「今日、主はお前をわたしの手に引き渡される・・・バ全地は、イスラエルに神がいますことを認めるだろう」、47節、「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべてのものは知るだろう。この戦いは主のものだ。主はおまえたちを我々の手に渡される」とありますが、これらの表現はすべて、少年ダビデが、目に見えないけれども、しかし、今生きて働く神を心から信頼していることを生き生きと表しています。今日の教会とクリスチャンも目に見えないけれども、しかし、今生きて働く神を心から信頼するでしょう。

 その光景は、とても不思議な光景であったでしょう。2メートル66センチの雲つくような大男、しかも、鎧兜に身を固め、鉄の7キロの先端がついた投げやりを肩にかついでだ大男が、ノッシノッシと少年ダビデに近づいていきました。人間的に見れば、勝敗は明白でしょう。少年ダビデをムンズとつかまえ、空中高くに放り投げてそれで終わると思われたでしょう。しかし、ゴリアトは、一番大切な真理を知りませんでした。今生きて慟く全能の神が少年ダビデと共にいますことを全く知りませんでした。今日も同じです。教会とクリスチャンには、今生きて働く全能の神が共にいてくださるのです。これが教会とクリスチャンの力の源でしょう。

 次の瞬間、ダビデは、石を石投げ紐にはさんで、自分に向かってくるゴリアトの額めがけて力の限り投げました。当時の人々は、石を石投げひもに挟んで、投げるということをしていました。ゴリアトは、鎧兜に身を因め、足はすね当てをしていましたが、しかし、額と顔はガラ空きでした。小さいときから石投げをして、石投げは慣れて、得意であったと思われます。その石は、ダビデに向かってくるゴリアトの額、眉間に見事に当たり、さすがのゴリアトも激痛で、地面にうつぶせに倒れこみました。すかさず、ダビデは、走りよって、ゴリアトの腰から剣を引き抜き、その剣でゴリアトにとどめを刺し、さらに、首を切り落としました。これを見ていた、ペリシテ軍は、逃げ始め、逆に、イスラエルの民は、追いかけ、ペリシテ軍を大敗させました。

 こうして、少年ダビデは勝利しましたが、これはまさに、信仰の勝利です。ダビデはこの時、何歳の小年であったのでしょう。17章33節と41節に「小年」という言葉が出ていますが、少年を表すヘブル語は、「少年」とか「若者」と訳されますが、しかし、年齢までは表しません。そこで、わたしは、多くのものを調べてみましたが、年齢までは出ていません。ただし、先はども触れた 「母と子の聖書」でキヤサリン・ヴオスは、ダビデはこのとき16、7歳と推定しています。年齢はわかりませんが、しかし、少年ダビデが今生ける神を信頼して歩んでいたことは明白です。そして、今生ける神を信頼して歩む人は、それが、子供であれ、少年であれ、若者であれ、中年であれ、壮年であれ、老年であれ、どの年代であっても、必ず神から豊かな祝福を必ず受けるのです。そして、神からの祝福は当人だけに及ぶのではなく、他の人々にも及ぶのです。 

 

 

3.神への信仰は、思いにまさる祝福をもたらす

 第3点に入ります。第3点は、神への信仰は、思いにまさる祝福をもたらすという点です。ダビデは、信仰のゆえに、メシアの先祖になるという思ってもみない大きな祝福を受けることになります。サムエル記下7章12節から17節がそうです。後のことです。ダビデがイスラエルの王様になってからのお話しです。それまで、神礼拝は、エルサレムの天幕で行われていましたが、ダビデは感謝のしるしとして、神を礼拝する石造りの大きな立派な神殿を作りたいと願いました。

 しかし、神は、それを許しませんでした。なぜなら、ダビデは、戦いにおいて多くの人々の血を流してきたからです。そこで、神は、ダビデの息子のソロモンが神殿を建てることを許したのです。でも、その時、神は、ダビデが信仰の心からそのような申し出たことを喜び、ダビデからメシアが出るという大き祝福を約束してくださいました。

 では、どのように約束したのでしょうか。すると、ダビデの子孫が王国を永遠に受け継いでいくという仕方で約束しました。すなわち、ダビデはこの時イスラエルの王様でしたが、ダビデの子孫が次々と王様となって永遠に続いていくことを約束したのですが、その子孫から、永遠の王様であるメシア、イエス・キリストと神の国が到来することも含んで約束してくださったのです。

 サムエル記下17章12節を見ますと、「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。」とありますが、これは、ダビデがやがて地上の生涯を終わり、先祖の墓に葬られた後、ダビデから出る子孫がイスラエルの王様となって後を継ぎ、イスラエル王国が揺るぎなく続いていくことが約束されています。

 ついで、13節では、「この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。」とありますが、これは、「この者」すなわち、ダビデの息子であるソロモンが、神の名を賛美するため、「家」、すなわち、神殿を建てることを許可する言葉です。そして、神様は、ソロモンが王様となって治める「王座」、すなわち、王の位が永遠に続くように約束しています。

 また、次の14節では、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。」と語って、神様がダビデの息子ソロモンの父親のようになり、ソロモンは神様の子供のように愛されます。そして、ソロモンが、「過ち」、すなわち、罪を犯すときには、神様は、人間の父親が杖や鞭を持って懲らしめるのと同じように、ソロモンをこらしめるというのです。

 そして、16節でもう一度最後的に言われておりますように、ダビデの家系、ダビデ王国が、「とこしえに」、すなわち、永遠に続き、王様としての位も堅く据えられて永遠に続いていくことが約束されました。

 このように、神様は、預言者ナクンを通して約束してくださいましたが、わたしたちは、あれおかしいなあと疑問を持ちます。神様は、ダビデの王国、すなわち、イスラエル王国が永遠に続く、また、ダビデの子孫はイスラエル王国の王様として永遠に続くと約束したのに、実際にはそのようにならなかったのです。ダビデの息子ソロモンの死後、イスラエル王国は、南王国と北王国に分裂します。そして、さらに、北王国は紀元前721年にアッスリア帝国に攻められ、滅び、王様はいなくなります。また、南王国は、紀元前586年に、バビロン帝国に攻められ、滅びて、こちらにも王様がいなくなります。すると、神様がダビデに約束したことはいったいどうなったのかと思うのです。

 実は、本日の個所は、牧師になる人の中会の説教免許試験および大会の教師試験によく出る個所なのです。それで、ポイントは、この個所は、ダビデ契約といわれる個所で、ダビデから出てくる子孫には、イエス・キリストが含まれている、また、王国が永遠に続くというのは、神の国が永遠に続いていくことを意味していると書くのです。そうすると、丸がもらえるのです。わたしは、研修所で中会の説教免許試験および大会の教師試験対策本部長と自称して、学生たちに、聖書のいろいろな個所の解釈の仕方も教えているのですが、ここはそのように教えています。

 ですから、神は、地上の王国とともに永遠に続いていく神の国、および、地上の王様とともに永遠の王様であるメシア、イエス・キリストを約束していたのです。それゆえ、イスラエル王国が地上から消え、イスラエルの王たちが地上から消えても、神の約束は真実で、永遠の王であるメシアがマリヤから生まれることにおいて、また、メシアであるイエス・キリスト出現により神の国が到来することにおいて、神の約束は完全に実現したのです。

 こうして、ダビデは、自分の子孫から人類の救い主メシアが出るという思ってもみなかった大きな祝福を受けたのです。信仰には、必ず、思いにまさる祝福があります。たとえば、信仰ゆえに、ノアとその家族は、40日40夜の大洪水から、箱舟によって救われるという、思ってもみない大きな祝福を受けましたが、今日も霊的に似ているでしょう。わたしたち自身も、信仰のゆえに教会という箱舟に乗っているゆえに、この世の罪の大洪水から救われ、永遠の生命を与えられ、真の神との親しい交わりの中で心満たされ日々喜んで歩んでいるでしょう。これらはお金をいくら積んでも買うことができない、思いにまさる大きな祝福でしょう。すべて、無代価で無償で恵みとして受けているでしょう。さらに、天国の祝福も約束されているでしょう。世の終わりの栄光の体ヘの復活の祝福もあるでしょう。栄光の神の国でキリストとともに、父なる神とともに、聖霊なる神と共に、無限の喜びの中で永遠に生きていける祝福もあるでしょう。信仰には、必ず、思いにまさる神からの祝福があるのです。

 

結び

 

 以上のようにして、本日は、サムエル記からダビデの生涯を見ましたが、サムエル記が読者に伝えようとしていることは、読者もダビデのように、強くてたくましい信仰を持って生涯を歩むようにということです。そうすれば、ダビデのように、必ず豊かな祝福が神様から与えられることを伝えようとしています。わたしたち一人ひとりが、21世紀の日本社会に生きるダビデとして歩んでいきたいと思います。聖霊なる神がわたしたちの信仰をダビデのように強めてくださるように祈りたいと思います。


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