「主は羊飼い」
詩編 23編1節―6節
はじめに
それで、本日は、旧約聖書に親しむという趣旨で、旧約聖書からのお話しです。前回は旧約聖書のヨブ記から、お話をしましたが、本日は、次の詩篇からお話をします。そこで、最初に、旧約聖書の詩編とは、何であるかということについて、少しお話をしたいと思います。詩編というのは、ヘブル語で、テヒリームと言いまして、賛美歌集という意味です。すなわち、たくさんの賛美歌が集められた木という意味です。具体的には150の賛美歌が載せられています。
そして、旧約時代の神の民であったイスラエルにおいて、神殿礼拝をけじめ、いろいろな場面で、あるメロディーをつけて歌われたものと言われております。また、わたしたちの主イエス・キリストも、この世にあって歩みをされたときには、詩編を歌って心から神を賛美しました。たとえば、キリストは、十字架につけられて死ぬ前の目の夜、過越しの食事をしたとき、聖餐式を制定しましたが、その時に、キリストは、弟子だちとともに賛美を歌たってから、すなわち、詩編を歌ってから、ゲツセマネの園に行って、折ったのでした。
また、キリストが、詩編を愛好され、よく引用されたことも知られています。こうして、詩編は、神の民の賛美歌として大事にされ、親しまれ、神の民の思いを神に向けるものとして用いられてきました。わたしたちも、今の時代の恵みによる神の民として、この世にあって、詩編に親しみ、神を賛美しながら喜んで歩みをしていきたいと思います。
それで、詩編のどこからお話をしようかいろいろ考えましたが、詩編と言えば、多くの人々は、すぐに、23編の「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」という美しい詩編を思い出すでしょう。わたし自身もそうです。そこで、長く信仰を持っている方々は、23編については何度もお話を聞いたり、読んだりしていると思いますが、初めて聞く方々も結構おられると思いますので、今回は一緒に、詩編の中で最も代表的な23編を取り上げます。
3点からお話をします。第1点は、作者は、神との深い交わりで満たされているという点です。第2点は、作者は、神と自分の関係をよき羊飼いと羊の関係にたとえて歌ったという点です。第3点は、今度は、観点を変え、作者は、神と自分の関係を、逃げ込んだ者を暖かく受け入れてくれる寛大な太っ腹の主人にたとえて歌ったという点です。
1.作者は、神との深い交わりで大切な心、魂が満たされています
早速、第1点に入ります。そして、第1点は、短くてよいと思いますが、作者は、神との深い交わりで大切な心、魂が満たされているという点です。 1節前半の表題がそうです。すると、「賛歌」とありますが、「賛歌」というのは、もちろん、賛美歌という意味です。ヘブル語で、ミズモールといいますが、この言葉の語根は、弦楽器を弾くという意味で、この詩編は、弦楽器による伴奏で歌う賛美歌であることを表しています。具体的にどのような楽器を使ったのかまではわかりませんが、今日のギターの原型とも言われる立琴に合わせて歌ったのかもしれません。
また、「ダビデの詩」とありますが、伝統的には、ダビデによって作られた賛美歌と言われてきました。ダビデは、キリスト出現の約千年前の人物で、イスラエルの王でした。もともとは羊飼いの少年でしたが、神への信仰がとても強い人で、神に愛され、大きな祝福を受けました。そして、このダビデは、少年のころから音楽の賜物がありました。特に、今日のギターの原型ともいわれる立琴を弾きながらきれいな声で歌うことができたようです。そして、その神賛美は、ダビデの信仰の心をとても高揚させ、整えるよい働きをしたと思われます。今日でも賛美歌を歌うことは、他の歌とは違って、神に向かうわたしたちの信仰の心をとても自覚させ、高揚させ、整えるのに役立ちます。賛美は、信仰にとても益をもたらすのです。
そして、ダビデは、その音楽の賜物ゆえに、生涯において、神を賛美する詩編を自らたくさん作ったと考えられます。それで、「ダビデの詩」という表題のついている詩編は、伝統的には、ダビデが自ら作ったものであるというふうに考えられてきました。ところが、だんだん詩編の研究が進んできまして、「ダビデの詩」の「の」にあたるヘブル語は、いろいろな意味に理解されることがわかってきました。具体的には、「ダビデの詩」の「の」は、「ために」と訳すこともできます。すると、「ダビデのための詩」となり、ダビデのために他の人が作ったと考えることができます。 しかも、ダビデが生きているときとは限らず、ダビデの死後、ダビデのために、ダビデを記念して作ったという意味にとることも可能です。
しかし、ダビデ自身が作ったにしろ、あるいは、ダビデ自身が作ったものに、さらに編集の手が入ったにせよ、あるいは、もっと後に、他の人がダビデを記念して作ったにせよ、この23編はとても素晴らしい詩篇で、神による霊的養いと保護に対する揺るぎのない信頼が、美しく、そして、確信をもって表明されていて、この詩編にメロデーをつけて歌ったら、歌う人の心、魂、霊魂に、必ずや、力は満ち溢れ、希望はふくらむのです。そこで、19世紀のイギリスの大説教家といわれたスポルジョンという人は、この詩編23編を「珠玉の詩 編」と呼んで称賛しました。
本当にそうです。21世紀の目本に生きる信者であるわたしたちも詩編23編の作者にならい、観念ではなく、実際に、今生きて働いておられる神を、また、神から遣わされた主イエス・キリストを、自分のよい羊飼いと生活の中で、信仰によって、生き生きと捕らえ、喜んで告白、表明できるように歩みたいと思います。
2.作者は、神と自分の関係をよい羊飼いと羊の関係にたとえて歌っています
第2点に入ります。第2点は、作者は、神と自分の関係をよい羊飼いと羊の関係にたとえて歌ったという点です。 1節後半から4節がそうです。1節後半に「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」とありますが、もちろん、神を、「羊飼い」、作者を「羊」にたとえた言い方ですが、「主」というのは、特に、契約に基づいて豊かな祝福を与えてくがさる神を表します。
旧約聖書を見ますと、神を表す言葉はたくさんありますけれども、最も多いのが「神」と「主」です。「神」というのは、ヘブル語で、エロヒームと言いますが、特に、力ある偉大な神を表します。「神は言われた。「『光あれ。』こうして、光があった」と言われておりますように、無から天地万物を創造し、今もなお、天地万物を摂理によって治めている偉大な全能の神を表します。
それに対して、「主」というのは、ヘブル語で、ヤハウエと言いますが、特に、契約に基づいて豊かな祝福を与えてくださる神を表します。すなわち、シナイ山のふもとで、世界の民族の中で、イスラエルの民だけをご自分の民とする契約を結んでくださった神、そして、その契約に基づいて豊かな祝福を真実に与えてくださる神を特に表します。
ですから、ここは、「主」ですから、契約に基づいて豊かな祝福を真実に与えてくださる神を表しております。 しかも、素晴らしいのは、「主はわたしの羊飼い」と言いまして、「わたしの」がわざわざ入っています。神と作者の深くて親しい関係が一層感じられるようになっています。そし、同時に、読者一人一人にとっても、神が自分の羊飼いであることが感じられるようになっています。
そして、また、素晴らしいことは、「わたしには何も欠けることがない」と堂々と表明していることです。この表現は、契約の神との親しい交わりの中で、作者が豊かに満たされていることを表す表現です。そこで、作者は、神との親しい交わりの中で、豊かに満たされている状態を、羊飼いが羊においしい草をおなかいっぱい食べ、おいしい水を十分散増せ、羊が満ち足りている姿で、印象深く歌っています。「主は、わたしを青草の原に休ませ」とありますが、「青草の原」というのは、もともとは、「緑の牧場」という意味で、柔らかでおいしい青々とした草が生い茂っている場所を表します。
そして、「休ませ」というのは、もともとは、「伏させる」という意味です。すなわち、羊は、柔らかでおいしい青々とした牧草をおなかいっぱい食べて、満足して、原っぱに足を折り曲げて休んでいる状態を表します。
また、羊飼いは、羊を池や沼の傍らに導いて、おいしい水を飲ませてくれるので、羊は、のどの渇きがいやされ、生き返る思いをします。「憩いの水のほとりに伴い」とありますが、「憩いの水」というのは、もともとは、静かな水という意味です。ですから、流れている川とか、水がボコボコ噴き出している泉というよりは、水のたまった静かな池とか沼のことをここでは表しているのかもしれません。
考えてみますと、草が少なく、水が乏しい砂漠的なイスラエルにおいて、牧草と水は、優れた羊飼いによってのみ探し当てられるものです。か弱い羊が、そのような自然条件の厳しいところで生きていくためには、ひとえによい羊飼いにかかっており、よい羊飼いなしには、生きていけません。
こで、作者は、契約の神、主をよい羊飼いにたとえ、おいしい青々とした草をいっぱい食べさせて満足させ、また、水を十分飲ませて、渇きをいやして、その都度、ああ生き返ったという経験をさせてくれるよい羊飼いに、契約の神、主をたとえたのでした。
「魂を生き返らせてくがさる」とありますが、もともとは、「魂を回復してくださる」という意味です。すなわち、神との親しい交わりで、作者の魂、霊魂、心が、再び、新鮮にされること、活力を得ること、生き生きとされることをあらわします。
これと似たことは今日のわたしたちもします。今日のわたしたちは、週の初めの神礼拝に参加することによって、わたしたもの大切な魂、霊魂、心が、御言葉の糧を豊かに与えられ、聖霊の命の水を豊かに注がれ、再び新鮮にされ、活力を得、リバイブされ、霊的に生き返り、養われることを繰り返し経験しますが、これと似ています。
現代の目本の人々の心の状態は、イスラエルの不毛の砂漠地帯のようなものにたとえられるでしょう。しかし、そのような中にあっても、信者は、真の神との親しい交わりの中で、自分の中心である心、魂、霊魂が回復され、活力を得、霊的に生かされ、ああ自分の魂は生き返ったと実感し、喜んで歩むことができます。これは素晴らしいことです。
では、どうして、契約の圭は、そのような素晴らしいことを、作者にしてくださるのでしょうか。すると、それは、作者に価値があるからでなく、神の名前があがめられるためです。もし、契約の主を信じる作者が、信じているにもかかわらず、大切な心、魂、霊魂に満足がなく、潤いがなく、力も活力もなく、むなしく歩んでいるのであれば、信仰している意味がありません。神はご自分を信じて生きる者の魂を満たすことができないのか、そんな無力な神なのかと疑われてしまい、神の名前が汚されてしまいます。そのようにならないように、神は導いてくださるのです。
こうして、作者は、神との交わりで、いつも心、魂が豊かに充足させられ、養われてことを堂々と表明しましたが、さらに、作者は、神との交わりにおける魂の豊かな養いだけでなく、人生の困難な時には、神による確実な保護があることを、羊飼いにたとえて、これまた堂々と表明しました。
4節がそうです。「死の陰の谷」とありますが、これは、もともとは、「暗黒の谷」、あるいは、「真っ暗な谷」という言い方で、目が全然当たらない暗い谷間をあらわします。すなわち、イスラエルの羊は、地形的に、そのような目が全然当たらない暗い谷間を通らなければならないときもあるのです。そして、そのようなところには、しばしば、狼をはじめ獣が潜んでいて、羊をえじきにしようとして隠れています。 したがって、自分たちだけでは、そういうところは怖くて通れません。
わたしたちはあまり羊にはなじみがないので、羊とはどのようなものか、わからない部分があります。わたしたちが羊を見るのは、多くの場合は動物園のようなところでしょう。わたしは、折々に大崎公園に散歩に行くのですが、その一角に動物園のコーナーがあり、羊も散頭いますので、時々見ます。先日も見てきました。確かに、羊の中でも、雄の羊には立派な角かおりますが、でも、敵に対して角で勇敢に立ち向かって戦うということはないようです。羊は大変おとなしく、弱い動物のようで、狼その他の動物のえじきにすぐになります。たとえでも、あの人は羊のようにおとなしい人だなどと言うほどです。
そのため、羊は、よい羊飼いの養いと保護がなければ生きていけないのです。ですから、日が全然当たらない暗い谷間を自分たちだけでは怖くて通って行くことはできません。 しかし、羊にはよい羊飼いがいます。そして、羊飼いは、先端部分に鉄の金具がついている鞭といわれるものを持っていて、獣が出てきたときには、その鞭で戦って、獣を追い払い、羊を守ってくれます。また、柄のところが湾曲に曲がっている杖を持っていて、その湾曲に曲がっているところに羊の首をかけて、自分のところに羊をぐいと引き寄せて、獣から羊を守ってくれます。そこで、羊は羊飼いが自分とともにいてくれること、また、羊飼いが野の獣を撃退する鞭と杖を持っているのを見て、安心して、羊飼いについて、目の当たらない暗い谷間も通って行くことができるのです。
そして、これは、もちろんたとえです。作者は、自分の人生においても、「死の陰の谷」といえるような困難な状況があっても、契約の神の確実な保護により、必ず乗り越えられることを堂々と表明、告白しました。作者は、それまでの人生においても、「死の陰の谷」といえるような困難な状況に遭遇したと思われますが、契約の神の確実な保護により、何回も乗り越えてきましたので、これからも、神の保護により乗り越えていくことができると、堂々と表明、告白できたと考えられます。
そして、ここで素晴らしいのは、「死の陰の谷」、すなわち、人生の大きな困難をも恐れず乗り越えていける理由として、「あなたがわかしと共にいてくださる」と言われていることです。そして、この言い方には、契約の神に対する作者の揺るぎない信頼が光を放っていますが、同時に、読者であるわたしたちも、神が、真実な契約に基づき、自分と共にいてくがさるということを固く信頼し、人生のいろいろな困難を乗り越えていくように力強く励ましていることは明白です。作者と同じように、読者も生きるのです。
そして、また、この4節は、信者が地上の人生を終わり、死を迎えたときの慰めの言葉としても、どれほど多くの人を励ましてきたか計り知れないものがあります。いずれにせよ、今日のわたしたちの人生にも、困難という「死の陰の谷」を行くようなときがあるかもしれませんが、わたしたちも、作者にならい、契約の神が共にいて確実に保護してくださることを信仰によって固く信頼し、人生における困難を乗り越え、詩編23編の御言葉は、わたしにとっても真実であったと告白、表明できるように、神への信頼において円熟を目指しましよう。
3.逃げ込んだ者を快く受け入れてくれる太っ腹な天幕の主人にたとえて歌いました
第3点に入ります。今度は、たとえが変わり、作者は、神と自分の関係を、逃げ込んだ者を快く受け入れてくれる太っ腹な天幕の主人にたとえて歌ったという点です。 5節と6節がそうです。作者は、神をよい羊飼いにたとえ、自分の魂を満たし、養ってくれること、また、人生の困難な時にも、ともにいて保護してくれることを表明しましたが、人生の困難な時にも、ともにいて保護してくれることを、読者に一層確信させるために、今度は、別のたとえを使いました。
では、どんなたとえでしよう。すると、強盗や悪者に追われて助けを求めて逃げ込んだ旅人を暖かく受け入れて保護してくれる大っ腹な主人のたとえと言われるものです。作者は、旅をしているとき、強盗や悪者に追われて助けを求めて逃げ込んだ旅人に自分をたとえ、その旅人を暖かく受け入れ、保護してくれる大っ腹の主人を神にたとえて歌ったのです。具体的には次のようです。旅人が旅をしているとき、「苦しめる者」、すなわち、強盗や悪者に追われ、ヘとへとくたくたになり、飢え、疲れ、助けを求めて、ある天幕の主人を頼りにして、逃げ込みました。すると、その天幕の主人は、寛大で太っ腹でその人を暖かく受け入れ、その人の飢えを満たすため、ごちそうでいっぱいの食卓を用意し、その人の順に歓迎のしるしとしてのオリーブの油のよい香りのする香油を注ぎ、さらに、ぶどう酒を杯に注いでくれ、歓むように勧めてくれたので、その人はぶどう酒を歓んで、心が落ち着き、再び元気が出ました。こうして、太っ腹のその士人は、自分を頼って逃げてきた人を拒否して、辱めることをせず、暖かく受け入れ、まるで自分の長年の大事な親しい対等の友人であるかのように保護して扱ってくれたのですが、これは驚くべき破格の扱いです。
5節に「わたしを苦しめる者」とありますが、これは、旅人を襲う強盗や悪者に追われて苦しんでいる旅人の姿を表すと考えられます。そこで、旅人は、天幕を見つけましたので、逃げ込んでその天幕の主人に助けてもらおうと考えました。当時の中近東、オリエントの習慣は、強盗や悪者に追われて助けを求めて、天幕に逃げ込んできた人を、その天幕の主人が助けて、強盗や悪者から保護するということがなされていたようですが、そのたとえで語られていると考えられます。
こうして、その主人は、自分のテントに逃げ込んできた旅人を、拒否して、危険にさらすことなく、それは大変だったでしょう、もう安心ですよ、さあ食べて飲んで元気を出し、気持ちを落ち着けてください。あなたを強盗や悪者の手に渡すことはしません。わたしが、あなたを保護しますと語って、快く受け入れる太っ腹ですが、この表現で神にたとえているのです。
詩編の作者はそういうことをそれまでにも何度も経験してきたのでしょう。今日のわたしたちも似ています。わたしたちも人生の旅をする旅人です。そして、人生の旅において、あるときには、強盗や悪者に追いかけられて苦しむことにたとえられる困難な状況に置かれることもあります。そんな時に、わたしたちはすぐに神のテントに逃げ込み、そのテントの主人である神に助けと保護を求めるでしょう。その時に、テントの主人である神は、わたしたちを拒否したりはしません。仮に、わたしたちが自分の失敗やミスで苦しんでいても、神は、わたしたちの助けを求める折りを快く受け入れ、解決の道を開いてくださって、わたしたちの大事な人生が崩壊しないように、保護してくださったでしょう。それゆえ、わたしたちは、今日あるでしょう。
これからもそういうことがあるかもしれません。でも、神は、ご自分の天幕に助けを求めて逃げ込んでくる人生の旅人であるわたしたちを、契約の真実のゆえに退けることなく、何度でも快く受け入れ、保護し、また人生の道を必ず開いてくださいます。わたしたちには、大っ腹の主人のような寛大な神がおられることを覚え、安心して人生の旅をしていきましょう。必要なときはいつでも助けを求め、大っ腹の主人である神の天幕に一目散に逃げ込みましょう。
契約の神は本当に素晴らしいお方です。こうして、信者には、「命のある限り」、すなわち、その生涯の日々において「恵みと慈しみ」、すなわち、契約に基づくいろいろな恵みと祝福が、豊かに与えられるのです。そこで、作者は、契約の神を、これからも心から礼拝し、神との豊かな交わりに生きていくことを表明しました。
6節の、「主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう」とありますが、これは、「主の家」をエルサレム神殿と取り、エルサレム神殿での礼拝を通して、心ゆくまで神との交わりをしながら人生を歩んでいくということを意味しているか、あるいは、「主の家」というのを、エルサレム神殿と文字どおりにとらないで、主と心ゆくまで交わりをすることを、この表現で象徴的に表しているかの、どちらかと思われますが、今特に注目したいのは、「迫う」という言葉です。この「迫う」という言葉は、とても強い言葉で、もともとは、 「迫害してどこまでもしつこく迫いかける」という意味でよく使う言葉です。ですから、その意味を当てはめると、恵みと慈しみが、どこまでも作者を迫いかけてきて、作者の人生には、神の恵みと慈しみがいつも伴っているという素晴らしい意味で、神を信頼して歩む者の人生には、契約に基づく恵みと慈しみが豊かに与えられることを力強く表明しています。
それで、ここには素晴らしいことがあります。わたしは、この詩編23編を、数十年間において、何十回も読んできましたし、説教もしてきましたが、今回、初めて気がついたことがあります。聖書は、その都度、新しい発見があります。実は、この作者は、5節で「わたしを苦しめる者」と言いまして、先ほどもお話した通り、自分を、旅の途中で強盗や悪者に追いかけられて苦しみ、天幕に逃げ込んで、その天幕の主人に助けを求めた旅人にたとえました。すなわち、先ほどまでは、この作者は、何に追いかけられていたかと言うと、強盗や悪者に追いかけられていたわけですが、しかし、次の6節になると、強盗や悪者に追いかけられていたことなどどこかに消えてしまい、作者は、自分が神の恵みと慈しみに追いかけられていると記すのです。
ここに素晴らしい大転換があります。苦しみに追いかけられ、神に助けを求め、神と深く親しく密接に交わるうちに、作者は、いつしか、自分を追いかけてきた苦しみは、もう心の内で原則的に解決し、今自分を追いかけているのは、神の豊かな恵みと慈しみであることを実感し、心から感謝しているのです。素晴らしい大転換があります。
実はこれが詩編のひとつの大きな素晴らしい特色です。わたしたちがいろいろな詩編を読んでいきますと、いろいろな詩編で、作者は、最初は、自分は大きな困難に置かれている。神よ、どうか助けてくださいと切実に折ります。敵が迫ってきます。このままでは自分は、倒れてしまいますなどと析っています。ところが、それらの詩編の最後のところに行きますと、神よ、感謝しますとか、神よ、賛美しますと言って終わるのです。
これは一体どういうことでしょう。これが祝福の大転換です。詩編の作者は、困難に出会って、最初は、困難を神にあれこれ折りにおいて申し述べているのですが、神との深くて豊かで親密な交わりの中で熱心に折っている問に、神が必ず自分を保護してくがさるという確信が聖霊により生じ、作者の心、魂、霊魂は平安になり、困難はもうすでに原則的に解決され、先取りして、神に感謝して終わったり、神を賛美して終わるのです。これが祝福の大転換です。
今日のわたしたちも経験する素晴らしいことです。わたしたちも、人生の困難に出会ったときに、神に折ります。最初は、自分は困難に出会って今困っている、神様、助けてくださいとあれこれ申し上げるわけですが、お祈りしていて、神と深く豊かに親しく交流している間に、この困難は、神によって必ず解決していただけるという確信が、聖霊により生じ、心、魂、霊魂は、平安になり、希望が出てきて、不思議に、神を賛美したい思いになることがありますが、それと似ています。このようにして、信者には祝福の大転換があります。それゆえ、困難があっても、神により乗り越えていくことが必ずできます。わたしたちが自分でするのでなく、全能の今生きて働く神が乗り越えさせてくださるのです。素晴らしいことです。
以上のようにして、旧約聖書詩編23編を見ます。ここで描かれているよい羊飼いは神ですが、同時に、ここに描かれているよい羊飼いは、神から遣わされるわたしたちの主イエス・キリストを指し示しています。ョハネによる福音書10章で、キリストは、わたしは、よい羊飼いであると自ら堂々と宣言しておられます。そして、よい羊飼いは、羊であるわたしたちを愛して、わたしたち羊が必要とする一番良いものである永遠の生命を自らの犠牲の死を通して与えてくださることを教えておられます。
本当にそうです。旧約聖書、詩編23偏に描かれているよい羊飼いの条件をえてくだすべて満たしておられる、士イエス・キリストこそ、今日のよい羊飼いです。それゆえ、わたしたちは、神が遣わしてくださったただひとりのよい羊飼いである主イエス・キリストに喜んで従い、いつも御言葉の糧を十分与えられ、聖霊の命の水をたっぷり注がれ、霊的に生かされ、養われ、王であるキリストの確実な保護の下に生涯の日々を歩んでいきたいと思います。恵みと慈しみがいつもわたしたち一人ひとりを追いかける価値のあるよい人生をこれからも送りましよう。
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