説教の日本史的意義

                         南浦和教会牧師 佐々木稔

 実は、今年の3月の埼玉東部地区教師会での説教に、わたしがあたっていたのですが、都合が悪くて出席できず失礼しました。それで、今回に変えさせていただきました。

 短くお話させていただきますが、説教とういうよりは、奨励あるいは証のかたちで短くお話させていただきたいと思います。題は「説教の日本史的意義」です。

 考えてみますと、わたしは、牧師となりまして、37年ほどになります。キリスト教とは特に関係のない家に生まれましたが、大学1年のときに大学の聖書研究会に入り、さらに、単立の教会に行くようになって信仰をもちました。

 大学4年生になったときに、単立教会から盛永先生が牧師をしていたCRC花小金井伝道所に変わりました。

 そして、ヨハネ21:9で、キリストが、ペトロに3度わたしを愛しているかを確認した後、わたしに従いなさいとい言ったみ言葉を自分の召命のみ言葉として、牧師になるため、神学校に行きました。

 卒業後、テマー宣教師とCRC東京高島平伝道所で働きまして、そのときから、神の言葉の説教、キリストによる救の説教を毎週主の日に講壇から始めました。

 説教は大変ですが、充実感もあり、祝福もとても大きなものがあると思っています。毎週主の日に講壇から説教する者に導かれて、本当によかった感謝しています。

1.

 それで、今日まで、どのくらい説教してきたかと思うのですが、わたしは説教は一言一句、しっかり原稿に書いて説教するタイプで、説教も奨励も、すべて原稿が取ってあります。

 それで、今日まで、説教ファイルが100冊以上あります。150冊近くあると思います。わたしの背の高さ以上あります。

 それで、わたしは、よく笑って言うのですが、トマス・アクイナスは背の高さ以上本を書いたと言われますが、わたしもらくに背の高さ以上の説教原稿があります。

 もちろん、質、内容は違います。トマス・アクイナスは大神学者であり、わたしは、一人の平凡な牧師ですが、質を問わなければ、一人の人が若いときに恵みにより救われ、生涯牧師として神の言葉を説教すればらくに背に高さ以上の分量の神の言葉を説教するということがわかります。

 日本には沢山の作家がいます。そして、夏目漱石全集全何巻、芥川竜之介全集全何巻、その他だれそれの全集全10巻、全20巻とかありますが、牧師はもっと多いですね。分量から言えば、全10巻や20巻どころではない。数十巻になるでしょう。

 ですから、一人の牧師がいて、生涯、神の言葉、福音、キリストによる救いを語っていくということはすばらしいことだと思います。

 分量的には膨大です。どうして、そんなことができるかというと、神の言葉である聖書というものがあって、それを解き明かす、expositionするからです。

 説教は、牧師が自分自身の勝手な考えを語るのでなく、あくまで神の言葉である聖書を解き明かすから、行き詰まらないで何十年間も語り続けることができるのです。

 作家の場合は、自分自身の考えでやるわけですから、そこが牧師の説教と違うところです。牧師の説教はあくまでみ言葉である聖書の解き明かし、すなわち、解説と適応です。

2.

 そこで、牧師は、聖書が神の言葉であるとの強い確信をもっていることがたいせつになります。聖書は、神の言葉、特別啓示で神の権威がり、信仰と生活の唯一の規範、rugula  fideiであるとの強い確信が大切です。

 もちろん、わたしも、神の言葉としての聖書を確信していますが、このことについてはよい導きがありました。カルヴァンは「キリスト教綱要」の中で、「聖書はアウトピステスである」とあると言っています。アウトピステスとは、もともとギリシャ語で、それ自身で信じられるべきものという意味です。わたしは、聖書はそれ自身で信じられるべきものと聞いたとき、なるほどと思いました。

 また、わたしは、オランダのヘルマン・バーフィンクの「改革派教義学」をオランダ語で読みましたが、バーフィンクが、わたしたちは、聖書に対して「子供のような信頼」をもつべきであると言っているところを読んだとき、とても教えられました。

「子供のような信頼」とはオランダ語でkindlijk geloof(キントリーク・ヘローフ)と言いますが、博学極まりない改革派の大神学者のバーフィンクが、聖書は神の言葉であるから、聖書に対しては、わたしたちは、子供ような信仰、信頼をもつべきであると言っているのを知ったとき、とてもびっっくりしましたが、わたしの心にとてもよく入りました。

 また、ウェストミンスター信仰告白の第一章の「聖書は記された神のみ言葉」というところを読んだときも、わたしの心によく入ってきました。

 そして、また、オランダのベルクーワの聖書論を読んだとき、マタイ4章で、キリストは荒れ野で、サタンの試みを受けたとき、「聖書には~と書いてある」という言い方で、書かれた聖書に絶対的信頼を置いていたが、その姿勢を信者はもつべきであるとベルクーワが言っているのを読んで、なるほどと思いました。

 そのようにして、もちろん、わたしも、聖書を神の言葉を確信して、説教してきました。

3.

 それで、では、日本の歴史における説教の意義はとは、どんなものでしょう。すると、日本人の原質を根本から変革して、真の神を賛美して生きる人生に変えるという意義になると思います。

 ウェストミンスター小教理問答第一問の答えを使えば、神を知らずして、罪の中に生まれ、罪の中に生き、罪の中に死んで行く日本人を、神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶ人生に、生き方、価値観に変えていくという非常に豊かで深い根源的意義をもっているでしょう。

 日本人もちろん罪人で、太古の縄文式時代や弥生式時代から罪の中にあって、神なくの望みなく生きています。確かに、日本にもいろいろな宗教があります。神道、仏教、民間信仰、新興宗教などいろいろあります。そして、日本にも法然、親鸞、日蓮、道元、空海などすぐれた宗教思想家がいるわけです。

しかし、牧師はそういう人とは違うのです。あくまで、神が遣わしてくださったキリストにおける救いを聖霊の働きによって、聖書の解き明かしとして語り、伝え、広めて、日本人の生き方、価値観、人生観、世界観を根源から変えていくのです。一言で言えば、日本人の原質を根源から変えていくのです。

これは、人間的にはとても難しい作業です。日本人の古来からの価値観には合わないことです。人格をもたれた真の神がいて、人間をはじめ万物を創造した。そして、その神の前に人間は罪を犯して罪人になった。それゆえ、そのままでは、真の幸せはないので、神が遣わしてくださった十字架上で死に、さらにその後復活したイエス・キリストを救い主として信じて、罪赦され、救われ、永遠の生命を与えられて、神を賛美する人生に立ち上がらなければならないという聖書の教えは、日本人には全く異質のことです。

日本人に異質のものが二つあるとはよく言われます。それは、キリスト教と共産主義だと言われます。確かに、共産主義は、日本人にとって異質でしょう。日本が共産主義に変わることは難しいでしょう。

キリスト教ももうひとつの異質であると言われます。確かに、キリスト教は異質でしょう。人間的に考えれば、万物創造だの、キリストの受肉だの、奇跡だの、復活だのでは受け入れにくいでしょう。

しかし、わたしたちは、説教を聞く人々の心に聖霊が豊かに働くことを信じて説教することが違います。人の力で回心させるのではなく、聖霊なる神御自身が、み言葉と共に、み言葉を通して豊かに働いて、再生させ、聖書の教えを受け入れ、永遠の命に立ちあがらせる人を起こしてくださるのです。ここに、わたしたちの説教の大きな確実な希望があります。

そして、実際、説教を聞いて、人々が救われ、また、既に信仰をもっている人々が霊的に養われていくわけです。こうして、日本人も、福音の説教を聞いて、神に造られた真の人間としてはじめて回復されるのです。

それゆえ、説教の日本史的意義というのは、とても大きいのです。太古の時代から、神なく望みなく、罪の中に生まれ、罪の中に生き、罪の中に死んでいく日本人の原質、もともとの質を根源から変えていく根源的作業です。

4.

日本人の原質を根源から変えていく作業は、一人の牧師ではできないことで、牧師たちがみんなでやっていくのです。

 

日本伝道を一人でできる牧師などいません。多くの牧師がいて各々の群れのため主の日ごとに講壇から説教していくことによって、伝道がなされて救われる人が起こされ、また、信仰が養われるのです。

 それゆえ、どの牧師も21世紀の日本伝道を担い、支え、参加し、推進しているのです。一人ひとりの牧師が、一生懸命やることで、21世紀の日本伝道が支えられ、担われ、推進されていきます。

 そして、これは、日本伝道だけでなく、世界伝道も同じです。世界伝道を一人でできる人はいません。世界に大神学者がいても、だからといって一人で世界伝道をしているわけではありません。

 世界に牧師や伝道者が数え切れないほど沢山いて、一人ひとりの牧師や伝道者が、自分が置かれたところで一生懸命やっているので、世界伝道が支えられ、担われ、推進され、成り立っていくのです。

 わたしが南浦和教会の牧師として一生懸命していることによって、21世紀の日本伝道を担い、支え、推進していることになります。そして、さらに、わたしが南浦和教会の牧師として一生懸命やっていることが、同時に、21世紀の世界伝道を担い、支え、推進していることになるのです。

 こうして、一人ひとりの牧師が、日本伝道に、また、世界伝道に参加し、担い、支え、推進しているのです。そういう大きな豊かな意味をもっているでしょう。わたしは、そういう意識で歩んできました。

5.

そして、日本伝道は、もちろん、一人ではやれません。牧師は、お互いのまじわりで祈り合い、協力し合ってやっていくものです。そのためにも、埼玉東部地区教師会が用いられていけばよいと思います。

 実は、わたしは、20数年前に、南浦和教会牧師として働き始めたときから、埼玉の近隣教会のまじわりを作ることを願っていました。東北本線、また、武蔵野線沿線などの教会のまじわりを願っていましたが、状況が整わずできませんでした。

 しかし、あるときから状況が整ってきました。また、東部中会55周年長期計画で各地区のまとまりを作っていくように表明されました。

 そこで、その他にもあるのですが、状況が整いましたので、数年前から埼玉東部地区教師会ができ、スタートして、とてもよかったと思っています。

 そして、さらに、教師のまじわりを超えて、埼玉東部地区教会間のまじわりに発展していこうとしています。埼玉東部地区のペンテコステ合同集会を開いたらどうかという声も出てきてとてもよいと思います。そのように発展していくことを願っています。

結び

 もうしめくくりをしますが、これらすべてのことを踏まえて、わたしたち牧師は、時がよくても悪くても、主の日の講壇からの神のみ言葉の説教、福音の説教、キリストによる救いの説教に、お互いに、祈り合いながら、これからも励んでいきたいと思います。

 神の言葉の説教が聞けることは大きな恵みですが、神の言葉を語ることも大きな恵みです。また、大きな誉れでしょう。

 説教は大変ですが、罪人である世界の人々の救いの希望、また、日本人の救いの希望がかかっています。この世界が、また、この日本が、どんなに罪深くても、主の日の講壇から、神の言葉、福音の説教、キリストによる救いの説教がなされている限り、希望があります。

 これからも、牧師の第一の務めである説教に、お互いに、祈り合って、励んでいきたいと思います。

    (2007年11月6日 埼玉東部地区教師での会説)

 

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