「特異なことをなす神と特異な人間」

おはようございます。那須清志です!

 ある時、友人の医師が私に尋ねました。「人間は、本来何を食べる動物でしょうか?肉食でしょうか?草食でしょうか?」私は両方食べるから雑食動物かなあ、と思っていると、「果食動物」とおっしゃるのです。果物を食べる動物という意味です。内臓の様子を見ると、人間とそっくりの動物はチンパンジーだそうです。チンパンジーの主食は果物です。ある学者は果物からだけでも人間は栄養を得ることができるといいます。「りんご一個が医者を遠ざける」という英語のことわざもありますが、本当に驚きですね。私は前にも増してフルーツが大好きになりました!実は旧約聖書の創世記に人類が造られたときのことが記されています。最初の人、アダムとエバはエデンの園に置かれたました。そこには「見るからに好ましく、食べるのによいすべての木」がありました。その果物が主食だったのです。現代医学から見ても、それらが単なるおとぎ話や神話で片付けてはならないということがわかるのではないでしょうか。


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 では、いつごろから人間は肉食を始めたのでしょう?それについても聖書は情報を提供しています。全世界的規模の洪水が起こり、地球の環境が大きく変わった頃です。このように聖書は、今の人間は元々造られたときとはかなり違う状態に置かれていると語っているんです。今日は、人間が置かれている特異な状況、特異な点について考えていきましょう。

人間だけが霊の苦しみを味わう

 第一に、人間だけが「罪と良心の呵責」を持っています。
 さきほど人間の内臓とチンパンジーの内臓はよく似ているといいましたが、人間の祖先はチンパンジーだと言っているのではありません。そう考える人もいます。それは進化論というものです。しかし、聖書は創造論です。チンパンジーはチンパンジーとして、人は人として神によって造られたといいます。同じ地球環境に住むものとして造られるのであれば似ている部分も多い事でしょう。ちょうど車を作れば、どのメーカーが作ってもタイヤは四つ、ハンドルは一つが普通で、構造もよく似ているのと同じです。人間とその他の動物が決定的に違うのは、人は創造主なる神と交わるために「霊」というものを与えられたということです。ところが、創造主のもとから人間は離れていったのです。霊的に神にそむいたのです。その状態のことを聖書は「罪」と呼んでいます。「罪」を抱え込んだ人間は、心や肉体にさまざまな影響が現れるようになりました。イエスのことばによると「悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、高ぶり、愚かさ」と言ったものです。罪の状態にある人間は「本来の姿」ではありません。人間はこのような罪やその思いに翻弄されると同時に、そんな罪から離れたい、理想の姿に戻りたい思うのです。あたかも魂の奥底に「本来の姿」の昔の記憶をとどめていて、それにあこがれているかのようです。人間は善と悪、汚れときよさの間で揺れ動く特異な存在なのです。このような状況は霊を持たない他の動物たちには起こりません。

救いを用意し待っておられる神

 第二の特異な点は、神の救いに招かれているということです。
 聖書はよく「罪」のことを「病気」に例えています。病気は本来の健康状態ではありません。病気になれば直そうとします。しかし、治る病気と治らない病気がありますね。罪という病気は、自分では治せない病気であるというのです。そして肉体の病気が肉体の死をもたらすように、霊の病気は「霊の死」をもたらします。霊が死ぬと、聖書で「ゲヘナ」と呼ばれている、永遠の裁きの場所に行かなければなりません。正義なる神が悪を裁かれることは、聖書では常識として扱っています。ところが、人間はすぐに裁かれずに執行猶予が与えられているのです。それどころか、神は人間をその永遠の裁きから救い出すために救いを用意してくださいました。それはイエスの十字架と復活によって人類に示されたのです。
 みなさんは「稲むらの火」という話をご存じでしょうか。江戸時代末期、安政南海地震が起きたとき、和歌山県のある小さな村の村長の五兵衛は海の様子が異様であることに気付きました。津波がくると予感した彼は、刈り入れ後の稲穂を積み上げた稲むらに火を放って村人たちの注意を促し、高台に避難させようとしたのです。火を消しにやってきたの農民たちが振り返ると村は津波に飲まれ、自分たちが村長の犠牲的な行動のおかげで助かったことがわかったのです。
 では、神が用意された救いとはどのようなものだったでしょう。神は救い主イエスをこの地上に遣わし、人間の身代わりに十字架の上でイエスを裁かれました。イエスは持ち物を捧げたのではなく、命そのものを捧げてくださいました。また、命を失う前に壮絶な苦しみをも味わってくださいました。私たちが味わわなければならなかった罪のゆえの痛みを、代わりに痛んでくだったのです。そしてイエスは死後三日目によみがえられました。この救いが単なる考えや思想ではなく、真理であることを示すためです。この完全な救いが用意され、それを受け取るように招かれている、それが私たちなのです。この救いを受け取るチャンスは、私たちが地上に命を与えられている限り、いつでもあるのです。これは人間だけに与えられた特異な立場です。

神の願いは人間と共に歩むこと

 第三の人間の特異な点とは、神との特別な関係に入ることができる、ということです。
 神が用意された救いを受け止めるとき、罪が赦され、永遠の命が与えられます。しかし、これは病気に例えると、病気が治って、医者と元患者という関係が続くということになります。ところが、神は救いを与えた後、私たちと共に歩むことを願っておられます。その関係は結婚にも例えられています。喜びも悲しみも、楽しみも苦しみも共に味わいつつ、この地上の人生を神と共に歩むということです。この地上の歩みが終われば永遠の世界での歩みが続きます。これは後から考え出された作り話ではありません。聖書が究極の希望として何度も語ってきた人間の理想の姿なのです。
 先ほどの「稲むらの火」の話は実話がもとになっています。実際の話では、主人公は村長ではなく、商人であった濱口儀兵衛です。稲むらに火をつけたのは、津波の後で、煙を使って避難経路を村人に示したといいます。伝えられてゆく中で、そのような事実との違いはさほど問題にされませんでした。私は初めてそれを知った時、ちょっとショックだったのですが、まあそれでもいいんです。濱口儀兵衛は後に私材を費やして大防波堤を作るなど犠牲的精神で村人のために尽力したからです。その功績はやはり偉大で、尊敬されるに値する人だったのです。

イエスは単なる理想の人ではない

 ではイエスの場合はどうでしょう。イエスはりっぱな生涯を送ったので、この方を模範にしてより良く生きていきましょう、といっているだけなのしょうか?また、少々事実と異なっても構わないからイエスのなさった良い事を語り伝えて、功績を讃えていこう、というものなのでしょうか。そうではありません。聖書が語るのは、イエスこそ今も生きておられる唯一の救い主であるということです。この方だけが私たちに救いをもたらし、地上の人生のよきアドバイザーとなってくださるのです。そして、今でも多くの人がこの生けるイエスと出会っているのです。
 ぜひ、みなさんもイエスを信頼し、この方の思いを聖書を通じて教えられ、共に歩む人生に入ってくださることをおすすめしたいと思います。

 

http://www.biblegospel.org/zen2/z626.html